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新ジャンルと再興の先駆者オーデマピゲ

こんにちは!

 今回は高級時計でありながら、カジュアルにも
ドレスにもなるラグジュアリースポーツウォッチ
ロイヤルオークを生み出したブランド
「オーデマピゲ」について執筆しました!

 みなさんはオーデマピゲと聞くとどんなイメージをお持ちでしょうか?
 様々な有名人が着用しているロイヤルオークの ブランド、1本数千万するような超高級な腕時計を 作っているブランド…
 などなど、まさにスイス腕時計の最高峰!というイメージがあるかと思います。

 筆者も同じようなイメージを持っていていましたが、その実態は革新的なモノづくり精神を持った 職人達と、それを支えてチャレンジ精神に溢れる ビジネスでブランドを世に広めたリーダーがいる 知れば知るほど奥が深い時計ブランド。
 それがオーデマピゲというブランドでした!

 さっそくオーデマピゲの波瀾万丈の歴史とそれを乗り越えて行ったストーリーを見ていきましょう!

・時計界に現れた神童

 オーデマピゲはスイス時計の聖地と言われる  ジュウ渓谷にあるル・ブラッシュという小さな村で誕生し、今日までスイス時計業界に革新的な技術やアイデアをもたらして発展の礎を築いてきました。

 代々農業を行いながら冬の間時計作りをする家に産まれた創業者「ジュール=ルイ・オーデマ」は、 少年時代から時計いじりが好きでよく時計を分解して遊んでいたそうです。 
 そういった時計に触れ合える環境と興味があったジュール氏は、時計職人を志して修行を積んだ事で若い頃から複雑な仕組みの時計作りを行えるほどの才能を開花させて、当時の時計業界では「若手の中に天才がいる!」と噂されるほどの逸材でした。 


 そして1875年に時計メーカーにムーブメントを供給する時計部品職人として独立して小さな工房を 設立しました!
 またこの時後にブランドを一緒に立ち上げることになる幼馴染で同じく時計職人の「エドワール=オーギュスト・ピゲ」に工房の手伝いをしてもらいたいと声をかけて仲間に加わります。
 このコンビ誕生がまさに伝説の始まりと言えます!

・幼馴染との歩み

 高い技術力を持ち、特に複雑機構を組み込んだ時計作りを得意としていたジュール氏の工房には多くの注文が入り、エドワール氏と共に生産性向上とさらなる複雑なムーブメント開発を行った事で順調に事業を伸ばして行きました。

 こうして時計部品職人として成功したジュール氏たち工房はある転機を迎えます。 それはムーブメント供給ではなく、時計完成まで一貫して行うブランドの立ち上げです。 
 これには自分たちもこれからの時計業界を盛り上げていく一員となって、そして自分たちの子孫たちに受け継いでいける一流のブランドを目指す!  という想いがありました。
 そして1882年に2人の名前を冠したブランド 「オーデマピゲ」が誕生しました! 


 このブランド立ち上げに当たって、エドワール氏は営業を担当する事になります。 ジュール氏が 作る類稀なる時計を販売するには仕組みを理解して魅力を伝える役割が必要だとそばで見てきたエドワール氏は考えたのでした。
 ジュール氏が時計を作り、それをエドワール氏が広める。 この分業して各々が自分の役割に尽力して時に話し合いながら組織として活動した彼らの 名前は瞬く間に広まっていきました!


 そして1889年のパリ万博に出展を果たし、ミニッツリピーターや永久カレンダー、クロノグラフなど様々な複雑機構を1つの時計に組み込んだ超複雑で革新的な懐中時計を発表したことでメダルが授与され、表彰されました! 
 その後も世界初のミニッツリピーター搭載の腕時計を開発するなど時計業界を牽引する実力とその魅力を広く伝える営業力を兼ね備えた一流ブランドへとオーデマピゲは成長して行きました!

・困難の先に差す光

 小さな工房からスイスを代表する時計ブランドの一つになるまで発展させてきた2人の創業者は1918年にジュール氏が、1919年にエドワール氏が惜しまれつつこの世を去り、2代目として2人の息子たちである「ポール=ルイ・オーデマ」と「ポール=エドワール・ピゲ」にブランドは引き継がれます。
 新たなスタートとなったオーデマピゲですが、 激動の20世紀の世の流れに巻き込まれていき、苦難の歴史を歩むことになっていきました。


 20世紀初頭の世界では1913年に起こった第一次世界大戦やその後の1929年には世界恐慌によって世界的な経済不安に陥った時があり、経営の舵取りが難しい時代でした。 
 そんな苦しい中でもオーデマピゲは、新たに世界最小のムーブメントや薄型時計の開発など行い、 スイス時計業界を技術的にリードし続けていきます。

 このような困難な時代であっても立ち止まらず進み続けられたのは、創業者達の信念を受け継いで革新的な技術開発とそれを生み出すための人材育成を行い、それら素晴らしい技術を広める営業を続けてきたオーデマピゲだったからこそなのでしょう! 


