東京大学ブラスアカデミーの成り立ち

2024年2月12日の東京大学ブラスアカデミー第29回定期演奏会のOBOGステージに乗せていただくことになり、12月からリハーサルに参加しています。
つちだが1994年入学=1期生=創団メンバー ということもあり、「どんないきさつで楽団ができたんですか?」と聞かれることも多いです。
当時楽団の設立にかかわる公式な書類、団史といったものを誰も残さなかったことを申し訳なく思いつつ、今年ブラスアカデミー創立30周年のメモリアルイヤーということもありますので、私の同期の寺沢憲吾さんの手元に残っていた膨大な資料アーカイブを頼りに、自分の記憶で補足をしながら当時のことを書いてみたいと思います。

本記事は私個人の責任で書いていますので、本記事がもとで何かありましても私以外の個人や楽団に責はないことを先に宣言しておきます。

ちなみに私つちだは
 ・1976年、富山県高岡市生まれ/井波町(現:南砺市)育ち
 ・小学4年の2月に金管バンドに入り
  コルネット→ユーフォニアム→チューバを担当
 ・中学, 高校と吹奏楽部(ユーフォニアム)
 ・1994年東京大学理科Ⅰ類入学(17組, ドイツ語)
 ・東京大学ブラスアカデミーの創立時から参加しているいわゆる1期生
 ・ブラスアカデミーでは第1回/2回/4回定期演奏会でユーフォを吹きつつ
 ・第1回/2回定期演奏会で指揮も担当
 ・工学部計数工学科から工学系研究科計数工学専攻へと進み
 ・2000年修士課程修了
 ・大学4年の卒論期間と修士課程2年の修論期間を除き
  ブラスアカデミーに在籍
 ・大学1年の12月まで東京大学吹奏楽部にも在籍
という経歴を持っています。


1994年頃の東大吹奏楽事情

吹奏楽サークル、東京大学ブラスアカデミーができたのは 公式サイト にも記載されているとおり、1994年9月です。
1994年(平成6年4月当時)、東京大学には
 東京大学運動会応援部吹奏楽団 さん
 東京大学吹奏楽部 さん
の2つの吹奏楽団のみ存在していました。

応援部吹奏楽団さんはその名のとおり「応援部」ですので、活動の主軸は運動会に所属する各種競技部の応援、今も昔もそうだと思いますが春秋の東京六大学野球の応援がいちばんメインの活動としてあって、七大戦の応援があって。定期演奏会ではステージドリルも披露して、と幅広い活動をされていました。一方、昭和の色がまだ濃く残る平成初期、いわゆる「体育会系のノリ」が強かったとも聞いております。

吹奏楽部さんはインカレサークル。東大生(女性もいるが男性が圧倒的に多い)と都内の錚々たる女子大学生の混成で、基本的に初心者は受け入れず経験者であってもセレクション(オーディション)を受検して合格すれば(※)入部できる、活動のメインは年末の定期演奏会と五月祭/駒場祭のステージ、そもそも人数が多く乗り降りがある。という楽団でした。
(※)全員セレクションの対象だったかは記憶があやふやなのですが、少なくとも私は受けました。長く在籍はしなかったのでセレクションの基準もよくわかっていません。

ブラスアカデミー設立にまつわる、最初の公式記録とその背景

1994年(平成6年)7月27日と記された「本日の会合内容」なる資料が現存しています(*1)。
文責 笠松 (のちにブラスアカデミー初代代表に就任する笠松徳明さん)
とある手書きの資料には、
 ①応援部に残るメリット
 ②応援部に残るデメリット
 ③新吹奏楽団を作るメリット
 ④新吹奏楽団を作るデメリット
 ⑤では自分たちはどうするのか
の項目と、各項目数行のコメントまたはアイディアが記されていました。

