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おやつを片手に【うみまち交換日記 vol.6】

こあちゃん、こんにちは。
毎日焦げそうなぐらい太陽が元気で、暑い日々ですね。

先日、風が少しだけ秋めいてきたとおもったのですがまだまだ暑さは続きそうです。どうぞ、暑さに気をつけてご自愛ください。

今日はおやつを片手にお返事を書いています。

前回のこあちゃんの帰省のお話の中で、親の老いを受け止めることは難しいこともあると書いてあり、私もだなと思いました。

なんだか、自分の親だけは若いつもりでいてしまいますね。

私は最近、無理にいろんなことを追わなくなりました。
元々気質的に細かいことが気になり、お節介なところがあるタイプなのですが、最近はそれを「まぁいいか」や「私には直接関係のないことだから放っておこう」とある程度の距離を置けるようになりました。

なぜこんな思考になったかというと、ナエドコで価値観を言語化した時にこれからは「手のひらで愛を育てる暮らし」をしたいなと感じたからです。

今繋がろうと思えば誰にだって繋がれるし、行こうと思えば行けます。でも私はめいいっぱい詰めてしまうと心や身体の余裕がなくなってしまい、息苦しくなります。

なので、私に関わることだけをしっかりやっていこうとおもっています。こあちゃんも「今の私にできることは、岡山のうみまちで私の暮らしを続けながらも、大切な人と会う時間をなるべく多くつくること。おそらく、ただそれだけなんです。」と言っていたように、ただシンプルに私が大切にしたい人・こと・ものを大切にしたいなという気持ちになっています。

人にはやっぱり持っている器みたいなものがあるとおもっていて、それが大きくてたくさん入れれる人もいる。でも私の器は小さくてかけやすい。だからこそ、自分で大切にして、そこにのせられる分をきちんと分けてあげる。そうおもったら気が楽になりました。

だから、ぼんやりもできているのかもしれません。こあちゃんの言っていた「ぼんやりの輪郭を味わっている、愛でている」もなんとなくわかります。ぼんやりしてはいるものの、実際には思考はかなり巡っていたり、忙しなく動き回る日もあります。ただ、この時間が愛おしいという思いは強くあって、ぼんやりしているをベースに日々を生きていると私は心地がいいです。

そういえば、もう1つ最近思っていることがあります。無理に追わなくなったのは人間関係やことだけではなく、いろんなことを「わかりきる」ということも無理にしなくなった気がします。
前までは私が知りたい、私や誰かの気持ちをはっきりさせなければと思っていたのですが、無理にそれをしなくなりました。言語化した方がはっきりすることもあると思うのですが、言葉にしてしまうことで消えてしまう何かもあるような気がします。今はただ、そうなんだと受け入れることにしています。
いつもがいつもではないのですが、比較的回数が多くなっている気がします。

自分でも自分の気持ちを決めつけないようにしたいなと。だから人の気持ちも決めつけたくないな。感じるままでいいような気がする。ただそれだけなんです。

明日まで待てばわかるかもしれないし、10年後ぐらいにふとわかるかもしれないし、わからないかもしれない。そんなゆったりした気持ちで私のせわしない心を見つめながら生きています。

そんなことを書いていたらおやつがなくなりました笑
今日はこの辺で。

こあちゃんとの交換日記は楽しいですね。また、たわいもない話をしていきましょう。

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