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関わりあえること、その意味

生きる意味があるのかについて誰しもが一度は考えたことがあるとおもう。僕は実家が教会だけど、あえて宗教的な側面を無視したときに、どういう結論になるのだろう。これに関しては意見はあるけれど、尊敬する友人の受け売りで、初めてきいたときは、いたく共感した。彼は確か、こんなことを言っていた。

例えば、無人島に過ごしていて、生涯、誰とも出会わなかったとして、同じように生きているだろうかと考えた。そうではないように思った。

これは、『ただひとりで、生きる意味は確かにない。でも誰か一緒なら、生きる意味はある』ということだと思う。だから『他人から見た自分の像の重ね合わせが自分の生きた意味になる』のではないかと思った。

『昔の文豪』と言われる人たちは、数多くが自殺している。自らの考えを深めていくにあたって、彼らは社会との接触を断ち、孤独であろうとし続けた。だから、『他人から見た自分の像』が薄くなってしまって、生きている意味がなくなってしまったんだと思う。

論理の飛躍がありそうだけどうなずいた。『交友関係を厭う』『感情とは距離を置いて冷静に物事を判断する』ーーそんな彼が出した結論だと思うと興味深い。一般道徳のような考えが、ある程度根拠をもとに、でてくることにも面白さを感じる。

『生きる意味が人によって違うこと』に理由を与えているところにも、また面白さを感じる。(見つめられてきた人たちが違うから、人によって生きる理由が違う、ということになる)

自分を見ている誰かが、どれだけいるか。自分を見ている誰かとの関係がどんなに強固か。それが、生きる意味の確かさを表すことになる。もっといえば、どんなに避けようとも、誰かと関わってしまえば、どうしたってお互いに生きる意味を付加しあう、ということ。

それは、すごく素敵な感じがする。

自分に関わっている一人ひとりが自分の生きる意味を作っている。どんなに憎くても偶然でも、その、『自分を見つめた誰か』のおかげでいま生きる理由がある。人は、関わるだけでお互いに生きていく意味とちからを与え合っている。いいかも、と思った。

『夜は短し歩けよ乙女』(森見登美彦)という本(または映画)はこの感覚を刺激する。めちゃくちゃ好き。ぜひ読むなり映画もでてるし見るなりしてほしい。
終盤に黒髪の乙女が李白に言う映画版アレンジのセリフが特に好き。(具体的なセリフをここに書きたかったけど、まだ見てない人に申し訳ないのでやめた) 鑑賞後の気持ちが、すごく心地いい。

最近いろいろあってひさびさにじっくり読みたくなった。

僕は諸事情があって大学生を1年延長しているんだけど、本当につい最近、立て続けに(先に卒業した大学の友達)3人くらい転職の話をうちあけられた。相談してくれた人もいた。
キャリア支援団体にいるような、転職に関して全く前向きではないタイプの友達だったから、本当にびっくりした。友達は、言ってしまえば就職先に絶望している感じだった。

こういうと、ブラック企業に勤めていると想像されるかもしれないけれど、そんなことは全くなく。めちゃくちゃ日本を代表するようなところや、公務員、士業とされるような仕事に就いた人たち。

ひとりならまだしも。それも、続けざまに別々の関わりで3人だ。

大切にしている、すごく好きで、素敵な友人。だから、本当に本当に、どうか力になりたい、と思った。だけど聴くことしか、うなずくことしかできないだろう、とも思った。今の僕には第二新卒の求人を紹介できるような人脈はないから。
キャリア支援の団体に1年以上いたのに、自分が大切にしたい人たちの力になれない気がして、何の意味があったんだろう、と思って、とっても悔しくてかなしくなった。

アドバイザーではなく友達としての意見がほしい。つねきちだから話してるから。

そう言われて、変なスタンスで友達の相談を受けようとしていたことに気づいた。なまじ、キャリア相談を乗ることに慣れて、友達としてどうあるべきかみたいな視点が抜けていた。あと、最後のひとこと嬉しい。

そっか、人と人は会うだけで元気になるんだった。

いたく共感したはずなのに忘れてた考えを思い出した。だとしたら、僕にやれることもたくさんある。
とにかく少しでも力になれたらいいな。もしかしたら自分がそのひとの人生の、一瞬くらいの生きる意味になるかもしれないのだから。

そんなわけで、へこたれそうになった今夜は『夜は短し歩けよ乙女』読むか見るかしよう。
自分を見つけてくれた誰かに今日も感謝することにしよう。そうおもった。

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