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地獄に、落ちたあと

 一

 天上から下りてきた蜘蛛の糸にしがみつき、
「しめた、助かった。地獄からぬけ出せる」
 と喜んだのも束の間。
 自分の後をぞろぞろとついてくる罪人たちに驚いて、
「おまえたち、おりろ」
 と怒鳴ったとたん、糸が切れ、まっさかさまに地獄に舞いもどってしまった、大泥棒のカンダタ。
 ジェットコースーターのような出来事にしばらくは茫然として、血の池に身をまかせ、ぷかぷか浮いているだけだった。
「途中で休んでなどおらず、ひたすら上だけ見て、糸をのぼり切ってしまえばよかった」
 今さらながらにそう思うカンダタだったが、ふと誰かが傍にいることに気がついた。
「そこのあなた」
 どことなく懐かしい感じのする女だった。
 女はカンダタのすぐ横に浮かぶと、話しかけてきた。
「手に握っているものは、何ですか」
 カンダタは天から落ちつつも、後生大事と糸の切れ端を握りしめていたのだった。
 血の池の中で、美しく輝く銀色の蜘蛛の糸。
 もはや役立たずのシロモノでしかないが、カンダタはどうしても、その糸を手離すことができずにいたのだった。
「つまらないものだが。女、これが欲しいのか」
「マヤです。あなたは」
 すこし戸惑いつつ、カンダタは答えた。
「カンダタだ。名前など忘れていたぞ。地獄で名乗るとは思わなかったからな」
 一縷の望みを断たれ、落ち込んでいたカンダタの心が、しゃべることで動きはじめた。
「それを貸していただけませんか。わたしの象なら、天まで飛ばせるかもしれない」
「象だと。なんの話だ」
 マヤと名乗る女は、自身が地獄に落とされた理由を語って聞かせた。
「ここに来る前、わたしは象を飼っておりました。ある時、その象がわたしを守ろうとして人を傷つけてしまい、象もろともここに来たのです」
 そういうと女、マヤは、いつの間にかカンダタを見下していた。
 いや。
 マヤを頭に乗せた巨大な象が、血の池の水面に姿を現したのだ。
 まるで口の蝶番がこわれたかのように、カンダタは大きな口をぱくぱくさせ、声も出ず、眼をぎょろぎょろと動かした。
「さあ、それを渡してください。血とともに、噴水のように天まで飛ばしましょう。糸が天の淵にかかれば、地獄より出られるかも知れません」
 ほかの人からすれば屑同然でも、地獄からぬけ出せたかもしれない瞬間を思い返すことができる、唯一の品。
 しかしカンダタは、素直に蜘蛛の糸の切れ端を渡したのだった。
 糸を受けとったマヤは、象の長い鼻にその糸を巻き付けた。
 すると血の池に鼻をつっこんだ象は、しばらくすると天に向かって高々と鼻をもたげた。
「よし」
 マヤの言葉とともに、真っ赤な水柱が地獄に立ち昇り、その先を、蜘蛛の糸が銀色に煌めき舞い上がってゆく。
 息を呑んで見守るカンダタの上にやがて、一すじ細く光りながら、するすると垂れてくるものがあった。
 あの時と同じ、カンダタの頭上に、蜘蛛の糸が現れたのだ。

 二

「いったとおりでございましょう」
 カンダタに向かい、マヤが声をかけてくる。
「さあ、その糸をおのぼりなさい」
 糸に手をのばしかけたカンダタだったが、その手が途中で止まった。
「いや、先にいけ」
 象のうえに立つマヤは何も答えない。
「おれは、このあとに何が起きるか知っている」
 見上げるカンダタには、マヤの表情は見えなかったが、落ちてくる声音はカンダタの言葉を意外に思う気持ちに満ちていた。
「カンダタは、地獄が嫌ではないのですか」
「地獄なんざ、真っ平だ。だがな。ほかの者に足を引っ張られ、地獄に落とされるのはそれ以上に御免だ。まずはお前がこの糸をのぼり切れ。のぼり切って、極楽までいけるところをおれに見せてくれ。それまで、おれが糸を守ってやろう」
 それを聞いたマヤは、蜘蛛の糸に手をかけ、するすると体の重さなど感じないように、たぐりのぼり始めた。
 カンダタはその様子を見届けると、象の頭によじ登り、ほかの罪人が糸に近づかないように喚き、力の限り戦いはじめた。
 だが、糸に集まってくる罪人は、蟻の行列のように何百となく何千となく限りがない。
 これだけの罪人を相手にしたあとでは、大泥棒のカンダタでも、蜘蛛の糸をのぼり切ることは、むずかしいに違いなかった。
 しかし、カンダタはそれでもいいと思っていた。
 あっという間に風を切り、独楽のようにくるくるまわりながら、血の池に落ちてゆく。
 あの瞬間の絶望は、はじめて地獄に落とされたときよりも深く、その気持ちを味わったカンダタは、
「糸が二人の重さに耐えられると思えない。一度落ちたおれの巻き添えで、あの女が落ちるのは、いくら何でも可哀そうだ」
 と思いかえしたのだった。
「こら、罪人ども。この糸は、あの女のものだ。だれにも登らせんぞ」
 周りが見えないほど集まった罪人たち相手に滅茶苦茶に暴れ回り、息もできないほど疲れきったカンダタは、ふと体が軽いことに気がついた。
 よく見ると、体のあちこちに銀色に輝く糸が巻きついてる。
 一本といわず、天から無数に垂れてきた極楽の蜘蛛の糸は、カンダタの体をすっかり覆いつくすと、まるで銀色の玉のように丸まった。
 そして、すっかり糸に包まれたカンダタは、不意に天に引っ張りあげられたのだった。

 三

 ある日の事。
 お釈迦様が極楽の蓮池のふちを散歩していると、摩耶(まや)夫人が立ってらっしゃるのに気がついた。
 夫人は胸元に、可愛らしい赤ん坊を抱いていた。
「おや。その子は、どうされました」
「さきほど、生まれました」
 蜘蛛の糸玉の中で溶けてしまったカンダタは、赤ん坊として生まれ変わったのだった。
「それはそれは」
 どこか見覚えのある赤ん坊の顔をご覧になったお釈迦様は、嬉しそうな御顔になられた。
「きっと元気な子に育つでしょう」
「わたくしもそう思います」
 蜘蛛の糸で髪をまとめた摩耶夫人は、赤ん坊の頭を優しくなでた。
 ひとしきりその様子をご覧になっていたお釈迦様は、嬉しそうな御顔のまま、またぶらぶらと散歩をはじめた。
 池の中に咲いている蓮の花は、みんな蜘蛛の糸のようにまっ白で、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れている。
 極楽は丁度朝なのでございましょう。

※インスパイア「蜘蛛の糸」芥川龍之介

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