パラリンピック中止論について

オリンピック・パラリンピックに関して私は、招致の段階から否定的な気持ちを抱いてきた。福島第一原子力発電所の事故処理は「アンダー・コントロール」だとされ、開催費用は「コンパクト」な規模であり、多大な経済効果が見込めると声高に喧伝されていたからだ。そうしたオリンピックから得られる「メリット」は結果的に、「復興五輪」という文言が消え、総費用は膨らみ、無観客での開催を余儀なくされたことで全て潰えてしまった。

そして商標上の都合で変更ができない「2020」という数字を、2021年に開かれている大会に使用していることが、この祭典の巨大さ・融通の利かなさを象徴している。

だからこそオリンピック・パラリンピックを開催することは一大事であり、当然ながら責任が伴う。大会を開くと決定したのであれば、最も振り回される当事者である選手の邪魔をしないことが、反対意見を持つ私のような人間ができる唯一のことであろう。たとえその決定を下したのが、信用することの困難な為政者であったとしても。

そうした中、感染拡大が進行していく現状を受けて「パラリンピックを中止にしたらどうか」論が出てきている。

このツイートで金子氏は、
①パラリンピック中止は直ちに障害者差別を意味しない
②なぜなら障害者は感染症に脆弱な可能性が高いからだ
③ゆえに中止を視野に入れて検討する必要がある
と述べている。

まずこのツイートで前提となっているのは、金子氏の主張はパラリンピック中止に重きを置いているという点である。けれどパラリンピック中止をただ主張しただけでは、障害者の大会だけを中止するという選択肢を示したことで健常者優遇/障害者差別というレッテルが不可避のため、①のエクスキューズが付けられている。「丁寧」という言葉は、開催の検討を行う決定者だけでなく、金子氏のツイートを読む受け手にも向けられていることだろう。

だが、オリンピックとパラリンピックはそう簡単に切り分けられるものなのだろうか。私自身大会について全く知識はないが、基本的にオリンピックとパラリンピックは合わせて1つの大会であり、開催するという決断は最後まで競技を行うことが原則だろう。それを途中で中止するというのは、例えばオリンピックの100メートル準決勝が終わって決勝戦が始まる直前で中止が宣言されるのと原理的には変わらないのではないか。

もちろん極端な例ではある。が、アスリートにとっては試合だけが彼らの活躍の場ではなく、そこに至る膨大な練習準備期間が伴っている。ましてや1年延期を受けて再調整を余儀なくされたパラリンピック選手たちが、開催直前で中止を言い渡されるとしたら、存外かけ離れた思考実験とも言えないだろう。

さらに②では、「障害者=弱い人間である」という図式が拭い難く再生産されているように私には見える。もちろんツイッターの特性上、字数制限の制約は免れないという問題はある。だがもし、金子氏が「障害者=弱い人間である」という認識を持っているのであれば、それこそ偏見に基づいた意見だと私は思う。そもそもオリンピックに出場している「健常者」だって基礎疾患があるかもしれない。様々なリスクを考慮して「健常者」も「障害者」もこの大会に向けて準備を進めてきている。そんな彼らの努力を、「障害者の命を守るためだから」というエクスキューズをつけて中止を促すのは果たして正しいのだろうかと考えてしまう。

なぜこうした「パラリンピック中止」論が主に「リベラル」とされる人たちの口から発せられてしまうのか。

本当にこれから始まるパラリンピックに出場する選手を憂うのであれば、「国民の皆さん、外出を控えて市中感染を抑えましょう」と呼びかけるのが常識的な言論活動のはずだ。だがこの言葉を発した瞬間に、その発言者はオリンピック翼賛者の一人と見做されてしまい、いわゆる日本で「リベラル」とされるコミュニティからは距離が生まれる。ゆえに苦肉の策として、パラリンピック中止を「障害者差別」ではないとエクスキューズを付け、「障害者=弱い人間である」という大衆心理に刻まれているバイアスを駆動させることで、「弱者」を慮る「リベラル」としての矜持を保とうとしているのではないか。

その綱渡り的な言葉の連なりも、結局のところ「障害者=弱い人間である」というバイアスの再強化を免れることはできず、行き着く先は「障害者差別」を助長する根拠となる。


私が思うのは、大会の開催という決断が下され多くのアスリートや関係者が参加し、100メートル走の途中で大会中止ができないようにオリンピックはやりパラリンピックだけ止めるという選択肢がない以上、オリンピック外の感染拡大を抑えることが私たちにできる唯一のことであり、その市中感染の抑制はオリ・パラ以降でも求められ続ける最も重要な選択肢だということだ。そして医療資源の拡充を求める言葉を政治や医師会に投げかけることこそが、社会的発言力を持つ人々にこれまで以上に求められている。

パラリンピックをめぐる言説によって、障害者に向けられる偏った認識があぶり出さたのが、本来マイノリティに寛容とされる「リベラル」側であったとは皮肉以外の何物でもない。金子氏以外のいわゆる「リベラル」とされる言論人の方々には、無理なロジックを組み立てるために「障害者=弱い人間である」という図式を使わない言論活動を行っていただきたいと切に願うばかりである。



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