見えてるものと見えてないもの
たくさん写真を撮っても、表情が変わるせいで、変な表情になってたり、目をつぶってしまっていたり、ピントが別のものに合ってたり、明るさ暗さがちょうどよくなかったり、ブレてしまっていたり。
そんなこんなで、結局撮った人に見せる写真は半分以下になることもある。3分の1以下になることもある。
自分の下手さ加減にびっくりしたけれど、プロでも失敗しない人はいないみたい。試し撮りという言葉がある。
考えてみれば当たり前か。
背景に余計なものが映っているのを消したり、ひかりや色味の調節をする。レタッチ。夢中になって自分の写真を誤魔化していく。
最後に共有。LINEアルバムか、googleフォトか、drive。Dropboxもあるかな。用途に合わせて使い分ける。
こんな風にしていくと案外時間が経ってる。そうか、写真は撮ったあとも時間がかかるんだ。始めてから初めて知った。
みんなに見えてるのは撮ってる姿と出来上がった写真。あんなに撮ってたけど意外と少ないねって言われてたときに、そのことに改めて気づかされた。僕もそう思うよ、なんでこんなに少なくなるかな。
見えてるものと見えてないもの。どちらかがどちらより重要なわけじゃない。でも世の中には自分視点で見えないものの方がずっとずっと多い。それに僕は(というより僕たちは)見えてるものの方を見えてないものよりも重要視しがちだ、きっと。だから見えてないものの方に対して相対的に重みを置いて考えるべきな気がする。
最近あったこと。
知人が不幸になったり手を出しているものが多くなりすぎたりで追い詰められて、少し塞ぎ込んでしまったときがあった。見るからに元気がなかったらしい。見かねた友達が飲みに誘ってくれた。そうやってその子が僕の悩みに気づいてくれるのはこれが初めてじゃなくて、何度もあった。
その子が話していた言葉に印象的なものがある。
自分には見えないだけで、他人の裏側にはなにかがある。いますごく笑っている人でも、もしかしたら病気だったかもしれない。
わたしは、いじめられていた過去があるように見られない。仲良くなったひとに話すと驚かれる。明るいし、割と誰とでも仲良くなるから。でもわたしには、そういう過去があるし、その影響がわたしをかたどっている。だからわたしは表に出ている何かだけで判断するのはやめた。
確かこんなような内容だったと思う。内容は当たり前かもしれないけれど僕はきちんとやれているのかと言われたらあまり自信はない。そういう人が友達にいて嬉しく思うとともに、きっとこの人は僕以外の誰に対してもそうなんだろうなとも思った。
仕事、学歴、成績、言動や容姿、少ない情報から人をラベル付けすることはある種の楽しさがある。評価の中で一貫性をつけたいから何かの評価が別の側面の評価に影響をあたえることがある。ステレオタイプに当てはめて、数十年歩んだ他人の人生をわかった気になるのは快感なのかもしれない。
ジョジョの奇妙な冒険の第5部に「真実に向かおうとする意志」という有名なセリフがある。文脈があって非常に味わい深いのだけど、すごく雑に言ってしまうなら
「性急に結果を求めずに真実を探求し続けていく過程が大事なんだ」(ぶら下げられた結論やゴールに飛びつくことなく歩んでいこうとする意志そのものが大事だ)
という旨を伝えている。
見えてるものと見えてないものがある。人や物事に対して真摯に対峙したい。
見えてないものを推し量る心構えを、推し量っても軽々に結論を出そうとしない心構えを、
僕は持ち続けていきたい。
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