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仏教ってなに? 応用編ー6-1

「空理・空論」ではない「空」の話

 これまでは、主に初期仏教以来の釈尊の教えを中心に見てきましたが、後の大乗仏教興隆の時代になると般若経典類を中心に「空」という言葉がよく使われるようになりました。
 よく、中身のないわけのわからない話を「空理・空論」と言いますが、昔から「空」の話は良くわからないものの代表格のように思われて来たようです。
 ここでは、この良くわからない「空」の話をできるだけ「机上の空論」にならないように、実生活でも役立つように解釈してみたいと思います。
 「空」とは、本来この世のありとあらゆるものは、全て「因」と「縁」との関係性によって成り立っており、そのもの自体として独立した本質なり実体を持つものは何一つなく、様々な関係性に名称を付け概念化したものが人々の頭の中に存在するだけで、それらの概念を本質又は変化しない同一性とするものが実際に実在するわけではないと言うものの見方です。
 例えば、椅子というものを例に挙げると、椅子を良く見てみると、実際にあるのはスポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものがあるだけです。それらのいくつかの素材が特定の関係性で組み合わせられたたものを我々は便宜上「椅子」と呼んでいるだけであって、椅子というのは我々の頭の中つまり「概念」として存在しているだけです。その証拠に、椅子という「概念」を持ってない人が「椅子」を見た時には、自分で考えて「机」として使うかもしれません。つまり、さまざま素材の組み合わせの関係性は本来「空」であり、それにどんな意味づけをしようが、それはその人の勝手であるということです。スポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものを「椅子」だと思うか「机」だと思うか、あるいは「乗って遊ぶおもちゃ」だと思うかは、本来各人の自由ですが、社会の大多数の人が共有する「意味づけ」または「概念」を受け入れたほうが、実生活上便利であると言うだけです。しかし、大多数の人が共有する「概念」だからと言って、それを不変の本質とするものが実際に実在するわけではないということです。ところが、子供の頃より我々はこれらの大多数の人が共有する「意味づけ」あるいは「概念」を「言語」を通じて頭の中に刷り込んでいきますので、往々にして、それらの概念自体が、それに対応するものの「本質」あるいは「不変の同一性」であると勘違いしてしまいがちです。いわば「固定概念」とも言えるものです。「固定概念」などという日本語はないのかもしれませんが、いわゆる「固定観念」というものが、拭いきれない強烈な思い込みを伴っている病理的な言葉であるのに対して、それほど病的ではないという意味であえてここでは「固定概念」という言葉使うことにします。
 そうして、我々はそれらの無数の「固定概念」によって、がんじがらめになって身動きが取れなくなることもままあります。
 本来「便宜的な仮のものに過ぎない」概念によってがんじがらめになるというのは冷静に考えれば馬鹿げた話です。そう考えるのが「空」というものの見方の大前提であると言えます。この「空」というものの見方については後からもう少し詳しく見ていきますが、先ずはいつ頃からどのようにしてこの「空」というものの見方が強調されるようになってきたのか、それを見てみたいと思います。
 そもそも、この「空」というものの見方は、「ものにはそれ自体で存在する独立した不変の実体がある」いうものの見方を否定するために、釈尊滅後3~4世紀頃に登場した大乗経典類の先駆けである「般若経類」において中心的に打ち出され、その後2世紀ごろに南インド出身の「龍樹」という人によってより綿密に理論づけされたものです。
 それでは、仏教の開祖である釈尊を差し置いて、般若経類を残した人達や龍樹が勝手に新しい考え方を打ち出したのかというと、そうでもありません。
 釈尊は、「無常と無我」を説かれました。「無常」とは、「この世の全てのものは常に変化しており一瞬たりとも同一性を保っているものはない」というものの見方です。そして、「無我」とは「無常」と表裏一体のものの見方で、無常であるがゆえに「一瞬たりとも同一性を保っているものはなく」従って、この世には「同一性を保ったもの」つまり「我」と言えるものは「無い」ということで「無我」であると言われるわけです。
