ぶらり関西みて歩記(あるき)
枚方宿
〔第6回〕
大名行列の見物人が押しかけた「枚方宿本陣」
意賀美(おかみ)神社の梅林から階段を下りて、京阪電車の高架をくぐると専光寺が見えてくる。浄土真宗本願寺派の古いお寺なのに、外観はまるで新築したように真新しい。建て方は、おそらく鉄筋コンクリートだろうか。
それには理由がある。もともと三矢公園の前にあった専光寺は、慶応4年に鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府兵が火を放ち、焼かれてしまった。その後2度にわたって再建されたが、京阪電車の高架化にあたって現在の場所に移転してきた。由緒が古いわりに建物が新しいのは、こうした理由からである。
専光寺の角のT字路を左へ折れると、三矢公園がある。この辺りにはかつて枚方宿本陣があって、公園の片隅には「枚方宿本陣跡」を示す案内板がある。
本陣とは、江戸時代以降に公家・大名・旗本・幕府の役人・勅使などの宿泊所に指定された家のことで、枚方宿本陣は池尻善兵衛家が代々世襲で経営していた。一般の旅人は利用が許されておらず、商いとしての旅館とは一線を画す存在だったようだ。
天明5年(1785)に幕府へ提出された書類によれば、間口約20間(1間=約180センチ)、奥行約24間の敷地に、建坪215坪、25室を擁する建物が建っていた。
本陣がひときわ賑わいを見せるのは、参勤交代の大名一行が休泊するときだ。とくに徳川御三家のひとつ紀州藩の大名行列は、近郷から見物人が押しかけるほどの威容を誇っていたといわれる。暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗も、紀州藩主時代には枚方宿を利用している。
ちなみに紀州藩には、中島九右衛門が経営する藩専用の本陣もあった。
本陣の他に「脇本陣」という施設も設置されていた。大きな藩になると大名に帯同する人数が多いので、本陣だけでは収容しきれない。また大名どうしが鉢合わせした場合には、格式が低いほうの大名が本陣を譲り、脇本陣を使うことになっていたらしい。そのため規模は本陣より小さいものの、諸式は全て本陣に準じてつくられていた。そして脇本陣のほうは、ふだんは一般の旅人でも利用できたという。
幕末、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破った明治新政府は、天皇の大坂行幸を計画する。新しい時代の天皇親政を国民にアピールするためだ。その際、枚方宿本陣は、天皇の休息所となった。
その本陣も明治3年に廃止。荘厳さを誇った本陣の建物も取り壊された。そして明治21年7月、本陣の跡地には茨田・交野・讃点郡役所が設置されたが、それも大正15年には廃止された。
本陣の跡地は今、三矢公園になっている。かつての賑わいを示すものは残っておらず、戦前に建てられた記念碑が、明治天皇が大坂行幸の際に本陣で休息したことを簡潔に説明しているだけである。
余談ながら「枚方(ひらかた)」という地名の由来は、日本書紀に出てくる「白肩(しらかた)之津」が起源になっている。その昔、この辺りは白波が打ち寄せる海岸で、白肩は「白潟」のあて字らしい。
上方の方言では「し」が「ひ」に変化しやすい。そのため、いつしか「しらかた」が「ひらかた」になったとする説が有力だ。
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