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本当のワタシ~大きな恐怖~

突然ですが皆さん、
本当の自分を出せていますか?私は本当の自分を出すことがなかなか出来ません。そして、幼少期に起きたある事件が原因でPTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまいました。
どうしてPTSDになってしまったのか。
その理由は私の17年分の事実をお話しをしたらわかると思います。

私が生まれたのは2002年7月のこと。
フィリピン人の母が運転していた車の中で、1200gの未熟児として生まれました。手のひらサイズに収まる小ささで身体の半分は白く医師からは「全力を尽くしますが万が一の事もあります。」と言われるぐらい弱っていました。全力を尽くして下さったおかげでなんとか元気に成長し無事に母の元で生活出来るようにまでなりました。

なぜ未熟児で生まれたのか。
それは父からのDV(ドメスティック・バイオレンス)が原因でした。父は働かずパチンコやお酒に溺れていました。いわゆるヒモ男。自分か1番で母を奴隷のように扱った。そんな父の代わりに母は1日中アルバイト掛け持ちしながら働いていた。スーパーの裏方、コンビニ、病院の清掃員やホテルのベットリメイク。夜の仕事まで働き続けました。帰って来ない日も多かった。私は3歳半でその時の生活は哺乳瓶に入ったココアで過ごしたり、当時母がスーパーで貰ったあまりのお菓子などが大量に入った大きいカゴから取る食事、お風呂は入った回数は指で数えられるほどしか入らなかった。歯磨きの存在すら知らなかった。そんな生活をしていました。

ここで私の家族構成をざっくり紹介していきたいと思います。18歳で日本に来て仕事をするようになったフィリピン人の母。中国と日本のハーフで私の実の父(岩倉)。お父さんが違う10歳離れていて、私が母の元で暮らすようになった頃には児童養護施設に入っていた兄。年子の可愛い妹。

母と兄は父からのdvをとても受けていたと聞きました。母は椅子を投げられ肋骨が折れることもあったそうです。兄は身体的暴力を受け全身痣だらけになり、学校の先生がそれに気づき、養護施設に保護されたらしいです。当時の私と妹は、お腹が空いたらおやつを食べテレビを見たり、妹と遊んで過ごす毎日。
兄がなぜ家にいないのかも分からなかった、考えたこともなかった。

そんなある日のこと。
私が4歳半、妹が3歳の時、夜中に事件が起きました。深夜、仕事から帰ってきた母は故郷であるフィリピンにいる家族に電話をしていた。「辛い。逃げたい」泣きながら必死に話していた。その会話が父の耳に入り、怒った父は部屋中に灯油をまき始めた。もちろん母にも。
そして、ライターで火をつけた。

私は母の悲鳴で起き、周りを見ると火の海でした。必死で妹を起こした。とにかく逃げなきゃそれしか頭にない中ベランダに逃げた。たまたま通り掛かった大学生に助けてもらい向かいの近所の人の所へ私と妹は一時避難した。母は救急車に運ばれました。父はその後警察に連行されたと聞きました。

私は恐怖に染った妹を必死に抱きしめていました。だいじょぶ。だいじょぶ。おねーちゃんいるから。ずっと言い続けた。私は4歳半でも、今起きている状況は自分の中で理解出来た。父が火をつけたこと。母は大火傷をおって、救急車に運ばれたこと。妹を私が守らないといけないこと。その中でも1番は妹を守ることで頭がいっぱいでした。妹はまだ3歳、本来母が必要な時期。そんな中での事件、これ以上怖い思いをさせない為に今私が出来ることは妹の傍で消して手を離さないこと。

それから、警察所に向かい1日過ごし落ち着いた所で一時保護所に保護された。そこで何ヶ月か過しました。どれくらいいたのかハッキリとは覚えてません。
のちに、茨城にある児童養護施設に移動することになりました。
ここまでの時点が、施設に入る前の話です。
次は【施設での暮らし】でお話したいと思います。続きを是非見てくださると本当に嬉しいです。また、誤字脱字や意味のわかない日本語があったと思います。暖かい目で見てくださると有難いです!では次回で。