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フリーライターはビジネス書を読まない(71)

手首をガスコンロで焼いた

「話が長くなるので、電話では話しづらいです。身元保証人が必要だし、平藤さんしかいないので……」
柳本は、警察に保護された経緯を、会ってから話すという。

グズグズしていたら、いくらでも遅くなる。
すぐ出かけることにした。

「じゃ、今から出ます。だいたい2時間くらいかかるから、警察にもそういっておいて」

保護されている警察署を聞いて、すぐ自宅を出た。
途中、柳本から〔今どこですか?〕と何度もショートメールが入ってくる。そのつど〔大阪駅に着きました〕〔京都行きに乗りました〕と返信する。
2時間はかかるといっておいたはずだが、やはり不安なのだろう。

柳本が保護されたという警察署は、JR京都駅から地下鉄で10分ほど。駅を降りてすぐだった。
受付には当直だろうか、警察官が2~3人、手持ち無沙汰に座っていた。

「夕方こちらに保護された柳本聡美のことで伺いました」
用件を告げる。

「あっ、あぁ家族の方? 来てくれはった?」

家族ではないが、否定したら話がややこしくなりそうだ。

「こちらへどうぞ。花村さーん」

中へ入るように促され、奥から典型的なメタボ体系の中年警察官が出てきた。この人が花村さんか。制服の階級章は巡査だった。

「柳本さんの家族の方?」

これも敢えて否定しなかった。

「こっちへどうぞ」

通された部屋は取調室ではなく、休憩室みたいな部屋だった。
折り畳み式の会議用テーブルとパイプ椅子が並んで置いてあり、柳本がいた。その奥に座ってうなだれている青年が、例の幼馴染の先輩なのか。

「わざわざ、すみませんでした」
柳本がペコっと頭を下げる。つられるようにして、奥の青年も軽く会釈を寄こした。

「ま、よく話し合ってね」

巡査はそういい残して、部屋を出て行った。

さて、詳しく聞かせてもらいましょうか。

少しのあいだ沈黙があった。柳本がチラッと青年の方を見る。
「あなたは話さないの?」
そんな意思が読み取れる視線だった。

青年は黙っていた。
意を決して、柳本が語り始める。

話を要約すると、柳本がこの青年――佐久間という名であることをはじめて聞いた――の下宿を訪れたのは、お昼前のこと。

外で一緒に食事をして下宿に戻り、しばらくは和気あいあい楽しく会話していた。
気が付くと日が暮れかけていたので、佐久間が「帰らなくていいの?」と促したところ、柳本は帰りたくないと駄々をこねた。

「実際には、そんな生易しいことではないです」
初めて佐久間が口を開いた。「服を脱いで下着だけになって僕に抱きついてきました」
佐久間の目から、柳本に対する恨みのような感情が見えた。

「それは……」
柳本が反論しようとするのを遮って、佐久間は続ける。
「ほかの下宿生がいるし、当然拒否しました。そうしたらコイツが……」

ほかの下宿生がいなかったら別の展開もあったのかという勘繰りはやめておこう。

「ここで死ぬっていいました」
柳本が手首を見せる。そのとき初めて気づいた。柳本の左手首に包帯が巻かれていた。

「まさか、切ったの?」
「焼いてから切りました」
「焼いた?」

柳本がいうには、佐久間に拒否されるくらいなら死のうと思って、部屋を飛び出して下宿の共同キッチンへ行き、ガスコンロで自ら手首を焼いたという。

「先に火傷しておけば、切ったときの痛みを感じないと思ったんです」
そして、もっていたカッターで本当に手首を切った。

「1回目は傷が浅くて血が出なかったので、2回目を切ろうとしたときに止められました」

まさか本当に?――と不安になった佐久間が追いかけてきて、柳本を取り押さえてカッターを取り上げた。
もはや自分の手に負えないと思った佐久間が警察に「自殺未遂」として通報して、2人とも保護された。

「事件性はないそうです。痴話喧嘩なので、平藤さんが来たら帰っていいといわれてます」

柳本は不気味なほど冷静だった。それにひきかえ佐久間は、よく見ると震えていた。京大の大学院まで進む秀才だ。幼少から勉強漬けの日々で、たいした苦労も知らないのだろう。今回のことは、彼の人生初で且つ最大の修羅場だったのかもしれない。

警察署を出ると、日付が変わっていた。佐久間は安心したのか、落ち着きを取り戻していた。
もう大阪へ帰る電車はない。佐久間の厚意で、始発が出る時間まで下宿で夜明しさせてもらうことになった。

佐久間は「友達のところへ泊まります」といって出て行った。
下宿には、私と柳本が残された。

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(つづく)

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