中共軍の攻城兵器2ー第二次国共内戦(工兵と砲兵)

ここでは、第二次国共内戦における攻城戦について述べる。
中共軍にとって、砲兵と工兵が攻城戦の主体だった。
そして、内戦初期には主に工兵が、装備の充実してきた内戦後期(1948年末ごろ?)には砲兵が活躍したものと思われる。



砲兵と工兵で「攻城戦」

毛沢東は、次のようにも述べている。

人民解放軍は自己の砲兵と工兵を編成した。忘れてはならないのは、人民解放軍に飛行機や戦車はないが、人民解放軍に国民党軍をしのぐ砲兵と工兵が編成されてからは、国民党の防御態勢が、その飛行機や戦車までふくめて、とるに足らないものになったことである。人民解放軍は運動戦ばかりでなく、陣地戦もおこなえるようになった

「革命を最後まで遂行せよ」
『毛沢東選集 第四巻』外文出版社、1968年、394項。

ここで述べられているのは、砲兵と工兵に対する自信である。
優勢な砲兵と工兵によって、陣地攻略が可能になったのだろう


工兵を主体とし、時間をかけて攻城する

毛沢東選集には、1947年から1948年における9つの都市を攻略した事例について言及がある(※)。
これらの都市は、いずれも堅固な永久陣地で守られていた。
これに対し、中共軍の砲兵はゼロまたは僅少であった。

これらの都市を攻略する中で、以下のような「堅塁攻略の戦術」が確立されたという。
(1)「連続爆破」・・・敵防御施設を爆薬で連続的に爆破。
(2)「坑道作業」・・・敵陣地下まで坑道を掘り、爆破。
(3)「対壕作業」・・・塹壕を掘って敵陣地に近接する。
(4)「爆薬包の投擲」・・・爆薬を発射器で投擲する。
(5)「突入戦法」・・・兵力・火力を一点に集中して突入する。

(5)以外は、いわゆる工兵的な戦闘である。
また、実施に長時間を要する戦法が多い。

このことから、長時間をかけて、工兵戦闘によって「攻城」したものと思われる。

これは、以下の史料の記述と符合する。

国共内戦における「朝鮮人部隊」を描いた書籍によれば、天津戦役(1948年末)以前の戦闘では「長時間包囲して敵を疲弊させたのち、爆薬を抱いて敵の砲台を破壊するというやり方」が採用されたとあり、「持久戦」と評されている。


砲兵の大整備による戦闘の転換?

そして、内戦後半に砲兵が大規模に整備されるようになると、戦闘の様相は一変した可能性がある。
国共内戦における「朝鮮人部隊」を描いた書籍には、1948年末から開始された天津戦役について以下のような記述がある。

この頃の解放軍の武力は、東北解放戦争の時分とは比べものにならないほど強化されていた。戦闘方式においても、(中略)強力な砲撃と機械化部隊の援護のもとになされる全面攻撃を主としていた。

吉 在俊ら『中国国共内戦と朝鮮人部隊の活躍 一九四五年八月~一九五〇年四月』同時代社、p188。

この時期になると、工兵は必須でありつつも、砲兵が大きな役割を果たしたものと思われる。


日中戦争・内戦前半は工兵的な攻城戦

逆に言えば、内戦後半(1948年末)までの中共軍は工兵的な攻城戦しかできなかった。
当然ながら、日中戦争における攻城戦も、工兵的な戦法が採用されたものと思われる。


参考文献


※1 「革命を最後まで遂行せよ」の原注に記載があった。
『毛沢東選集 第四巻』外文出版社、1968年、404-405項。

※2 吉 在俊ら『中国国共内戦と朝鮮人部隊の活躍 一九四五年八月~一九五〇年四月』同時代社、188項。


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