 これを大変卑近な例で譬えると、かつて長嶋茂雄が永久に不滅であると言った「読売巨人軍」というチームがありますが、そもそも「読売巨人軍」の実体とは何か、または変化しない同一性とは何かを問うてみれば、そんなものは存在しないことがよくわかります。長島が居た頃の巨人と今の巨人とでは選手もコーチも監督も全く違います。何一つ同じ同一性を保った人も物も見当たりません。今の巨人に限ってみても、絶えず選手は入れ替わっています。常に同一性を保った「読売巨人軍」などと言うものは存在しないのです。唯一永久に不滅かもしれないものは「読売巨人軍」という「名称だけ」かもしれません。というか、そもそも「読売巨人軍」といものは初めから「名称だけ」のものであり、ある特定の野球選手の集まりに「読売巨人軍」という名称を勝手につけただけのものであるというのが正解かもしれません。つまり、永続できるものは「名称」あるいは「概念」だけであり、それは人々の頭の中だけで永続できるのであって、実際の選手たちは絶えず変化しているので「無常」であり、不変の同一性もない故に「無我」であるというわけです。
 しかも、「読売巨人軍」という概念自体は実在するものではなく、人々の頭の中での単なる取決めに過ぎなので、明日から「朝日小人軍」という名称に変更されれば「読売巨人軍」は瞬時に消えてなくなるのです。
 野球チームが単なる名称だけの仮のものであるのは当たり前の話で、実際の一人一人の選手達は実在するだろうと思われるかもしれませんが、理屈は同じです。
 松井秀喜という選手がいますが、松井選手の体は60兆個ほどの細胞で構成されており、約1年ほどで全部入れ替わります。「読売巨人軍」が数十人の選手から構成されていて、20年ほどで全部入れ替わるよりも、早いペースで変化しています。では、松井秀喜という人は存在しないのかというと、「読売巨人軍」と同じような意味で存在しているのです。
 ただ、松井秀喜という永遠に不変の同一性を持った実体のようなものは存在しないということです。そもそも何が松井秀喜の本質であり実体であるかなど定義できません。10年前は世界に名だたるパワーヒッターだった彼は今はそうでもありません。パワーヒッターが松井の本質であるわけではありません。実際の彼は毎日変化しているのです(無常)。従って、変わらない松井秀喜の本性みたいなものは無いのです(無我)。将来、実業家・松井秀喜になるかもしれませんし、落ちぶれてホームレス・松井秀喜になるかもしれません。そもそも、その人に特定の本性があって、それが永遠に変わらないのであれば、良くも悪くもなることは出来なくなります。特定の本性も本質も不変の同一性も無いからこそ、人間はどうにでも変われるのだと思います。
 このように、そもそも「無常」も「無我」も、本来、不変性も同一性も無い自分自身やそれに関わるものに対する固定概念や執着心を無くすと言う実践的な目的をもって説かれたものでしたが、釈尊の滅後2~3世紀経つと、釈尊の教えを細かく分析・分類する仏弟子たちの中に人間一人一人の「無我」という立場は維持しつつも、その人間が知覚する物事には、それなりの実体なり本質が存在するというような考え方が現れるようになりました。
 そして、その後、そのような考え方を批判する人々も現れ、彼らは「空」というものの見方をテーマにした「般若経」という経典類を編纂し、また実践的には「自分だけが阿羅漢になる修行に専念するのは他の苦しんでいる人々を無視したケチな考え方」(小乗的)であると批判して、すべての人が菩薩行を経て「阿羅漢」ではなく「仏」になる道を歩むべきであるとするいわゆる「大乗仏教」運動が展開されました。
 そして、2世紀頃になると先にご紹介した龍樹が登場し、それら般若経などに示された「空」というものの見方をより詳しく論じ、本来どのようなものにも固定的な実体なり同一性を認めないのが釈尊の立場であるとして、それらの実体論的な考え方を批判して釈尊の「無常」「無我」の立場を再確認する意味で、「空」というものの見方を再定義し直したわけです。

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