アニメの本質的発展には何が必要か?(詳細版)

0.はじめに

本稿を、我が内なる客観性の神に捧げる。

本稿(以下、「詳細版」)は、「アニメの本質的発展には何が必要か?」(以下、「通常版」)の3節「本論」における議論を通常版より更に客観性を意識しつつ詳細に行い、また新たに末尾に7節「余談 神について」を加えたものである。それら以外の節は、通常版と同じであるため省略してある。本稿の言わばメインコンテンツは、「3.本論」と「7.余談 神について」である。通常版は、本稿公開時点(2020年6月1日)では未公開である。

1,2節


(通常版と同じであるため省略)

3.本論

本稿の序盤で最初に提示した問いは次の通りである:

問い(イ): アニメの本質的発展には何が必要か?

この問い(イ)を、前節の内容を踏まえ、本稿の問題意識をより正確に反映するように修正すると次のようになる:

問い(ロ): 既存アニメ作品群よりも本質的に優れたアニメ作品群が制作されるには何が必要か?

いきなり問い(ロ)について考えるのはハードルが高いので、まず問い(ロ)を次のように改変する:

問い(ハ): 以前の工業製品に比べより優れた工業製品が生まれるためには何が必要か?

問い(ハ)は、問い(ロ)よりも幾分答えやすいはずだ。工業製品の進歩はアニメの進歩に比べ明瞭であるからだ。アニメが進歩しているかについては、主観の影響が大きく、最新の作品を好む人が多数派である中、少なからぬ人が「昔の作品は良かった」というほぼ反対の意見を持っている。しかし、工業製品の進歩については、性能の数値などの客観的な基準を設けることができるため明瞭に判断できる。

そして、問い(ハ)では、問い(ロ)に対し、「アニメ」の「工業製品」への言い換えと、「本質的に」という条件の削除という2つの変更を加えている。このため、問い(ハ)への正しい回答は問い(ロ)への回答としても正しいとは限らない。しかし、問い(ハ)への正しい回答が次の問いへの回答としても正しければ、その答えは問い(ロ)に対しても正しいはずだ:

問い(ニ): 高度人工物カテゴリが発明されるには何が必要か?

問い(ニ)にある人工物カテゴリとは、アニメや社会組織など、具体的な人工物を複数内包している概念である。例えばアニメは「もののけ姫」や「新世紀エヴァンゲリオン」などの具体的なアニメ作品(人工物)を複数内包しており、社会組織も「国土交通省」や「日本赤十字社」のような具体的な社会組織(人工物)を複数内包しているため、アニメも社会組織も人工物カテゴリである。そして高度[注1]人工物カテゴリとは、人工物カテゴリのうち高度なものだ。人工物カテゴリのうち高度なものと高度でないものの境界は曖昧だが、アニメや社会組織は明らかに高度な部類に入り、石器や竹槍は明らかに高度でない部類に入る。

注1
: なぜここで、人工物カテゴリのうち高度なものに限定しているかというと、本稿の後の部分で行う思考実験のためだ。その思考実験によると、高度人工物カテゴリの発明には相応の高度な知識が必要であると言うことはできるが、高度でないものも含めた全ての人工物の発明には知識が必要であるとまでは言いきれない。

問い(ハ)と問い(ニ)の両方に対して正しい回答は、問い(ロ)に対しても正しいが、これが何故かを説明しよう。問い(ロ)には、「アニメ」の「工業製品」への言い換えと、「本質的に」という条件の削除という2つの変更が加えられ、それにより問い(ハ)が生まれている。このうち言い換えによる差異を解消するのが、問い(ニ)の「高度人工物カテゴリが」の部分である。アニメも工業製品も高度人工物カテゴリの下位概念であり、上位概念が持つ性質は必然的にその全ての下位概念も持つことになる。そのため、高度人工物カテゴリが発明されるために必要な条件は、アニメが発明されるためにも、また工業製品が発明されるためにも必要な条件である。よって、問い(ニ)の「高度人工物カテゴリが」の部分は、「アニメ」の「工業製品」への言い換えを解消する働きを持つ。