 しかし、その後1939年に第2時世界大戦が起こり、厳しい経営を余儀なくされていきました。
 そんなオーデマピゲに大戦終結間近の1945年今後の未来を照らし、さらなる発展へと尽力し、オーデマピゲを世界的ブランドへと成長させる救世主となる若者が入社してきます。
 その人物こそ元祖ラグジュアリースポーツウォッチの仕掛け人「ジョルジュ・ゴレイ」です。

・復活の狼煙

 1921年ジュウ渓谷に生まれ、育ったゴレイ氏は地元の高校卒業後スイス東部のザンクトガレン大学に入学して経済学を学んでジュウ渓谷に帰郷し、時計業を行い地元産業に貢献してきたオーデマピゲに魅力を感じて1945年に会計士として入社しました。 
 ゴレイ氏は入社後大学で学んだ経営学を軸に世界恐慌や2度の大戦によって経営に苦しむオーデマピゲの経営再建に尽力していきます。 

 当時30名ほどの社員数だったオーデマピゲですが、この頃で創業70年の老舗になっていた社内で、新参者だったゴレイ氏の再建案に創業者一族含めみんなが耳を貸したのは、ゴレイ氏が地元ジュウ渓谷とそこで発展した時計産業を愛して、それを行ってきたオーデマピゲに敬意を表して会社全体と親密にコミュニケーションを取るような人柄があったからだと思います。 

 ゴレイ氏を中心に経営再建を順調に進めていったオーデマピゲは、1960年代頃には生産本数がゴレイ氏入社時の数字から10倍へ伸ばして、それに伴い社員数も2倍以上の雇用・育成を行った事により、売り上げをV字回復させることに成功しました!


 こうしてオーデマピゲ全体から信頼され、組織に貢献し続けたゴレイ氏は、営業担当役員を経て1966年にCEOに就任しました! 
 これまで一族が経営のトップも務めてきたオーデマピゲにとって異例の大抜擢でした。 

・新たなスタイルと伝説の創造

 その後1970年にさらなるオーデマピゲの発展を目指しゴレイ氏は、現在のスウォッチグループの前身にあたるSSIHとの協力関係を結ぶ事を考えます。 
 これはSSIHとの合併ではなく、世界中に販路を持つ大手企業と業務提携を行うことでオーデマピゲの時計の素晴らしさを全世界に広めるための一大プロジェクトでした。 

 この提携交渉でSSIHから1つの条件が出されます。
 それはこの当時イタリアで流行っていたステンレス製の腕時計をより現代的で魅力的なアイデアのある腕時計を作って販売するというものでした。 
 当時の高級時計はゴールド製のものが主流で今のようにステンレス製の腕時計というのはまだ技術的に確立されておらず、スイス時計業界では未開拓なものでした。 しかし、逆を言えばこれまで革新的な技術とアイデアで業界をリードしてきたオーデマピゲにとって打ってつけの課題でした!


 とはいえゴールド製とは違いカジュアルなステンレスを素材に使った腕時計をこれまでと同じようなドレッシーなデザインのものではいけないと考えたゴレイ氏は、後に時計界のピカソと呼ばれ、ゴレイ氏が若い頃から親交があった時計デザイナー  「ジェラルド・ジェンタ」に協力を仰ぎました。 

 ジェラルド氏にステンレス製で現代的な要素として防水機能を持たせた利便性とビジネスシーンにもパーティシーンにも着用できるスタイリッシュな 腕時計のデザインを考えてほしい依頼します。 
 しかも翌日にはデザイン案を貰いたいというタイトな依頼でしたが、ゴレイ氏と仲が良く、共通する価値観を持っていたジェラルド氏は、この依頼を引き受けて、翌朝にはゴレイ氏の元にデザイン案の スケッチを送りました。


 この時デザインされた時計こそ元祖ラグジュアリースポーツウォッチ「ロイヤルオーク」です!

