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どこへ行っても、「性教育」と「非暴力」(人間関係)

結局どこへ行っても、幼児期の性教育と非暴力コミュニケーション(NVC)は、人間力を育むために必須だと改めて思い、明るい性教育「パンツの教室」体験のオンライン講座と、NVC(非暴力コミュニケーション)講座に申し込んでみた。

先日、トランジッションタウン藤野にある学校法人シュタイナー学園で開催されたイベントに参加した際、改めてこの地域の魅力を感じた。子どもが大勢いるのに、大人の怒鳴り声も、子どもの喚き声も聞こえない賑やかだけど穏やかな空間。

出店してる地域の人たちは体や環境に良いものを手作りしたり、売ったりしていて、自分の居場所がありそうな気がした。実は、藤野には元々ご縁があって、気の合う仲間も多く、移住計画をしていたが訳があって断念していたので、久しぶりの再訪だったのだが、いつになく「ただいま感」を覚えた。

イベントから2週間後、藤野周辺をもっと深く知るために、一泊二日のひとり小旅行をした。目玉は、シュタイナー学園教員育成講座の説明会、相模湖のイベント、地域通貨の説明会。

どれも興味深い体験になったが、旅が終わった頃には、理想的な側面だけでなく、リアルな側面も見え、当初のワクワク感は薄れ、さてこれから私はどう生きよう?というリアルな自問自答が始まった。

まず、シュタイナー学園の教員育成講座で「性教育は5年生から始まる」と知り、私は落胆した。幼児期からの教育を重視していると謳っても、性教育に至っては一般教育とさほど変わらないという現実を確認し、私は学校教育に頼り過ぎることに限界を改めて感じた。

経済的に困っているのに、同学園に子どもを入れたがっている友人がいるが、そのことで日常的にストレスを抱えてまで実現するほどのことかと疑問を持った。例えば、幼児期からの性教育は、草の根活動によって、保護者や一般の学校の生徒に向けて行われていることもある。

同学園も、性教育のプロを招いて、幼児の頃から体(主にプライベートパーツ)を他人に見せたり、触らせたり、他人のを見たり触ったりしない、嫌なことをされたら、大声で嫌と言って、逃げて、近くにいる人にどんどん相談するという基本的なハームリダクションを教えた方がいいのではないだろうか?と思った。

この考えを自分事として突き詰めると、私自身が性教育をもっと理解し、実際に教員になるかは別として、他人に伝わるように話せるようになればよい、ということだった。それで、以前から興味を持っていた「パンツの教室」の体験オンライン講座に申し込んでみた。

同学園の体験(見学)はまだできないらしいが、パンツの教室なら頻繁にオンラインで無料体験が開催されている。このように開かれた環境は、教員不足の問題を打破するためにも効果的なのではないかと思った。

友人はシュタイナー教育を推していたが、完璧なものなど世の中にはないとすれば、足りないものを補う準備や柔軟性も必要だと思う。


次に、相模湖で行われた移住者によるイベントに参加した時のこと。

地元の有機野菜が使われてる健康に良さそうな弁当を買い、古民家で開催されていた音楽ライブを聞きがら食べようとしたら玄関には足の踏み場のないほどの靴があった。

見上げると、中年男性が「座ります?」と聞いたので、「あ、ハイ」と言って上がった。座敷に入ろうとすると、男性が手を振って、ちゃぶ台でひとり座っていた中学生くらいの少年に退くように指図した。

私は、思わず「いやいやいやいや」と言って戸惑った。一緒に座らせてもらうならまだしも、わざわざ席を立ってもらうなんて申し訳なさすぎる。

男性は「大丈夫、こいつ食べてないんで」と言ったが、そういう問題じゃない。

私は急いで、逃げるようにして靴を履き、その場から退散した。怖かった。

狭い会場で再びふたりに会わないように気を張った。多分、親子なのだろうが、実はこのような平和的でシャンティなイベントでもあのような暴力的な場面を見ることは少なくない。一見、親切そうに見えた男性の、少年をあからさまに見下した態度。会場に着いた時に感じた楽園のような魅力に一気に靄がかかり、これもまた世の現実だと、我に帰った。

戦争時代に比べ、食べることに苦労する人口は日本では減ってきているが、逆に食べることが正義みたいな風潮が強くなり過ぎて、過食に苦労している人口が増えてる気がする。男性は「コイツ、食べてないんで」と言ったが、食べてなければ、弁当を食べようとする私よりその場にいる資格がないとなってしまうのは、おかしい。

子どもをシュタイナーに入園させたがってる友人も、2歳児の娘の口に常に何かを入れようとしているが、見てる方も辛くなるほどだ。

思うように食べない娘に対し、泣く真似をする友人を見て、おにぎりを口に入れて「元氣になった?」と聞く。2歳児にして既に自分より立場の強い他者の顔色を伺いながら自分の意に反する言動を身につけてしまっている。いくら子どもの個性を尊重するシュタイナーに入れられたとしても、基本である家庭内で子どもの意思が無視されていたら台無しではないか。

ここで共通するのは、親は全く悪気がないということ。それぞれ自分の言動は正義だと思い込んでいるから、自分の暴力性になかなか気づかない。私の両親が愛情や躾という言葉を駆使して私を猥褻や体罰などで苦しめてきた構図となんらわからない。

子供に対し圧倒的な力を持つ親という存在は罪な存在になりやすいから、怖い。独善で自分の子どもの人生をぐちゃぐちゃにしておきながら、その原因が自分自身だと気づけないまま生きるのが怖い。

だから私は子どもを産まないし、育てないと決めているけど、自分の周りで日常的に虐待が起きているのを見ると、他人事に思えないほど苦しくなる。

どうか、子どもたちの意思や感覚を壊さないでほしい。子どもたちは未来なんだから。先に死ぬ大人たちは邪魔をしないでほしい。ただ見守って、話を聞いてあげてほしい。

そんな思いがある私もやはり人間。唯一心を許せる恋人には辛く当たってしまう。気を許した相手からは「自分の気持ちをわかってほしい」が先走り、「相手の気持ちを無条件に聞こう」ということをおざなりにしてしまう。

要するに非暴力コミュニケーションの練習が足りてない。マイケル・ローゼンバーグ氏の洋書は何冊か読んで独学で実践もしてきた。だけど不十分だから、彼氏に怒ってしまうのだろう。

調べたら近所でNVCのワークショップが開催されることを知り、申し込んでみた。

いつでも、今できることから、コツコツと。

環境を変えることもいいし、接する相手を変えるのもいい、けど、自分という人間が成長して変わらない限り、結果は大差ないことは嫌と言うほど経験済み。

自分磨きをしてゆけば、その時の自分に合う環境や人間に出会える。全ては自分にかかってる。一番簡単で難しい答えはいつだって自分が握ってる。

ちなみに藤野にご縁を作ってくれた友人は現在、藤野に住んでいない。元友達から暴力を振われて身の危険を感じたため、藤野は好きだけど、その人が怖くて近寄れないという。

結局、どんな素敵な環境に行っても人間関係がうまくいかないと、そこにはいられなくなる。

私も、生まれ育った地域や実家のある場所を言うと、必ず羨ましがられるけど、私にとってはトラウマの記憶の方が強くて、近寄りたいと思えない。

私は気に入った場所で健やかに暮らせるよう、どこにいても人間関係を円満にできる術を身につけていこう。

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