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軽すぎて捨てられない

 秋葉原にあるラジオ会館という建物、その7階に「ふるほんいちば」という店舗が入っている事を知り、先日数年ぶりに秋葉原に行ってきた。
 本当に生活を懸けて耽溺している人達からすれば鼻で嘲笑されるレベルだったと思うが、若い頃の自分は、それなりに所謂アキバ系のポルノに親しんでいた。昔からインターネットという物が何なのか良く分からなかったので、 取り敢えずエロゲーのカタログ雑誌である「メガストア」や「電撃姫」とかの中から、「これはよかろう」と思えるポルノ写真を切り抜いてノートにスクラップする行為を徹夜で行なったりしていた。狂人になりたかったのだと思う。せつないね。
 女性の側から見れば噴飯物の意見であろうという事を承知の上で書くが、男性が各々の性欲や妄想を持ち寄って「モテ競争」というレースを開催する時、そこには異常に微細なルールが男性、女性の両方の側から制定されていく。格好はこうでないといけない、こういうメールを返さないと相手は冷める、デートの際にこれだけはしてはいけない、云々… 
 勿論、それらの煩雑さは恋愛対象であるパートナーと緻密なコミュニケーションを取る事である程度解消されるべきだ。見ず知らずの他人同士が社会的な関係を形成する時には必ず"律"が必要になる。が、自分は他人とコミュニケーションを取る能力があまり無い為、それらの話し合いを行う事に大変な困難を伴い、恋愛という行為において自分が何をすればいいのかさっぱり把握できず、ただボーッとしているしかなかった。自分にとって恋愛とは、大量のマナー講師が右から左から飛来しつつ、「ハンコ押す時は目上の人の名前の方にちょっと傾けんかい!じゃないとお辞儀してる様に見えんやろがい!!」みたいな偏執的な難癖を怒鳴りながらそのまま地平線の彼方に消えていく、みたいなのが四六時中起こる戦争だった。
 あと、今ふと思い出したけど、昔から女性が言う「セックスの際、相手がコンドームを付けるのに手間取って気持ちが冷めた」というクレーム、あれが本当に理解出来ない。仮にあなたがミュージシャンで、灰野敬二とライブハウスで共演する事が決まったとして、で当日のリハーサルで、ギター弾いてる灰野敬二と一緒にまあ、こんな感じでやりましょうって軽く演奏してですね、で、本番になったら灰野敬二がギターを持ってなくて、いきなりパソコンを立ち上げてラップトップでノイズを出し始めたとしたら、その時、あなた、どうします?「灰野さん、それエグいっすわ。ラップトップ、それエグいっす…俺そんなん急にされても一緒に演奏出来ないっすわ。帰ってVTuberのゲーム実況見ます」とか言えないでしょ?!もう怯(ひる)めない局面に達してる訳ですよ。「なんだか知らんが、受けて立つ」と割り切って音を出すしか無い。客じゃ無いんだから。それと同じ事なんですよ。コンドーム付けるのに相手が手間取ってたから腹立ったみたいな状況って。ゴム付けずにセックスしようとしてきてキレたならそりゃ分かりますが、相手がゴム付けるのに手間取ってて冷めたって、それはもう己を奮い立たせるしか無いでしょう。相手がコンドームを上手に付けれていたかもしれない幸せな過去にはもう戻れないんだから。そのまま絶叫と共にアクセルをベタ踏みするしか道はない。それを「相手がゴムを手早く付けてくれないので、怯(ひる)みました」と言われても、こっちとしては「正拳突きからやり直せ」としかアドバイスできないじゃないですか。まあ、セックス中に些細な事で相手より高みに立とうとする人は、男女問わずどうかと思います。そういう態度でセックスするくらいなら公民館でようかい体操第一を踊ってた方がまだいい。地域の方々との親睦が深まるから。

 話が脱線したが、アキバ系のポルノにはそういうややこしいルールが一切無いのが本当に楽だった。ただ性欲と男にとって都合の良い妄想があるだけ。どんな格好をしても自由。性欲の対象に一切気を使わなくていい。実在しないから。まさに自由そのものだ。
 が、時が経ち、自分が老いてきた時に否が応にも思ったのが「自分は不老不死では無かったのだ」という当たり前の事実だった。その事に気付いた時、自分は脱兎の如くアキバ系の文化から逃げ出した。いつまでも思惟的な性欲と共にダラダラしていられると思っていたが、自分だけはしっかり惨めに老いて死んでいくのだという現実をまざまざと直視するハメになった時、余りの恐怖にただ逃げる事しか出来なかった。まさにただ怯(ひる)んだだけだ。一つの概念と心中出来なかった自分は本当に中途半端な人間だと思うし、そこから逃げて現実の恋人ができたのかというと、別にできてない。アキバ系に注ぎ込んでいた金(微々たるものだが)が普通の古本の購入に当てられる様になった以外生活は何も変わらなかった。
 
