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宝石商の王 カルティエ

こんにちは!

 今回は筆者といたしましては満を辞しての執筆
テーマとなる最も尊敬と愛があるブランド
「カルティエ」についてお話しさせていただこうと思います!

 数あるブランドの中でも特別な威厳を感じるブランド界の王ともいえるカルティエ。
ジュエリーや腕時計など数々の名作を生み出してきて、長年数多くの人から憧れを抱かれ、愛され、魅了してきました。 筆者もその1人です。
 今回、そのカルティエの創世の歴史を僭越ながらお話しさせていただきます…!

 威厳と歴史あるカルティエの裏には様々な人達との関わり、文化と芸術の交わりから生まれた偉大な歴史があります…

では、はじめていきたいと思います!!

・パリ随一のジュエラーへの道

 1847年カルティエ創業者「ルイ=フランソワ・ カルティエ」がフランス・パリで初めて工房兼ブティックを開いたのはモントルゲイユ通りという日用品商店などが集まる庶民的な場所からカルティエの歴史は始まりました。 
 いつか貴族やお金持ちなどオシャレな人が集まるパレロワイヤルの近くに店を開きたい!
 そんな野望を胸にしていたカルティエは1853年にはその夢を叶えて店を移転させました。

 この頃のフランスでは、ナポレオン3世が皇帝に即位してパリの街は華やかで豊かな暮らしになっていて、パレロワイヤル周辺に移転したカルティエの店には皇室や貴族たちが訪れるようになり、やがて フランス皇室御用達店の勅令を受けるまでになりました!

 しかし、1870年にナポレオン3世が失脚してしまい、それまで贅沢な暮らしをしていた貴族たちの客足は減ってしまいます。 このままカルティエも あわや…と思われましたが、1874年に息子の
「アルフレッド・カルティエ」に経営を引き継いだ事をきっかけに、銀行家や資本家など裕福な商人たちから注文を受けて、贅沢な装飾を施した日用品 製作を手掛けました。
 こうしてカルティエの名前と高い品質を守りながら、さらに客層を増やしていってパリ有数の高級店へと登り詰めて行きました。

・皇太子から贈られた伝説の言葉

 パリでも有名店となったカルティエはさらなる 飛躍のために、1899年に世界的な富豪たちが行き交うラ・ペ通りに店を移転させました。
 この頃からアルフレッド氏の3人の息子たち長男 ルイ、次男ピエール、三男ジャックが店を手伝うようになります。

 特に後に3代目となる長男ルイ氏は優れた才能の 持ち主で、ルイ氏はこのラ・ペ通りに来る富豪たちに宛てて手紙を書いて店の宣伝をしていました。
 彼のしたためた手紙は魅力的で美しい内容だったと言われていて、この活動の効果も相まってカルティエの名前は世界の富豪たちにも知られて、著名人が集う格式高い店へと成長していきます。 

 その顧客たちの中でカルティエにとって重要な存在となるのが英国皇太子「エドワード7世」です。 彼は多趣味でオシャレな英国紳士として有名で、 外国訪問だけが公務として許されていたこともあって外遊好きでもありました。 
 英国にはない優雅でオシャレなフランスが特に好きだったエドワード7世は、よくパリに訪れていたこともあってカルティエに出会うのもまた必然的だったのです。

 1902年にはエドワード7世が王様になる戴冠式に使われるジュエリー製作をフランスのカルティエに依頼するほどの信頼関係を結んでいました。 その依頼の時にエドワード7世からカルティエに贈られた有名な言葉があります。

「宝石商の王であるが故に、王の宝石商」

 この言葉こそカルティエが今日に置いても宝石商の王と呼ばれて、ジュエラー業界で不動の地位に君臨する由縁なのです!