私自身は本会合に参加していないのでここから先は古い伝聞情報と想像になるのですが、当時応援部吹奏楽団のメンバーだった笠松さん(4年). 廿日岩さん(2年), 大倉さん(1年), 他応援部吹奏楽団に所属していた1年生を中心とする、「応援部吹奏楽団の活動に不満を持つメンバー」がこの時期前後、秘密裏に「応援団吹奏楽部を割る形での」新楽団設立構想を進めていたと聞いています。

詳細は後述するが笠松さんや廿日岩さん、応援部に所属しておりのちにブラスアカデミー設立に参加するメンバーのうち数人は福井県出身で、当時吉祥寺あった福井県人寮「明倫学舎」を住居にされておりました。明倫学舎内で新楽団の構想検討が進められたことは容易に想像がつきます。

記念すべき1994年9月3日

現存している2番目に古い資料(*2)は
 1994年9月3日に新楽団設立の第1回全体会議を実施します、という笠松さんのお手紙 (拝啓 で始まり 敬具 で終わっている)
 第1回全体会議の説明次第(進行表)と9月の練習計画 (お手紙とセット)
 新吹奏楽団企画書(案)
 新吹奏楽団企画書
の4部構成のA3用紙3枚分の資料です。
企画書案までは設立に加わるメンバーに事前に配布され、企画書は9月3日の第1回全体会議後かなりあとに、会議での議論やその後の検討を踏まえ改版/配布されたもののようです。

前回の公式記録時点(1994年7月27日)から第1回全体会議前日の1994年9月2日の38日間で、新吹奏楽団設立と応援部吹奏楽団に所属していたメンバーの応援部吹奏楽団からの離脱が一気に決まったということになります。
この間に私にも参加の声がかかり(声をかけてくれたのは吹奏楽部所属で福井県人、先述の明倫学舎に住んでいた柏山さん)、「吹奏楽部と兼部」という状態でブラスアカデミーの設立に加わることになります。

「笠松さんからのお手紙」に書かれている内容

・「7月下旬以来少し空いたが夏休みをいかが過ごされましたか」という時候の挨拶
・下記の要領で新楽団設立の第1回全体会議を開催します、という告知

第1回全体会議 平成6年9月3日(土) PM2:00~
        場所:駒場寮北寮二階会議室
         (一応5分ほど前に北寮前に集合してください)
        持ち物:企画書、筆記用具(楽器は不要です)
       ※必ず自分の意見をもって参加してほしいと思います。
 ▼なお、会議が終了次第、懇親会を行う予定です。

笠松さんお手紙より。全角半角の細かい文字サイズを除き原文ママ

・同日会議の前、AM11:00頃より2時間ほど部室(北寮0B)の清掃を行いたい、試験が余裕の人は参加してほしい、という告知。
・当日の会議に参加できない人は前日までに意見をまとめて笠松さんまで提出してほしい、という要請。加えて「皆さんの意見が今後の楽団にとって非常に貴重である」「応援部吹奏楽団所属者は幹部/3年にばれないように」というコメント
・当日の議題順序と9月の練習予定を右に記す
・第1回の練習は9月8日(木)で、その日だけ夜。
 栄えある第1回目の練習なので万難を排して参加を、という要請
・9月3日に基礎練習用の「TIPPS for BAND」を渡します、という告知

この時点で部室として北寮0B(ゼロビー)を確保し、後述する練習計画により合奏場所として駒場寮食堂を確保できていたことがわかります。
当時駒場寮は廃寮方向性が決まっていたものの正式決定はしておらず、駒場寮を拠点として活動するサークルも存在していました。事前に駒場寮委員会と上手に交渉いただいたものと推測します。駒場寮関連は、まとめて後述しようと思います。

第1回全体会議は1994年9月3日、土曜の午後に設定されました。資料からも駒場は試験期間中だったことを伺い知ることができます。応援部吹奏楽団への情報漏れに注意するよう記されていますが、応援部吹奏楽団が活動していない、試験期間中なので人もいないなど諸々配慮してこの時期、この曜日に決まったと推察します。