 その後、金が無いので英語を勉強しながら古本屋で100円200円で投げ売られている洋書を買う様になってからも秋葉原には良く行っていた。秋葉原のブックオフは洋書コーナーの棚が10棚位あったからだ。ふらっと立ち寄ったその場所でボストンの前衛ジャズについて書かれた本(CD付き)を220円で買い、そのまま神保町まで徒歩で赴く様なお得な日々が続いた。

 幸せな日々は突然終わるものだ。ある日何の前触れも無く洋書コーナーは全て撤去され、それから自然と秋葉原に向かう足は遠のいていった。が、「ふるほんいちば」という店舗が充実していたならまた秋葉原に行く理由もできる。何しろ早稲田通りも飯田橋もブックオフが閉店し高田馬場のブックオフも改装されてしまった。自分が行きたい場所は年々少なくなっていく。もう古本を買うという行為そのものがLSDを摂取するのと似た様な状態になってて、買った瞬間を覚えて無いんですよ。家に帰って鞄の中から出てきて初めて「うわ〜、何なんだこれ」と衝撃を受けるんです。

 これ俺が読むんかいと暗澹たる気持ちになるんだが、もう仕方が無い。買う事は現実逃避であり、読む事は単なる現実だ。というより、読書という行為はヤク中の妄想とつまらない現実を暴力的に撹拌するからこそ素晴らしいのだ。
 そんな訳でラジオ会館に行って7階の「ふるほんいちば」に行ってきた。行って、心底驚いた。本が一冊も売られていない。カードと、ゲームしか無い。「かつて"ふるほんいちば"と呼ばれていた店」。その称号が相応しかった。
 
 久し振りに歩いた秋葉原はやはり自分と同じ様などうしょうもない格好をした男性で溢れており、しみじみ居心地が良かった。弱者男性の為の街だと感じた(この表現も多くの女性にとっては腹の立つものだろう。男性というだけで強者なのだから)。その中で自分はこのシビアな状況を考えざるを得なかった。このまま紙の本は無くなるのだろうか。まあ、でしょうね。

例えばアルツィバーシェフの「サーニン」という小説には、ユーリイという男性が意中であるカルサーヴィナという娘と共に、ただ好奇心を満たす為だけに洞窟の奥へと入っていく場面がある。「まるで生きながら埋められたみたいね」と言うカルサーヴィナに対してユーリイは情欲を覚えるが、"暴力をもって婦人を自由にするということは唾棄すべきこと"だと考え、生命よりも強く熱望したものを断念する代りとして、暗闇に向けて拳銃を一発撃つ事を提案する。土が落ちてこないかを心配しながらも「さあ…撃ってごらんなさい」と促すカルサーヴィナに応える様に彼は拳銃を発射するのだが、鼻を刺す重苦しい煙がたちこめただけで頭上の土は動かない。ユーリイはカルサーヴィナに言う。「これだけの事ですよ」「さ、帰りましょう」
 ここにあるのは暗闇の中においてさえ人間として振る舞う事の気高さ、そしてその気高さは決して社会に認識される事が無いのだという儚さ、文明の利器を用いて己を獣に変えようとした闇に細やかな反撃を企てるせせこましい復讐心、些細な事で己を危険に晒してしまう人間という存在の危うさ等が職人的なバランスで描かれた名場面である。しかし、この寂寥感は、"紙の本"という、それ以外の何でもない存在を媒体にしてしか立ち現れないものだと自分は思う。Xやyoutubeといつでも繋がる事のできるガジェットでこのシーンを読んで、この「終点での細(ささ)やかな冒険と帰還」の素晴らしさが理解できるのか?はっきり言うと、俺はスマホでこの小説を読み通せるのか?「なんじゃこの辛気臭い話は」とか思って途中で読むの辞めてX見たりとかしないのか?そうならない様に己を訓練するしかないのか?ついでに立ち寄った秋葉原のブックオフの件のカーレース漫画のコーナーにはっきり「裏社会・任侠・極道・ヤンキー・車・バイク」と記されていた事実も相まって自分は本当に釈然としないまま街路を歩き続けた。俺はヤンキーなのか?ヤンキーとして振る舞えば読書と関係無い人生を送っていて、その方が良かったのか?いや、"ろくでなしBLUES"にはドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいる敵が出てきた…読書とは何か?
 