・3兄弟伝説の幕開け

 アルフレッド氏の3人の息子のルイ、ピエール、 ジャックたちは父と共に仕事をして各々の才能と センスを磨き活躍していき、この3人の時代が今の カルティエを築きあげる事になります。

 経営能力に優れたルイ氏はエドワード7世からの熱望もあって、1902年にロンドンにカルティエの支店を開きます。 さらに経済的に発展し始めていたアメリカにも目を向けて、1909年にニューヨーク支店を開きました。 
 そして父アルフレッド氏の采配で、ジャック氏にロンドン支店、ピエール氏にニューヨーク支店を 任せて、ルイ氏はパリ本店に席を置き、それぞれが 才能を発揮していきます。 

 三男ジャック氏は、英国内はもちろん当時英国領だったインドの駐在高官や富豪たちとも信頼関係を結び、多くの商談や宝石類の買い付けを成功させ、さらに今後カルティエの代表的なデザインの元にもなる中東やアジアのオリエンタルな装飾文化を取り入れるきっかけを作るなど貢献します。
 次男ピエール氏は、商売人として才能に恵まれ、景気豊かなアメリカで今後にも繋がる販路を築きあげて、カルティエを世界的に有名なジュエラーへと成長させていきます。 

 そして長男ルイ氏は、高い経営能力共に芸術的感性とそれを実現する知性も兼ね備えた人物でもあり、この先のジュエリー製作のベースになる材料を初めて取り入れたり、文化の移り変わりの激しかった20世紀前半の美術様式の基礎の1つを作った1人にもなっていくのです。

・ルイ=カルティエの歩み

 19世紀末までの当時のヨーロッパでは曲線的で 平面と独自性のある「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる装飾が流行っていました。 

 しかしルイ氏は、この装飾様式はもう古い!と思い、新たな装飾様式を研究し始めます。 フランスの骨董美術や、中東やアジアの美術品までも研究して生み出されたのが、彼の最初の発明と言われる「ガーランドスタイル」です。
 ガーランドをざっくり説明すると、昔から名誉の象徴とされてきた花の冠などを指す言葉で、花や植物をモチーフに優美で繊細な細工が施されたジュエリーを発表していきます。 

 そしてこの細かな細工を実現するのにカルティエが初めてジュエリー製作の使用したと言われるのが「プラチナ」です。 硬くて加工が難しいプラチナですが、その頑丈さから繊細な細工をしても壊れないため、ベース作りに適している事を発見したルイ氏はこれをガーランドスタイルに取り入れました。
 今ではジュエリー製作に欠かせない材料の一つになったプラチナを初めてジュエリーに使った事から、カルティエ=プラチナというブランドイメージが誕生したのです!

 また、ガーランドスタイルの装飾は今でも使われていてカルティエの箱の縁に施された紋様のデザインベースになっています!

・紳士のための時計作り

 19世紀末のパリは「ベル・エポック」と呼ばれる華やかで活気ある時代で、カルティエが発表した ガーランドスタイルのジュエリーは、たちまちパリの社交界で人気となり様々な人たちとの交流が生まれました。 この交流から出会った人物の1人がブラジル人飛行士「アルベルト・サントス・デュモン」です。 
 パリの上空を飛び回る彼は、世間はもちろん社交界でも人気者でそんな彼と交流を深めたカルティエは彼からある要望を受けます。「操縦中でも安全に時間が確認できる機能的な時計が欲しい」というものでした。

 ただ便利なだけではなく、飛行士であると同時に人気者だった彼に似合うオシャレな時計でないといけないと考えたカルティエが1904年頃開発したのが、世界初の男性向け腕時計「サントス」でした。
 緩やかな曲線の要素もある見やすい角型のスクエアケースに、当時はまだ割れやすかった風防(ガラス)をねじ止めにすることで、交換しやすい機能的にも優れたこの腕時計は、1911年に商品化されてカルティエの腕時計作りの始まりにもなります。 

 当初時計作りのノウハウを持っていなかったカルティエは、以前から繋がりがあった後にジャガールクルトの共同経営者となる「エドモンド・ジャガー」と提携を結びます。 
 これによって、ジャガー氏の卓越した時計開発技術と、ルイ氏の芸術センスが合わさり、カルティエは今なお私たちを魅了する数々の名作腕時計を生み出していくことになります…!