ちなみに会議がおこなわれた北寮二階会議室は、wikipediaにも掲載されるほど有名な「通称:ピンク部屋」です。土田は駒場生となって約半年、初めて駒場寮に足を踏み入れたのですが、中の古さやらピンク部屋やらほんとうに衝撃的でした。

「お手紙」の右半分

●第1回全体会議議事次第 として
1. 設立背景説明
2. 企画内容説明
 設立目的、活動方針/活動内容、団員資格/団員構成、練習場、練習日、
 サークルスペース、運営組織/役職、中期展望
3. 当面の問題点の説明
 譜面台を含めた公費用を使った機材整備、人材確保の広報/宣伝
 吹奏楽部/応援部吹奏楽団との兼団者の地位
4. 団費について
5. 質疑応答
6. 楽譜配布
7. 9/8(木)の練習について
8. その他
9. 終了後懇親会

★9月の練習日程 として
 9/8(木) 6:00-8:30(pm) @寮食堂南ホール
 9/13(火), 16(金), 20(火), 22(木), 27(火), 29(木)
  いずれも2:00-4:30(pm) @寮食堂南ホール 

「新吹奏楽団企画書(案)」と「企画書」

第1回前回会議の前に配布された「企画書(案)」と、諸々検討/決定後に配布された「企画書」。残念ながらこの書類を公式書類として次代に引き継がなかったので明文化された状態で後世に受け継がれることはなかったのですが、当然今でも変わらない楽団名をはじめ活動のよりどころになっているであろう理念や方針が明確に記されています。
企画書(案)と企画書の記載内容を比較しながら書かれていない裏事情や当時交わされた議論など補足してみます(長いです)。

1.設立の背景と目的

 現在、東京大学に吹奏楽活動をしている団体は、吹奏楽部と応援部吹奏楽団であるが、前者は組織が肥大化し初心者を受け入れる態勢ができていない、演奏会には全体が乗れる訳ではないこと、後者は純粋に音楽をするには障害が多いことが問題であると認識し、それらの問題を解決すべく、ここに新吹奏楽団構想が浮上した。
 この新吹奏楽団の目標は、東京大学の吹奏楽活動の核になるべく組織的にも堅固であり、練習や行事にしっかり取り組めるような団体に成長し、吹奏楽部や応援部吹奏楽団と切磋琢磨しあいながら、音楽レベルの向上に努めることである。そして近年中に大学吹奏楽連盟に加盟し、将来的には東京大学を代表する吹奏楽団を目指したいと考える。

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

 従来より東京大学に吹奏楽活動をしていた団体は、吹奏楽部と応援部吹奏楽団であったが、前者は組織が肥大化しインカレ化した、演奏会には全体が乗れる訳ではないこと、後者は純粋に音楽をするには障害が多いことが問題であると認識し、それらの問題を解決すべく、ここに新吹奏楽団が誕生した。
 この新吹奏楽団の目標は、東京大学の吹奏楽活動の核になるべく組織的にも堅固であり、練習や行事にしっかり取り組めるような団体に成長し、吹奏楽部や応援部吹奏楽団と切磋琢磨しあいながら、音楽レベルの向上に努めることである。そして近年中に吹奏楽連盟に加盟し、将来的には東京大学を代表する吹奏楽団を目指したいと考える。

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

当時東京大学に存在していた2つの吹奏楽団を名指しして「問題である」と言い切り、「問題を解決すべく」新吹奏楽団を誕生させた、というかなりセンセーショナルな内容です。しかしある側面から見れば「適切な受け皿がないために東京大学で吹奏楽を継続できない」または「楽器を始めてみたいのに始められない」学生が多数(少なくとも数十人レベルで)存在したのは次年度/次々年度のブラスアカデミーへの入団者数をみると事実であり(入団者数は後述)、「非インカレ」「(企画書からは消えたが)初心者でも積極的に受け入れる」「乗り降りなし」「純粋に音楽を楽しむ楽団」という、現在にも受け継がれる他団体との強い差別化がこの時点で完成していたことになります(「乗り降りなし」はコロナ禍を乗り切るためにやむなく廃止したと聞きました)。

