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私は一体だれなんだ

仕事上、自らの手で未来を切り拓き、何かを生み出している人達と話すことがある。そんな人を見ていると、世の中にはこんなにも素敵な人たちが、苦しみや悲しみの多いこの腐った社会を変えようとしているなんて、これからの未来も捨てたもんじゃないなと、無責任に聞こえるかもしれないが心からそう思える。

一方で、その人たちと自分自身を比べて勝手に引け目を感じてしまうのもよくあることだ。私は何をやっているんだろうか、何がしたいのだろうか、何ができるのだろうか。ああなりたいけどなれない、欲しいものがたくさんで理想が高すぎるゆえに漠然と「すごい人になりたい」と夢物語に苦しむ。

キラキラの裏側には、想像を絶するほどの努力や葛藤があるということも分かっているはずなのに。いや、本当は分かっているふりをしているだけかもしれない。自分自身、理想に行動が全然伴っていないし、甘すぎるなと日々思う。『行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない』と、チャールズ・チャップリンも言ってるのでね。

そんな人たちと話しているとたまに思う。どれだけの人が私のことを私として認識しているのだろうか、私の名前を知っている人はいるのだろうかと。きっと知る必要はないのかもしれないし、知らない方がいいのかもしれない。あくまでもスタッフの中の一人でしかないのだから。

だけど、私はかなり欲深い生き物。「私を見て」じゃないけど、一人の「個」として、「私」として見て欲しいと思ってしまうのはなんとも強欲なことなのだろうか。ただきっと、今は「鎧」をまとうことが「是」とされているかもしれない。

だから「私」として見てもらえるような人間にならなければいけないし、それが許容される場所を自分で見つけてつくっていかなければいけない。だから「私」を諦めずに探し続けるのだ。

みんなと一緒なんて嫌だ、埋もれたくねえ。そんな反骨心を胸に、今日もちょっと楽しく生きたいなという気持ち。

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