・文化と芸術の交差点

 その後1914〜1918年に起きた第一次世界大戦を経て、1919年にカルティエの代表作「タンク」が発表されました。 このタンクのデザインは、戦争で初めて使われた戦車のキャタピラがモチーフになった(諸説あり)と言われています。
 戦車など兵器の話を聞くと怖いものと思われる方も少なくないかなと思いますが、この当時の人たちからすると今まで見たことがない最先端のもので、いわゆる男心をくすぐるカッコよくて、真似したくなる物だったんだと思いますw

 サントスと同じく直線的で長方形のモダンなデザインのタンクは、今なおカルティエといえばの代表的な腕時計であり、1920年代「アールデコ」全盛期の時代の象徴的な腕時計の1つで、
「タンキスト」と呼ばれる熱烈なファンがいるほどの人気なモデルです!

 この当時パリには世界中から芸術家が集まってきていて様々な文化交流が行われていました。
 後にカルティエの代表ジュエリー「トリニティ」の製作のきっかけを作る詩人「ジャン・コクトー」や、デザイナー「ココ・シャネル」、画家「パブロ・ピカソ」、小説家「S・F・ジェラルド」などなど、その後の芸術文化に影響を及ぼした人々が集まったパリの中で、カルティエもまた彼らに影響を与えると同時に、刺激を受けていたと思います。

 大戦後のこの時代から、豪華な装飾的な物から、モダンで実用的なものが好まれるようになっていた世界でカルティエは、サントスやタンクのような直線的なデザインの物や、アジアなどで見られる幾何学的な装飾模様などもデザインに取り入れて、機能性と実用性、そして人間的知性を感じさせる装飾をいち早く表現した事で「アールデコ」の先駆けと呼ばれる存在となりました。 

 その他にもこの時代にカルティエの代表的な腕時計たちが生み出されています。 ルイ氏の右腕的デザイナー「ジャンヌ・トゥーサン」が、植物モチーフの次は、動物モチーフが流行るのではないかというコンセプトから豹をモチーフにデザインしたレディースウォッチ「パンテール」を発表。
 モロッコの富豪から防水性のあるタンクを作って欲しいと要望を受けて開発した腕時計がベースになって作られたカルティエ初の防水腕時計「パシャ」の発表など数々の名作を生み出してジュエリーだけでなく、腕時計でも成功を収めました!

 これらのジュエリーと腕時計、他分野両方の成功の裏には、カルティエが芸術センスに秀でていたのはもちろんですが、数多くの王侯貴族、富豪、著名人などからの様々な注文を真摯に受け止めて、要望の物を実現するために研究・開発に挑戦して鍛えられた実績があってこそ、今でも数あるブランドの中で突出した知名度と数多くの人から信頼されて愛されるブランド。 
 まさしく宝石商の王に相応しい偉大なブランドとなったのだと私は思います。

・まとめ

カルティエのはじまりの歴史、いかがだったでしょうか?

 19世紀にはじまって世界に目を向けた物作りとコミュニティ作り、戦争や文化交流を経て生み出された芸術的なアイテムの数々…華やかなだけではない威厳ある素晴らしい歴史でした…!

 この執筆活動を通して私は普段出会うことがなかったであろう方達に投稿を見ていただけて、交流を持たせていただけるようになりました。その方たちを見ていると、様々な素晴らしい物や体験、感性、思想をお持ちの方たちばかりで世界の広さを実感しました。
 今後も見ていただけている方たちに楽しんでもらえて、これから見ていただける方たちにも興味を持っていただけるような執筆活動を通して、カルティエのように様々な方たちと出会い、交流をして私自身研鑽を積んでいきたいと思います!


 ここまで読んでいただきありがとうございます!
今後機会があればカルティエの歴史の他いろんなお話しさせていただきたいなと思っていますのでよろしくお願いいたします!


今後ともよろしくお願いいたします!!

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