そして他団体と切磋琢磨しながら組織を強化し音楽の質を高め、吹奏楽連盟に加盟し「東京大学を代表する吹奏楽団を目指す」という明確なビジョンが描かれています。(当面は軋轢があるだろうが)他団体を潰すつもりはなく、明確に差別化することでそれぞれの楽団の良さを際立たせ次年度以降の新入生にもわかりやすい状態をつくりあげたい、という意図も読み取れます。

企画書(案)では「大学吹奏楽連盟」となっていましたが、企画書では「吹奏楽連盟」となっていました。設立当初から吹奏楽連盟への加盟を念頭に置いていますが、それが「東京都大学吹奏楽連盟」なのか「東京都一般吹奏楽連盟」なのかは議論が分かれていたことがわかります。吹連加盟のいきさつも後述したいと思います。ちなみにこの時点で応援部吹奏楽団は「東京都大学吹奏楽連盟」に加盟していません。

2.団体名

仮称 東京大学ブラスアカデミー

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

東京大学ブラスアカデミー

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

設立会議では対案がなかったため、仮称をそのまま団の正式名称とすることでいいよね、という確認がなされたと記憶しています。

1977年設立の、福井ブラスアカデミーという名称の楽団が福井県福井市にあります。先述したとおり楽団の設立に強く関わったのは笠松さんを中心とする福井県出身者であり、名称を拝借したのは明白です。「名称にこめた想い」の記録が残っていないのが残念ではありますが、おそらく笠松さんが福井ブラスアカデミーさんにポジティブな印象を抱いていたであろうこと、東大をはじめ首都圏にブラスアカデミーという楽団が存在しなかったことが決め手となったのでしょう。その後もブラスアカデミーという楽団名を少なくとも日本国内では聞いたことはありませんので、ネーミングにオリジナリティを持たせるという意味では大成功だったといえるのではないでしょうか。

3.活動方針

(Ⅰ) より良い音楽を目指し、聴衆とともに感動できる音楽空間を創る。
(Ⅱ) メンバーは互いに切磋琢磨しあい思いありある人間関係を造る。
(Ⅲ) 初心者、経験者にかかわらず皆で楽しめる吹奏楽団にする。
(Ⅳ) Parade, Marching-showなど幅広い吹奏楽活動も視野に入れる。
(Ⅴ) 団員は基本的に東京大学生とする。
(Ⅵ) 大学吹奏楽連盟に加盟することによって、東大の代表吹奏楽団たる基盤を造り大学吹奏楽連盟を通じた文化レベルの向上を目指す。

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

(Ⅰ) より良い音楽を目指し、聴衆とともに感動できる音楽空間を創る。
(Ⅱ) メンバーは互いに切磋琢磨しあい思いありある人間関係を造る。
(Ⅲ) 初心者、経験者にかかわらず皆で楽しめる吹奏楽団にする。
(Ⅳ) Parade, Marchingなどは通常活動として当分見送る。
(Ⅴ) 団員は基本的に東京大学生とする。(但し、必ずしもそれに拘束されない)
(Ⅵ) 近い将来、吹奏楽連盟に加盟することによって、東大の代表吹奏楽団たる基盤を造り吹奏楽連盟を通じた文化レベルの向上を目指す。

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

第1回全体会議前後で方針の転換がはかられたのはマーチングに関してのみであり、これは笠松さんをはじめとする設立検討メンバーがマーチングにポジティブであったものの、集まったメンバーはそうでもなかった、という経緯だったと思います。
「東大生のみ」の条件を緩くしているのは、この時点で「東大生だけで将来にわたって安定した活動ができるのか?」という懸念から来ているものと記憶していますが、次年度以降かなりの数の新入団員が継続して入団してくれることになり、この心配は杞憂におわります。