一方、問い(ロ)の「本質的に」の条件の削除を解消、つまり条件を再び付与するのが、問い(ニ)の「発明されるには」の部分である。本質的発展とはあるものの本質的価値が増加することでその全ての副次的価値が増えることであり、また発明とはあるものの価値が無から有になる変化と言える。そのため発明では当然本質的価値も増えているはずだ。したがって発明と本質的発展は、「発明は本質的発展に含まれる」という関係にある。何故、問い(ニ)で「本質的に」という条件を再度付与せず「発明されるには」という条件に変えたかというと、本稿の後の部分で思考実験を行うためだ。本稿では後ほど、問い(ハ)の検討で仮説を形成し、その後その仮説が問い(ニ)に対しても正しいかを検証する。この検証の際に思考実験を行うが、「本質的発展」の場面を直接想像することは少なくとも筆者にはできなかった。そこで、本質的発展よりも具体的である発明の場面を想定する。そのため、問い(ニ)では思考実験に合わせて「本質的に」という条件を「発明されるには」に具体化している。

ここで注意しておくべきことがある。発明は本質的発展に含まれるものだが、本質的発展には発明だけでなく漸進的発展も含まれる。そのため、発明についての正しい言明は全ての本質的発展についても正しいとは限らない。発明はあるものの価値が無から有になる変化であり、漸進的発展はあるものが持つ全ての種類の価値が増える変化である。そして、発明と漸進的発展は同じ「本質的発展」に属していることにより共通性質を持っている。そのため、発明に対する正しい言明が、本質的発展の共通性質に基づいているのであれば、その言明は発明だけでなく同じ共通性質を持つ漸進的発展を含めた本質的発展全体に対しても正しいことになる。つまり、「発明に必要な条件」に備わる必要性が、本質的発展の共通性質により生じていれば、その条件は本質的発展にも必要である。「「発明に必要な条件」に備わる必要性が、本質的発展の共通性質により生じている」ことを、共通性制約と呼ぶことにする。問い(ニ)の回答は、共通性制約を満たすものでなければならない。

共通性制約: 「発明に必要な条件」に備わる必要性が、本質的発展の共通性質により生じている

では、問い(ハ)について考えよう。以前の工業製品に比べより優れた工業製品が生まれるためには何が必要か? コンピュータや航空機など多くの工業製品は現在その草創期に比べ、性能の向上や価格の低下など多くの点で大幅な発展を遂げている。そしてこれらの製品カテゴリの発展は、既存製品群よりも優れた性質を持つ新しい製品がカテゴリ内に生まれることで生じている。この新しい製品の誕生は、それらが設計・製造される際に依拠している知識の発展に深く依存している。たとえば新しい高性能コンピュータの誕生は電子工学や計算機科学などの発展なしにはありえないものだし、新しい高性能航空機の誕生も、航空力学や材料工学などの発展なしにはありえない。また、これらの発展の事例では、前述のような学術的で一般的な知識だけでなく、過去の製品群の実用から得られた利点・欠点などの知識や、部分的には、設計者・製造者の直感的判断が依拠する所謂「暗黙知」[注2]のような特殊な知識も、発展に貢献しているだろう。このことから、問い(ハ)「以前の工業製品に比べより優れた工業製品が生まれるためには何が必要か?」には、「制作の際に依拠している知識(以下、制作知識)の発展」が必要と、答えることができる。以降では、「制作知識の発展」を、「制作知識の創出」と言い換える。本稿の議論において、この2つは同義と見なしてよいだろう。

注2
: 暗黙知とはもともとハンガリー出身の物理化学者・社会科学者であるマイケル・ポランニーが考案した概念だが、後に、経営学者の野中郁次郎氏によって意味がアレンジされている。wikipediaの「暗黙知」の項目(2020年3月28日閲覧)によると、野中氏は暗黙知を「経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの」と定義しており、本稿もこの定義に従っている。なお、本稿ではこの後「形式知」の概念も出てくるが、この定義について本稿ではwikipediaの「形式知」の項目(2020年2月28日閲覧)に従い、「主に文章・図表・数式などによって説明・表現できる知識」とする。

前に述べたように工業製品はアニメ同様高度人工物カテゴリである。そのため、問い(ハ)について工業製品の事例をもとに考えて出した回答である「(制作の際に依拠している)制作知識の創出」が、問い(ハ)にある工業製品に限らない全ての高度人工物カテゴリについても正しく[注3]、またその回答が、全ての高度人工物カテゴリが発明されるための条件でもあるのならば[注4]、その回答は問い(ロ)の回答としても正しい。つまりこの問い(ハ)への回答が問い(ロ)に対しても正しいかを検証するには、この回答が問い(ニ)すなわち「高度人工物カテゴリが発明されるには何が必要か?」に対しても正しく、また共通性制約を満たしているかどうかを調べることで行われる。では、次のような思考実験を行って調べてみよう。

