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仏教ってなに? 基礎編ー5

十二因縁

 
これまで拘ってきた「自分」というものは、本当の事を気づかなかった、知らなかった「無知」によるものであり、その「無知」(これを仏教用語では「無明」といいます。) を一番の根本原因として、架空の「自分」を作り上げようする自他分離(自分とそれ以外のものを分離しようとする)「働き」(行) が生じ、そのような自他分離の働きによって作られたものを「識別する作用」(識)が生じ、その識別作用によって様々な「存在の形や概念」(名色)が生じ、存在の形や概念によって、それらを様々な形式で知覚しようとする「感覚器官」(六処)が生じ、感覚器官によって各器官に対応する「感覚情報」(触)が生じ、感覚情報によって、それらを「認知する作用」(受)が生じ、認知する作用によって、認知されたものを「求める作用」(愛)が生じ、認知されたものを求める作用によって、それらを「自分のものにしようとする作用」(取)が生じ、そのような(全てを)自分のものにしようとする作用(求心力)を原動力として、「個体存在が生成され(個人の肉体の発生)」(有)、個体存在の生成によって「個体(人間の場合は1人の人間)が誕生し」(生)、個体として誕生することによって、やがて「老い死に至る」(老死)。
 人間は、このような、12段階に渡って、個体(1人の人間)が誕生し、やがて死に至り、又、最初の無知を起点として次の誕生があり、死に至るということを、ずーと繰り返していることが分かりました。このような、個体(1人の人間)としての生の繰り返しは、最初の無知が、解消されない限り、永遠に続くことも分かりました。
 上記の12段階に渡る個体(1人の人間)の発生過程が、仏教では、有名な十二因縁 と言われるものです。
 この十二因縁の過程は、専門家でも、すんなりとは理解出来ないほど難しい内容になっています。
 理由は、12の過程の順番が我々の普通の常識や世界観では理解不能に思えるからです。
 常識的には、先ず個体(1人の人間)が出来上がってからでないと、さまざまな知覚や欲求も生じないと思われているので、個体(1人の人間)が出来上がるのが最後の方に来ていることや、感覚情報よりも感覚器官が先に来ていることも逆な様な気がすると思います。
 それは、先にも言いましたように、人間存在に先立って、先ず、外の世界が存在し、その中に肉体を持って人間が生まれると言う世界観を前提として考えているからです。そういう世界観では先ず肉体が生じない限り何も始まらないと考えるのは当然です。また、外側には物質世界が広がり、内側には心の世界があると思っています。
 しかし、仏教の考え方では、外側にあるように感じる物質世界も本当は内側からの情報が外側に投影されたもので、それらの投影された情報に反応して感じる知覚や情動を内側に感じているだけだと考えます。そして、元はどちらも内側から来ている情報の(外側への)投影とそれ対する(内側での)反応に過ぎないと考える訳です。従って、物質世界と心の世界というようなものが、それぞれ別々の実体として存在しているとは考えないのです。
 という訳で、上記の感覚器官の方が感覚情報より先に生じているのは、先に生じた感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)からそれぞれの感覚情報が外側へ投影されると考えるからです。
 具体的に言うと、臭いを感じるのは、通常は外にある臭いを鼻で感じ取ると考えますが、仏教では、内側から来た臭いと言う情報が、鼻という感覚器官によって外側へ投影されると考えます。そして、その臭いの元になっている(例えば)松茸というものの視覚情報は眼という器官から、感触は身(体)という器官から、その味覚は舌という器官から、それぞれ外側からの情報として投影されると考える訳です。
 何だか、とてもややこしく感じますが、要は、世界が外側に広がっていると考えるか、内側に広がっていると考えるかの違いなのです。通常の私達の常識でも、松茸の臭い・視覚情報・触覚・味覚はそれぞれの鼻・眼・手(身体)・舌という感覚器官で感じていますが、それらの感覚器官を刺激する情報が、実は外側から来ているのではなくて、内側から来ているのだと考えるだけなのです。従って、発想の転換さえできれば、それ程奇妙な話でもないわけです。
 更に、先にも言いましたように、情報が外側から来ていると考えると、全ての情報は、私達の一人一人の感覚器官と意識に到達する以前に、既に確定していることになりますが、20世紀の量子力学以来の物理学の知見では、物質の究極の姿である素粒子は、人間の意識によって状態が確定するとされていますので、その事実は、意識が情報の終着点ではなく、情報の投影源であることを示唆しています。
 従って、仏教のように情報が内側から来ていると考える方が、科学的事実にも符合しているといえる訳です。
 また、私達の常識では、個体(1人の人間)というものは肉体が発生するところから始まると考えますが、上記のような仏教の12段階に渡る個体(1人の人間)の発生過程では、肉体が発生する以前に、何段階もの個体化(自分という思いによって他のものから自分を分離しよとする働き)をもたらす求心的なエネルギーの発生過程(無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取)があり、その最終段階として肉体が生じ(有)、その後に誕生(生)があって、最終段階として(老・死)があり、そのまま何もしなければ、再び最初のサイクルにもどって輪廻を繰り返すと考える訳です。

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