ステンレススチール製ロイヤルオーク


 このロイヤルオークによってSSIHとの交渉は成立してオーデマピゲの世界への躍進がはじまります。
 1972年に製品化されてイタリアをはじめ、フランスや日本でも販売されたロイヤルオークは、オーデマピゲの他のゴールド製腕時計が2990スイスフラン(当時の日本円換算で約24万円)だったのに対して3300スイスフラン(約26万円)というステンレス製でありながらゴールド製より高い価格設定でした。

「ゴールドウォッチより高いスティールウォッチ」という広告を打ってユーザーの興味を引いたロイヤルオークは、最初に生産された1000本のうち1年で 約500本売れて、さらに1000本づつ異なる仕様の モデルをシリーズ展開することによって、普段使いにも、出かける時のオシャレにもうってつけの腕時計として世界の時計ファンの心を掴み、名作腕時計と呼ばれるようになっていきました!

・スイス時計再興への道標

 この当時日本のセイコーが世界初のクォーツ式腕時計を1969年に発表した事で、クォーツショックと呼ばれる機械式腕時計が売れない事態に陥り、スイス時計業界にとって過去最大のピンチを迎えていました。


 そんな中オーデマピゲは、ゴレイ氏の指揮のもとロイヤルオークを軸に、1978年に世界最薄の自動巻き永久カレンダームーブメントや1986年に世界初の自動巻きトゥールビヨン腕時計を発表して長年受け継いできた時計職人の技術力と革新性に溢れたアイデアの腕時計を世に送り出すなど思い切った攻めの戦略に打って出たのです。

 このような機械式腕時計が売れない状況の中で販路拡大やロイヤルオーク開発を行うなど強気の戦略に出れことができたのは、やはりゴレイ氏がリーダーとして組織を率いていたからでしょう。
 ゴレイ氏が経営者として先見の明があったのはもちろんですが、入社以来会社の立て直しや雇用維持と技術開発、そして会社を守り、大きく成長させるためのアイデア等組織と人を第一に考えて行動して、創業者一族をはじめとする会社全体からゴレイ氏が信頼されていたからこそだったのです。 


 こうしてクォーツショックで時計ブランドが次々と無くなっていく厳しい状況の中で会社を存続させて、職人の技術力向上と人材育成に励んで新たな製品を生み出す事で世界にオーデマピゲの時計を広めて売り上げを伸ばしていきました。
 そしてクォーツショックや幾多の困難を乗り越えて、オーデマピゲは時計業界に燦然と輝くスイス最高峰のブランドへと至りました。
 さらに、機械式の複雑機構と職人により美しく仕上げられたモノづくりの魅力を前面に押し出し、スイス時計産業を復興させていく旗頭として業界を盛り上げて存在にオーデマピゲはなっていきました!


 まさしくオーデマピゲは、職人による手仕事のモノづくりに敬意を払い、ビジネスへと昇華させて世の中に広めていったモノづくりビジネスの革命児と言えるブランドだと私は思います。

・まとめ

 オーデマピゲの歴史、いかがだったでしょうか?
 スイス時計最高峰という派手なイメージがある ブランドですが、そこに至るまでには様々な苦難と挑戦があり、それを乗り越える道を示す偉大なリーダーと、それを信じて共に乗り越えていく仲間たち
 そんな人と人が信頼し合って困難に立ち向かって行った末に今のブランドのイメージが持たれるように歴史がありました!

 現在でもオーデマピゲは、オーデマ家とピゲ家 一族が会長と役員を務める一族経営の会社で、今でも創業した土地のル・ブラッシュ村に本拠地を置いて経営しています。
 この本拠地には開発部門や製造部門の他に、将来の時計職人を育成する技術学校を設立して次世代の時計産業を支える人材を育てる事業も行っています。

 また、時計以外にもオーデマピゲが経営するホテルがあったり、ウィンタースポーツをはじめとするスポーツに協賛するなど地域産業やスポーツ産業に貢献する事で一つの会社組織としてではなく、それに関わりを持つ周りの産業とも手を取り合い支え合いながら活動しているオーデマピゲはこれからもさらに発展しながら、世の中に新たなものを発信するブランドになっていくと思います!

 ぜひみなさんもオーデマピゲの時計と会社の歴史以外の活動にも興味が湧いたら調べてみてください!

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
 これからもブランドのモノづくりの歴史やそれに携わる人々の歴史にフォーカスして執筆していきますので、新作や過去作も読んでいただけると嬉しい限りです!
 よろしくお願いします!!

#オーデマピゲ
#ロイヤルオーク
#スイス時計
#リーダーシップ

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