注3
: つまり、問い(ロ)から問い(ハ)への変更で行った「アニメ」の「工業製品」への言い換えを元に戻しても答えとして正しければ。

注4
: つまり、問い(ロ)から問い(ハ)への変更で削除した「本質的に」という条件を「発明されるには」に変更し再度付与しても答えとして正しければ。

ある生まれて間もない赤ん坊が、森の奥深くに置き去りにされた。この赤ん坊はこのまま死んでしまうように思われたが、幸いな事に野生のオオカミに助けられ、生き延びることができた。やがて赤ん坊はオオカミに育てられたオオカミ人間として、森の中で生きるのに十分な知識を学び、一人立ちするに至った。そしてこのオオカミ人間はオオカミに拾われて以降の一生を、文明から隔絶された森の中で過ごした。このオオカミ人間に、アニメのような高度な人工物を発明することはできるだろうか?[注5]

注5
: この記述内容はフィクションの思考実験だが、wikipediaの「野生児」の項目(2020年5月14日閲覧)によると、人間が文明から隔絶された環境で育った事例は複数実在するようである。

答えは明白に「不可能」である。なぜなら、アニメのような高度な人工物の発明は文明の中の非常に多くの知識に依存しており、オオカミ人間が高度な人工物を発明するには制作知識の創出が必要であるためだ[注6]。例えばアニメの発明には少なくとも映像装置の発明が不可欠であり、1891年にエジソンによって世界初の映像装置であるキネトスコープが発明される、つまり映像装置の制作知識が生み出されるより以前にアニメが作られることはありえない。そしてキネトスコープもまた、それが発明されるまでの、先史時代まで含めた長い歴史において積み重ねられてきた膨大な知識が無ければ発明されえないものだ[注7]。オオカミ人間は、文明中に存在する知識体系の恩恵を受けることはできないため、アニメやその他の高度な人工物の制作に必要な知識を得る事は不可能だ。全く一から知識体系を作り上げようにも、数十億以上の人間が数万年以上の時間をかけて発展させてきた知識を、一人の人間の一生の時間で作り出すことは不可能である[注8]。

注6
: 実のところ、オオカミ人間にアニメ制作が不可能である理由を知識の不足のみとする認識は不十分である。オオカミ人間にアニメの知識を与えるだけですぐにアニメを作れるようになるわけではない。なぜなら、アニメの制作にはそのための道具が必要であり、仮に道具の制作方法を知っていたとしても、道具を一から作り最終的にアニメを作り上げるまでには非常に長い年月を必要とするからだ。例えば映像装置のネジ1本を作るだけでも、金属の精錬から始めなければならない。このことから、オオカミ人間がアニメを作るためには、知識だけでなく労力の蓄積も必要であることが分かる。しかし、本稿の議論では知識のみを扱う。この理由は、道具の制作という形で労力を適切に蓄積するには、どのような道具が必要かとか、その道具はどのようにすれば作れるかといった知識が必要であり、オオカミ人間によるアニメ制作では労力よりも知識の方が本質的な制約であるためだ。

注7
: パラパラマンガであればキネトスコープのような高度な機械は不要だが、本稿で言うアニメの概念にはパラパラマンガのような簡易なものだけでなく、テレビで放送されているようなある程度高いストーリー性を持つ所謂アニメも多く含まれている。このような所謂アニメの表現媒体としてパラパラマンガは不十分だろう。

注8
: このことは、1891年以前の人類の持つ知識の全てがキネトスコープの発明に必要であることを主張するものではない。そのような知識の中にはキネトスコープの発明に不必要な知識も含まれているだろう。しかしそれでもなお、キネトスコープの発明が膨大な知識に依存していることには変わりない。

オオカミ人間の思考実験により、「高度人工物カテゴリの発明には制作知識の創出が必要である」ことが分かったが、「制作知識の創出が必要である」ことをこのまますぐ問い(ニ)への回答とすることはできない。なぜなら、前に述べた通り、問い(ニ)への回答は「発明に必要な条件に備わる必要性が、本質的発展の共通性質により生じている」という共通性制約をも満たしていなければならないためだ。もし、「高度人工物カテゴリの発明における制作知識の発展の必要性」が、本質的発展の共通性質により生じていれば、「制作知識の創出が必要である」という回答は、問い(ハ)だけでなく問い(ニ)に対しても、また問い(ロ)に対しても正しい回答であり、「アニメの本質的発展には制作知識の創出が必要である」ことが帰結するはずである。検討しよう。

