見出し画像

徒然25|今日も今日とて陰気でいやんなっちゃう

ずっとこんなことばかり書いていて、読んで下さる方には申し訳ないと思うのだけれど、今回も陰気な思考の棚卸しを取り留めも無くさせて貰おうと思う。面白いことは全くないです。散漫です。

書くことで、少しでも自分の中を整理したいだけです。


こんな状態良くない、よくない、と思いながら生活している。

コロナの影響で、世界的に色々な対策が取られているこの時期に、私は私のことばかり考えて生活している。

振り返ってみたら、もうずっとずっとそうだった。

入院だとかそんなこと関係なく、その前からそうだった。

恥ずかしい。

恥ずかしいけれど、だからしゃんとします、とは言えない。

入院してみて自覚したのだけれど、他人の意見や意思を受け止める容量が、ずいぶん少なくなっていたようだった。これはもともと、私が持っている心の広さが狭いのかもしれない。

noteを含め、SNSをみることも減った。

病院では休息も必要なんだ、と思えたし、ノートパソコンの代わりに持って行ったタブレットと小さなキーボードが思いのほか使いづらく、院内LANにも繋がりにくかったから、ときどき思ったことを「つぶやき」に「入院日記」として書き、満足していた。(そのあとあんまりにも繋がらなくて、ポケットWi-Fiを契約して持ち込み、余裕があるときはTwitterやnoteを読んだり、ソーシャルゲームをしてみたり、たまに動画もみたり好きにしていた)

私が入院していたのは大学の附属病院で、3月末に医師の異動がある。主治医を含め担当医は全員異動予定だった。
加えて、4月からの担当医はその時にならないと分からないとのこと。
入院時に、それまで2年程していた外来通院での記録が主治医に渡っておらず、薬の調整についても聴いていた話とはズレがあり、また、入院後に受けたちょっと変わったカンファレンスで気持ちをおおきく削られた感覚があって、診察以外の時間を病棟で過ごすことがしんどくなっていた私は、もっとも面倒な副作用の出る薬の調整を3月末までに終わらせてもらい、そのタイミングで退院することにした。

+入院中にしたこと+

薬の調整

入院期間中で最低限できることはしてもらった。ADHDの薬だけに減薬、不安などに対する抗うつ剤などの見直しをし、頓服を含め最低限に。
ADHDの薬、インチュニブを副作用の出ない最大量に。
(→効果は体感できていない)

休息

昨年実家に戻り、無自覚なものも含め、家族との生活で蓄積していたストレスのリセット。

+

入院後も、何かしら良い手応え、結果を出さねばならないという意識が強く、休息にならないと指摘を受ける。

実際、薬の調整以外でも今後に繋がる活動に参加できないかなど、常に気にして参加などしていたが、病院と家の距離が遠いことなどから実際に退院後続けられるプログラムはなかった。

カンファレンスの準備では、主治医に約2週間かけて、生育歴を詳しく尋ねられた。
成長してきた過程では、私にも当時の私なりの考えがあり、状況と葛藤してきたつもりだったが、改めて主治医に質問されながら話す自分の生育歴は随分、子供っぽい我儘や我慢、努力の足りなさがあったように思え、陳腐にすら思えた。
自分が今までいかに何もしてこなかったか、どれだけ失敗を重ねてきたか、それをリカバーすることをしてこなかったか、そもそもの能力が低いことなど欠点ばかり思い出し、拾いだすような作業だった。正直、毎回頭痛がし、夜になると忘れていた失敗や投げ出したり逃げ出したりしたことの記憶がよみがえってくるようになり、辛かった。この先どうしていいか、どうにかできるのか、いや、どうにもならないのではないかという不安がずっとつきまとうようになった。今後どうにかなるなんて、どうして思えていたのか、笑っちゃうくらい何もできなくて、今もできない自分を、どうしていいのか、分からなくなってしまった。

今も正直わからない。わからないけれどどうにかしていかなくてはいけないのだという焦りが常にある。

こういう思考の仕方を多分変えていかなければいけないんだと思う。
自分でまず自分を認め、こういう自分でもいいのだと思わなければいけないんだよね。どうしたらいいんだろう。顔洗ったからえらい、スクワットしたえらい、風呂入ったえらい、味噌汁作ったえらいとかどこかに書いていけばいいだろうか。書くことが起きた食べた出しただけになってもいいんだろうか。

同時に、しなければ思うことに対して意欲を持てない。

抑うつ状態だとは言われているからそういうものなのかもしれないが、しなければいけないと思うことに手がでない。

読もうと思っていた本に手が出ない。無理に読み始めても、内容が入ってこないか、「入れたくない」と思ってしまう。

退院後は、以前よりTwitterなどのSNSを読むことが怖い気がするし、放って何にも分からなくなる(そもそも、沢山交流をしているわけでもないのに)のも怖い。

noteを読む量が減っていることに焦りとさみしさを感じる。

それでも、ときたま読むnoteに気持ちを救われている。

もともと、たいしたことを書けないのは分かっているが、noteを書かなくなりそうなのがこわい。

でもnoteに縛られているような感覚も嫌。

陰気な内容ばかり書き続けているのも嫌だ。(でも、創作が得意なわけでもないしこんなことくらいしかかけないのかもしれない。)

+

今、してみていることも書いてみる。

・朝起きて、夜眠る

・食事を減らしすぎない

・超・簡単な筋トレ

・手帳に体調や気分をメモする→気分が好転した行動、悪化した行動

・くだらないと思うことでも、なんでもやってみる(漫画を読む、テレビをみる(普段あまりみない)、ゲームのログインだけでもする、料理)

・怖いと思ったSNSやニュースはみない

これくらいだ。後はたまに鉢植えをいじっている。

皆それぞれに必死で生きている。私はそれをなんだかんだ理由をつけて何もせずながめているだけなんじゃないのか?と思うこともある。
外出制限がある今だけれど、将来のために勉強や体力づくりや、調べものなどすることは沢山あるはず。

それをしないのは怠惰なだけではないのか。

逆にまだちょっとからだとこころがつかれている、ゆっくりやすみながらいこう、と割り切れないものなのか。

うだうだしちゃって、自分ばっかりたいへんそうにしちゃって、いやあね!

辛いことがあって、精神的疾患といわれるような状態になっても、回復する人と、その状態を長く引き摺ってしまう人がいる気がする。私は後者なんだと思う。でも、現状は変えていきたい。変えていく力をつけたい。

自分は自分、他人と比較せず、マイペースで。

言うのは簡単なのに。気にしているのは誰より自分なのに。

しっかりしろ。ああ、プールに半日くらい、浮かんでいたい。





もしもがあったら、読むことに繋げたいです。