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仏教ってなに? 基礎編ー9

無常・無我

 「無常」と言えば、仏の教えを代表する言葉の1つであるとみなされています。よく「縁起によって生じたものは無常であり、無常であるものは無我である。」と言う風に言われ、その説明として「原因と条件によって生じたものは、常に変化するものであり、そのような変化するものの中に、不変の実体を見出すことはできない」などと説明されています。
 そのような説明だけを聞くと、多くの人は「そりゃ当たり前でしょ!?」と思うと思います。
 現代人にとっては、「全てのものは時間とともに変化しており、時間に支配されずに変化しないものなどない」事ぐらい皆常識として知っていると思います。さらに、ちょっとマニアックな人であれば、ものごとは全て原因と条件によって生じており、おまけに熱力学第2法則のエントリピー増大の法則によって、どんなに秩序だったものでも時間とともに、その秩序性が朽ち果てていくのは宇宙の法則だということも知っていると思います。
 その変化し朽ち果てていくのが当たり前の現象世界のものごとに執着してそれが変化しない様に願うところに人間の苦しみの原因がある、などと言われても、今どき本気でそんなことを願っている人はいないでしょ?と思う人も少なくないと思います。
 これだけの話を聞くと、仏教ってそんな当たり前のことを、鬼の首を取ったように大真面目に教えているだけなの?思ってしまう人もいると思います。
 前にもお話しした中道の話もそうです。「両極を離れたバランスの取れた考え方が肝要です」みたいな、これまた、極めて当たり前のことを、これがお釈迦様のありがたい教えですみたいに今時の人に説明するのは、人々に仏教を見くびるネタを提供しているようなもので「自分が悟ったことを人々に説いても、とても理解されないのではないか」と苦悩された釈尊に対して大変失礼な事であると言わなければならないと思います。
 確かに釈尊はどんな人にも分かるように上記のような説き方をされたことは確かですし、それが分かり易いと言うことで、後世にも経典に残されて伝えられてきたことは確かです。
 しかし、古い経典に載っているからといって、それが釈尊の教えのすべてであるかのように思ってしまうのは、釈尊の最後の御言葉を無視することになると思います。釈尊が最後の言葉として残された「自分が皆に伝えたことはほんのごく一部に過ぎない」ということを忘れてはならないと思うわけです。
 歴史的にも釈尊の死後、弟子たちが集まってそれぞれが聞いた教えの記憶を頼りにまとめたのが経典なので、聞いた人の理解力に合わせて釈尊が分かり易い例え話でお話しされたことも沢山載っている訳です。しかし、それらはあくまでその人達の理解力に応じた範囲の話であることを忘れてはならないと思いますし、誰でもすぐに理解できて納得できるような教えは、釈尊がここまでなら誰にでも理解してもらえるだろうということで説かれた教えであって「自分が悟った内容はとても他の人が理解できるものではない!」と釈尊が苦悩されたような内容は、文字通り、普通の人には理解しがたいため、その通りには説かれていないと言うことを承知しておくべきだと思う訳です。

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