【Ninth Pencil】隣にあるのは

はじめに。

Ninth Pencil」8曲目の「もう君に会えない」を担当させていただく栗花落(つゆり)と申します。普段は絵を描いたり変にキモオタク的または思想強めなツイートをしたりなど。

非常にセンシティブなこの曲を任されてしまい、大変胃が痛い思いをしております。私なりの解釈及び考察ですので、何卒ご理解のほどよろしくお願いいたします。



素敵な企画に参加させていただき光栄です。

参加を快諾してくださった主催者のナツさん、そして記事を読んでくださる皆さまに最大級の感謝を。


企画トレイラーはこちらから。

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ふとしたときに会いたいと思う人はいるだろうか。

それは日常の延長線上にある営みの中でかもしれないし、あるいはその人の好きなものや気に入っているもの、似合いそうなものを見つけたり聞いたりして紐づけされた記憶が呼び起されたときかもしれない。


けれど、もし、その人ともう会えないとしたら?

日常の営みの中で脈絡なく思い出したり、その人に関連するものを見聞きして思い出したりするのすら嫌になってしまうかもしれないだろう。人に話しても何となく違和感を覚えて居心地が悪くなることもあるだろう。


だから今日も私達は、記憶の中でのみ生き続けるその人を思ってやるせない気持ちになり、どうにもできない無力な自分を嘆く。
嘆いていたところでその人が眼前に現れるわけでもないのに。

そんなことなど分かりきっていても、だとしても。

自分が抱えているこの気持ちだけは嘘ではないと信じたくて、思い出すたびに嘆いて、この痛みと苦しみこそがその人を思っている証だと信じていたいのだ。






「会えない」の定義


「会えない」とはどのような状況のことを指すだろうか。
この曲に関しては完全なる邪推であり、そもそも深堀すること自体が蛇足であろうとは思うが私なりに解釈させていただきたい。

一口に「会えない」と言っても、これからの未来で会える可能性があるのとないのとでは全く印象が変わってくるだろう。

例えば引っ越しなどで今の居住地からずいぶん遠いところに行く人に対しては「もう会えなくなってしまうかもな」と不安になることもあるだろうけれど、この場合はこちらが会いに行けば会えるという可能性がある。
もっと身近な例で言えば、高校や大学(あるいは中学)が別れてしまうという経験はきっと誰しもにあるはずだ。


私達の周りには常に「別れ」がある。
始まりには終わりがあるように、誰かと知り合ったその瞬間にその人と別れてしまう未来は確定している。それはほんの一瞬言葉を交わしただけの人であっても、何年も一緒にいるような人であっても。人でなくなっていい。使い古して着れなくなった服や、不意に落として割ってしまったグラスだって詩的な表現をすれば「別れ」と呼べる。誰に対しても、何に対しても等しく訪れる、言わば寿命のようなものだ。

それが訪れたとき、私達はそれに「会えなく」なる。
例え何かを約束していても、言いたかったことがあっても、それが叶うことはなくなってしまう。会いたいと思っても会えない、記憶の中ではいるはずなのにどうしたってそこにはいない。
今、あなたのそばにいる人だって、これからも長い間一緒にいられるなんて保証はないのに、私達は愚かにもこの瞬間が永遠であるかのように振る舞って生きている。

何回も、何回も、両手で数えきれなくなるくらいの別れを繰り返して私達は日々を過ごす。それは会えなくなってしまってからも絶えることなく、私達が生きていく限り続いていく。

あなたと過ごした全ての季節が、呪いのように重苦しい真実を突き付けてこようとも。無情にも過ぎゆく季節の端々であなたと過ごした記憶の欠片が姿をちらつかせても。


あなたが、もう会える場所にいなくとも。




記憶の中で


私達の記憶の中でのみ生き続けるその人は、私達のことを時に励まし、時に慰め、時に悲しませる。今この場にいないその人がどんな発言をするか、どんな行動を取るか想像して、一時は楽しくなるもののまたすぐに空しくなってしまう。まさしく“一喜一憂”という言葉がお似合いだ。


さて、時に「むなしい」という言葉には2種類の表記があるのはご存じだろうか。
「空」を用いる表記と、「虚」を用いる表記。この曲では前者の「空しい」が使用されている。軽く意味の違いを調べてみると、そこまで大きな差異はないように見受けられるものの、細かい違いとして「物質的、空間的なもの」か「精神的なもの」かで使い分けられているようで、「空しい」の意味は前者の「物質的、空間的なもの」であるようだった。

ああ 空しさは続く もう君に会えない

歌詞の最後に出てくる「空しさ」とは、気の抜けたビールがまずいときも、ふらついてその場によろけたときも近くにいてくれて笑ってくれたあなたがいなくなってしまったことへの喪失感なのではないだろうか。

比喩などではない、ただひとつの揺るがぬ事実である喪失感。

隣にも、もちろん会いに行けるような距離にもいないあなたが最後に残した愛おしささえ覚えてしまうような喪失感を、あなたと過ごした何にも代えられない記憶で少しずつ埋めていく。
時に零れ落ちてしまっても、掛け違えたボタンや間違ったピースをはめ込んだパズルのようにちぐはぐになっても、私達に残された方法はこれしかないのだ。


あなたとの愛おしい記憶を反芻して、あなたを記憶の中でだけでも生かし続けておきたいと思うのはわがままだろうか。




思い出す、ではなく


他人に関する記憶は声から忘れていくらしい、と聞いたのはいつだったか。
逆に最後まで覚えているのは香りの記憶だそうだ。

その人の声も顔も仕草も、自分にくれた大事だったはずの言葉すらも忘れた頃に、その人が纏っていた、好きだと言っていた香りで記憶が呼び起こされることも少なくはないのかもしれない。


そしてこうも聞いたことがある。
人の生命活動が終わった後も最後まで機能しているのは聴力なのだと。

人は声から忘れていくから、今際の際まで愛しい人の声をどうにかして聴いていようとしたかったのだろうか。


ああでも確かに、いつでもどこでもあなたの声を聴ける時代でよかった。

これでいつでもあなたを思い出すことができる。


本当は、思い出したくなどないけれど。

思い出すためには、一度あなたのことを忘れなければならないから。

願わくば、一時でも忘れることなく覚えていたい。
あなたの声も、顔も、仕草ひとつひとつも、私にくれた大事な言葉たちも、取りこぼすことなくすべて覚えていたい。

だけどどうやら、人間の記憶も声も儚いものらしいから、すぐに忘れてしまうことをどうか許してはくれないだろうか。


次に思い出したときは、絶対に忘れないから。
思い出なんかにはしてやらない。全部、私の記憶に残すと決めたのだ。




もう君に


あなたに会えなくなってからも、何てことのない日常は流れるままに続いていく。変わったことと言えば、あなたが近くにいないこと、それの代わりとでも言いたげな喪失感が幅を利かせてつきまとっていることくらいだ。

それ以外は、何も変わらない、至って普通の世界が広がるばかり。

あなたひとりと会えなくなったところで、そう簡単に世界は変わらなかった。

しかし、確実に私の境遇は変わってしまった。
この喪失感と続いていくしか道は残されていなかった。


今日も空しさと同時に、あなたに会えないことを実感して生きていく。

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