人工物カテゴリの本質的発展の共通性質に、「人工物制作上の選択肢の増加」がある。人工物カテゴリの本質的発展には発明と漸進的発展があるが、このうち発明については、発明が選択肢の増加を伴うことは理解しやすいだろう。ある人工物カテゴリが発明されると、制作者はそのカテゴリに属する人工物の制作を新たに選択肢に加えることができる。一方、人工物カテゴリの漸進的発展も、そのカテゴリ内の人工物の制作上の選択肢の増加を伴うものだ。例えば、「昔に比べ、コンピュータの性能は大幅に向上した」という言明は、「昔に比べ、大幅に高性能なコンピュータを作るという選択肢が新たに増えた」という言明と同義である。

また、人工物カテゴリにおける発明と漸進的発展による、その人工物カテゴリの全ての種類の価値の増加、つまり人工物カテゴリの本質的発展は、そのカテゴリ内の「人工物制作上の選択肢の増加」によってしか生じない。なぜなら、人工物カテゴリが本質的に発展するにはそのカテゴリ内に何らかの意味でより「優れた」人工物が作られなければならないが、そのためには制作者に「優れた」人工物を作るための選択肢が必要であり、またそのような選択肢さえあれば「優れた」人工物が制作されるには十分であるからだ。制作者は自らの望む人工物を実現するために人工物の制作を行っており、制作者にとっての「優れた」人工物とは自らの望む人工物がより完全な形で実現されたものである。制作者が自らにとりもっとも優れた人工物を制作するには制作上の選択肢の中から最適なものを選ばなければならず、目的達成上最適な選択肢を選ぶのは必然である。

そして、「人工物カテゴリの制作上の選択肢の増加」により、必ず制作知識の創出が生じる。と言うよりも、「人工物カテゴリの制作上の選択肢」は制作知識そのものであると言ったほうが正確だろう。なぜなら、例えばアニメの制作知識の中に、「フレームの中のある部分に消失点を設定することで、受容者にその部分に注目させることができる」というものがあるが、この制作知識は「フレームの中のある部分に消失点を設定し、受容者にその部分に注目させる」という表現上の選択肢と不可分である。このように、全ての制作知識にはそれと不可分な制作上の選択肢が存在する。制作知識の増加を伴わない制作上の選択肢の増加も、制作上の選択肢の増加を伴わない制作知識の増加も考えられない。従って、「人工物制作上の選択肢の増加」という「人工物カテゴリの本質的発展の共通性質」によって、人工物カテゴリの発明における制作知識の創出の必要性が生じていることになり、制作知識の創出は共通性制約を満たす。そして、「制作知識の創出」は、問い(ニ)と問い(ロ)の両方に対する正しい回答であることが分かったため、「アニメの本質的発展には制作知識の創出が必要である」ことが帰結する。

ここで、本節の議論を振り返っておこう。本節で出てきた4つの問いと1つの共通性制約は下記の通りである:

問い(イ): アニメの本質的発展には何が必要か?
問い(ロ): 既存アニメ作品群よりも本質的に優れたアニメ作品群が制作されるには何が必要か?
問い(ハ): 以前の工業製品に比べより優れた工業製品が生まれるためには何が必要か?
問い(ニ): 高度人工物カテゴリが発明されるには何が必要か?
共通性制約: 発明に必要な条件に備わる必要性が、本質的発展の共通性質により生じている

本稿では、まず問い(イ)をさらに正確に表現することで問い(ロ)を作った。そして、問い(ロ)を問い(ハ)と問い(ニ)に分割した。なお、問い(ニ)の回答は共通性制約を満たさなければならず、また、問い(ハ)と問い(ニ)(と、共通性制約)に対し正しい回答は問い(ロ)に対しても正しいものである。その後、コンピュータや航空機などの工業製品の例をもとに問い(ハ)について検討し、「制作知識の創出」という回答を得た。その回答が問い(ニ)に対しても正しいかを、オオカミ人間の思考実験により検討し、正しいという結論を得た。そして、この答えが共通性制約を満たすかを検討し、満たすという結論を得た。以上の議論により、「アニメの本質的発展には制作知識の創出が必要である」ことを、本稿の結論として示した。

4,5,6節


(通常版と同じであるため省略)

