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みーちゃんとママ③ ピアノ

みーちゃんはこの春からピアノを習いに行っている。
といっても、みーちゃんはまだ「ド」の位置もわからず、先生が伴奏をひいてみーちゃんは先生の合図に合わせてシールで印がつけられた「ド」を叩く、という具合だ。
みーちゃんの先生は若くて、フリルがついた可愛らしい服を着ており、茶色く長い髪はきれいに三つ編みでまとめられている。ピアノはもちろん歌も上手だ。みーちゃんは先生が大好きで、土曜日のレッスンを楽しみにしている。前日の寝る前には、お絵かき用の紙に先生の顔を描いて、色とりどりのビーズをセロハンテープでくっつけて飾り、先生に会うときにプレゼントしようと思っている。

みーちゃんのママも子どものときにピアノを習っていた。
はじめの先生は若くてふっくらした女の先生だった。「天才じゃないの!」とよく言ってくれた。ママは嬉しくて家に帰り、そのことを話した。
「先生はほめ上手ねえ」ママのママはそう言って笑ったので、ママはがっかりした。ママは先生が好きで、小学校に上がる頃には曲を作って先生を驚かせた。
ママが三年生になったとき、ママのママは言った。
「知り合いのお子さんはピアノのコンクールに出場するんだって。少し厳しいらしいけど、そこの先生に変わってみない?音もすごくきれいになるそうよ」
ママは、ママがそう言うならその方がいいのかな、コンクールで賞が取れたらちょっとかっこいいな、と思い、その先生のところに行くことになった。
それまで習っていた先生の最後のレッスンで、先生はママに聞いた。
「どうして違う先生のところに行くの?」
「その先生に習うと、音がきれいになるんだって」ママは小さな声で答えた。
先生は黙った。ママには先生が怒っているのがわかった。そうしてママは大好きだった先生と別れた。
新しい先生は痩せた品のいいおばあさんだった。ママは前の先生のところでブルグミュラーが最後まで終わったところだったけど、また一番からやり直しをすることになった。
ママはがっかりした。前の先生がつけてくれた大きな「〇」に二重線がつけられたとき、ママは胸が苦しくなった。ママがコンクールに出ることはなかった。
二年くらいしたときに、その先生が引退して、先生の娘があとを引き継ぐことになった。
その先生は痩せていて、ゆがんだ顔にメガネをかけていた。若いはずなのにそうは見えなかった。先生はヒステリックで、いつも震えるように怒っていた。
「楽譜はね、作者からの手紙なのよ!楽譜に書いてあることにはすべて意味があるの!なのにあなたは、その手紙を読もうともしない!」
ママは先生の言うことより、先生が嫌だった。先生の言うことは何も入ってこなかった。
ママが高校生になったころ、先生はレッスン中に叫んだ。
「あなたにはね、あなたにはわからないのよ! 成績もよくて、顔も可愛くて、なにもしなくても何でも手に入るあなたには!」
部屋の空気が凍りつき、ママは体が固まった。
そんなことを他人に言われたのは初めてだった。ママは成績も普通だったし、可愛いと言われたことなんてなかった。
ママの心には怒りが湧いた。先生は自分の不幸、自分の不満を私にあてつけている。私はそんなに幸せじゃない。
ママははっきりと自分が先生を嫌いだと認めた。そのレッスンの後、三才から続けたピアノを十五才でやめた。

ママが弾きたかったのは、ずっとショパンやドビュッシーだった。でも、とうとう弾かせてもらえなかった。ママの練習曲は、いつもモーツァルトだった。家で不満を言うと、ママのママは「モーツァルトも素敵じゃない」と言った。
ママは大人になってからモーツァルトもいいなと思うようになったけれど、それでもやっぱりショパンやドビュッシーを弾いてみたかった。
ママは簡単なポップスをときどき弾いてみた。練習をしなくなったママは上手にピアノが弾けなかった。それでも、ピアノを弾いていると言葉にならない怒りや悲しみがママの体の中から流れ出るようで少なからずママを救いはした。

みーちゃんは歌うことが大好きだからピアノも好きかもしれないとママは思った。
初めてみーちゃんとピアノの体験教室に行った日、ママはみーちゃんの先生がすぐに気に入った。明るくて、優しくて、可愛い。みーちゃんが先生を好きになり、先生がみーちゃんを可愛がってくれると思えた。ママが最初にピアノを習った先生も、若くて優しくて可愛かった。
みーちゃんがこれからどのくらいピアノを続けるのか分からない。あまり上手にならなくて、すぐに辞めるかもしれない。それならそれでいい。大好きな先生と一緒に、楽しい時間を過ごしてほしいとママは思った。

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