 そんな事を考えながら、せっかく来たんだしと思って自分はかつて頻繁に通っていた大規模なアダルトグッスショップに入り、そこで初めてオナホールというやつのパッケージをまざまざと見たのだが、その中の17ボルドーという商品のデザインに心から衝撃を受けた。
    

 17ボルドーの箱の表面にはアキバ系の女性の顔がアップで描かれている。そして裏面では、カモメが飛んでいる海をバックにして、表面と同じ女性がミニスカートと胸元が開いた白い服(名称が分かりません)、ご丁寧に襟に眼鏡を掛けて事更に胸を強調している、を着てこちらを見ながら佇んでいる。この2つだけなら青春漫画の様な爽やかな雰囲気をすら醸し出しているそのイラストの横に、なんと実際の商品の断面、つまり精巧に膣を模したプロダクトを半分に切った写真が、これでも喰らえと言わんばかりに無慈悲にレイアウトされているのだ。それが、本当に凄かった。
 毎週こんな事を書いている気がするが、自分はここ10年程カフカの小説について考えている。測量士Kが城へ近付いて行くプロセス(過程)は無限に分割され、Kは永久に城の内部に入る事が出来ない。その事は何を意味しているのかをずっと考えている。
 昨年末、有名なお笑い芸人が週刊文春に、法律的に許されないレベルの性的会合を行っていると報道された(真偽は不明)時、自分は驚くと共に、もしかしたらカフカが待っていたのはこういう瞬間かもしれないと思った。週刊文春にはそのお笑い芸人が性的目的の為に後輩に企画させた飲み会の様子が詳細に描写されていた。それは確固たるセキュリティを以て秘匿されていた筈の彼のプライバシーが露わになった(と思われる)瞬間であり、それは自分に、天に近付こうとして神の怒りを買って崩壊し、そしてその内部が剥き出しになってしまったバベルの塔を思い起こさせた。巨大なものそれ自身が、自らが発するストレスに耐えられず崩落して内部が露わになる瞬間。巨大なものの内部に入る事が出来ないと知っていたカフカは、だたその瞬間を凝視する事で巨大なものの内部構造を理解しようとしたのではないのだろうか。というより、運動を否定されたカフカにとって、それ以外にその巨大なものの内部を理解する方法など無かったのではないだろうか?
 17ボルドーのパッケージは青春漫画を思わせる爽やかな(性的でもあるが)イラストが2点と、膣の断面図、つまり内部が、言ってみれば無神経に並列されている。しかし、その膣の内部すらパッケージ、即ち箱の表面に印刷されただけのものであり、"箱の内部"ではない。それを見る人間は、その3点のイメージの間でどれだけ妄想を膨らませてもいいが、しかし箱を開けない以上は決して箱の中身までは辿り着けない。例え"内部"が描かれていたとしても、それは箱に印刷された単なる"表面"でしかないのだ。その意味で17ボルドーは極めてアイロニカルな意匠を纏っているが、それは同時にエロマンガやエロゲーが持っている宿命でもある。イメージと、イメージとイメージの間のストーリーを妄想して遊ぶ事しか出来ない、とても表面的な自由が担保された表現であるという事。
 17ボルドーのパッケージは、見た人間の妄想を、そのパッケージのデザインという"イメージ"に拠って喚起させるという点で真っ当にエロマンガ的な表現だが、自分はその様な表現が、ちゃんとこの世に、質量を伴って存在している事が何となく嬉しかった。昔自分が慣れ親しみ、その挙げ句に逃げ出してしまった思惟的なポルノが、「この世に実体を持って生まれてしまった」という、自分と同じ哀しみを持って出現してくれた様な気がしたのだ。それは私が紙の本に対して感じるシンパシーと全く同様の物だ。
 自分はアキバ系のエロと初めて同じ世界に存在していると感じた。それは自分にとって、かつて憧れていた楽園の無惨な崩壊を意味するのだが、それでもそれは嬉しかった。
 
 手に取った17ボルドーは流石ジョークグッズとでも言うべき絶妙な重さだった。それはまるで自分自身の人生の重さの様な気がした。軽すぎて捨てられない、と私は思い、その儚さこそが生命への讃歌の様な気がして幸福な気分でただ笑ってしまった。

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