7.余談 神について

本稿(詳細版)は、「アニメの本質的発展には何が必要か?」(通常版)の3節「本論」における議論を、通常版より更に詳細に行ったものである。

人は概ね効率的な価値創出と受容を目指し行動する合理的な主体と言える。他者の行動の中には非合理に感じられるものがあるとしても、その非合理性は価値尺度の違いによるもので、その行動をとっている当人にとっては合理的である場合が多い。筆者による通常版の執筆も、筆者にとっての合理的な行動として概ね理解できる。通常版についての筆者の個人的な執筆目的は、遊びとしての楽しさを得ることにある。通常版の執筆はある程度の苦痛も伴うものだったが、筆者の知る限りまだ誰も文章化していないアイデアを文章化するフロンティア開拓のような楽しさや、筆者の個人的信念[注9]を正当化して公開し、ある程度多くの人で共有したり、あるいは批判の可能性に晒すスリルのような楽しさがある。通常版の執筆には苦痛も伴うが、それを上回る楽しさがあり、通常版の執筆は合理的行動として理解できる。

注9
: 「信念」というと、日常的な用法では「強い意志や気持ちを伴う意識的な信仰」のような意味で使われることが多いが、ここでは「信念」を、強い意志などとは関係なく「自明とされていること」という意味で使っている。

しかし、通常版の執筆中、客観的な議論を展開しなければならないという、義務感と欲求が入り混じった衝動が生じることがよくあった。この衝動に素直に従うと通常版の執筆目的を十分達せられなくなるので、通常版とは別の、詳細版の執筆に繋げることにした。言わば、通常版の執筆中に生じた非合理性を集約したものが詳細版である。

信念を共有するにせよ批判の可能性に晒すにせよ、通常版の執筆目的を効果的に達するには、筆者の個人的なものとして存在している信念を、客観性と分かりやすさを両立しつつ正当化しなければならない。筆者の個人的な信念を他者が理解できなければ、同意も批判も得られないためだ。しかし、詳細版のように過度に客観的な議論を行おうとすると、少しでも疑わしいところには論証を与えていくことになるため、文章が複雑化し分かり辛くなる。このように詳細版は客観性に偏重しており、分かりやすさの点では甚だ不十分になっているはずだ。更に筆者の力量上そのような複雑な議論を展開しようとすると誤りが紛れ込む可能性も高くなる。このように本稿の執筆は通常版に比べ多くの労力がかかり、楽しさなどの益は少ないものだった。論証のアイデアを考えつく楽しさもあったが、その益を苦痛が上回っていた。筆者にとり、このような文章は書かない方が合理的である。

しかし、筆者は詳細版を書いた。これは前述の非合理な衝動によるもので、合理的な行動としては理解しがたいものだ。人によって価値尺度は違うとはいえ、筆者は詳細版の執筆の非合理性をはっきり認識しつつも、詳細版を書かずにはいられなかった。このような自覚的な非合理性は筆者にとっても当初理解できないものであったため、<神>と<信仰>の概念を作ることで合理的なものと理解することにした。<神>とは、非合理な衝動がどのような内容かとか、どのような種類のものかという質的側面を表す概念である。<信仰>とは、「強い」「弱い」などの属性を持ち、非合理な衝動の強さという量的側面を表す概念である。<神>の概念について言えば、筆者の衝動は非合理なまでに客観的な信念の正当化を行おうとするものであったため、この<神>を「客観性の神」と呼ぶことができるだろう。しかし、この<神>は「客観性の神」と筆者から呼ばれてはいるが、筆者は客観的な知識の獲得方法について本格的に学んだ経験が無く、筆者の考える客観性が真性のものであるとは限らない。また、このような<神>の概念が世の中の人々に共有されているとはほぼ考えられない。そのためこの<神>は、恐らく筆者の内にのみ存在するという意味で「内なる神」と呼ぶこともできる。

本稿は、筆者にとっても、また恐らく他者にとっても、費やされた労力以上の価値は持っていない。しかし、筆者の「内なる客観性の神」にとって本稿は十分な価値があるものであり、このように認識することで、筆者は本稿の執筆を概ね合理的なものとして理解できる。よって本稿は筆者の内なる客観性の神への捧げ物である。

筆者は今までいかなる宗教も自覚的に信仰した経験が無い[注10]ので、ここに記述している<神>や<信仰>が、(様々な宗教の神を包含する一般的概念としての)神や、(様々な宗教における信仰を包含する一般的概念としての)信仰の一種なのか、それともそれらとは隠喩程度に類似するだけのものなのかはわからない。いずれにせよ筆者は「内なる客観性の神」への<信仰>が弱い人間であるので、こんなに手のかかる神に仕えるのはもうこりごりというのが現在の心境である。

注10
: とはいえ、筆者の実家には仏壇があり、お盆などの行事も大きな違和感無く経験している。このように筆者は多くの日本人と同程度に仏教に接してきている。また、筆者は仏教から少なからぬ影響を受けている日本文化の中で暮らしているので、もしかしたら厳密には無自覚な仏教徒であるかもしれない。

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