4.団員資格

東大生であれば初心者、経験者の如何は一切問わない。

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

初心者、経験者の如何は一切問わないが楽器は個人で用意できるのが望ましい。

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

「東大生であれば」が削除された背景は先述のとおりです。楽器について触れたのは「団の楽器を早期に整備するのは厳しい」という事情によるものでしょう。

5.練習場、練習日

練習はすべて駒場で行い、寮食堂、生協食堂、学生会館を中心に行う。
練習日は月曜、木曜の週2回の予定。(但し、夏休み、秋休み中は多少変則的)

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

練習はすべて駒場で行い、寮食堂、生協食堂、学生会館を中心に行う。
練習は月曜、木曜の週2回で隔週で土曜日も実験的に行う。(但し土曜のある週は月、木のいずれかがパート練習となる。)夏休み、秋休み、春休み中の練習中は多少変則的。

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

「すべて駒場で」というのは自然な流れで、1,2年生が活動の主体になること、本郷の場所を確保するためのコネクションがなかったという事情によります。ちなみに当時吹奏楽部さんは年の半分を駒場で、年の半分を本郷で活動していました。東京大学管弦楽団さんは100%本郷でしたね。(今もあるのかどうかわかりませんが)本郷第二食堂上のホールは合奏場所としては使い勝手が良かったです。部室がすぐそこにあるので楽器の出し入れが楽。

6.部室(サークルスペース)

12月までは駒場寮北寮0Bを確保。しかしレンタルなので駒場祭期間中は一時的に立ち退きの可能性が高い。(その後、来年3月までは使用可能性あり)
来年度は明寮にサークルスペースを恒常的に確保するよう努力する。

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

長期的に駒場寮北寮0Bを借用できるように努力する。
駒場寮に団員に寮生として居住してもらういそこをサークルスペースとして恒常的に使用できるようにすることにな現時点では消極的である。

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

駒場寮関連、部室(サークルスペース)関連は後述します。廃寮寸前とはいえ駒場寮に部室を確保できたからこそ、ブラスアカデミーの活動が始まり、黎明期の活動を維持できたのは間違いありません。
そう考えると寮委員会との交渉にあたっていただいた笠松さんには頭が上がりません。
ちなみに記憶も記録もあいまいですが、この駒場寮北寮0Bおをはじめとする複数の部屋に泥棒が入り、ブラスアカデミーもいくつかの楽器が盗難にあっています。その際盗まれて即楽器店に売却されたトロンボーン柏山氏のわりと新品の楽器は、柏山さんの私費で取り戻したんでしたっけ(団費で取り戻した記録がない)、柏山さんのカナダ留学の際に土田が「無期限借用」という形でお預かりし、20年間誰も使わないままうちの娘が高校で1年間だけ使い、その後また誰も使うことなく現在にいたります。
おそらくこの盗難事件がターニングポイントになって、翌年4月(だったかな)北寮5Sに引っ越すのですが、「部屋番」の名目で交代で泊まり込む形になったと記憶しています。
昔はみんな「部室」と呼んでいましたが、最近は「団室」って呼ぶんですね。部ではなくブラスアカデミーという吹奏楽団なので、誰かが「そう呼ぼう」って言ったんでしょうね。

7.運営組織

音楽監督(常任指揮者)を招聘するか否かは話し合いに拠る
・Drum Major, 大吹連理事は今のところは空ポストとしておく
・代表は今年の12月までは暫定的に笠松とする

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

・音楽監督(常任指揮者)は近い将来招聘したいという希望が強いようです。
・顧問の先生は教授にお願いしてみるしかありません。(未定)
・吹奏楽連盟に加盟したときは、理事は野村になります。

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

「外部指揮者を呼ばず、指揮者も団員で」というのは当初方針にはなかったということになります。大学の楽団が外部の指導者を呼ぶのはこの時代すでにメジャーな流れでしたし、吹連に入る→コンクールに出る→上位を目指す→プロの指導が必要、というのはごく自然な発想です。いつどの時点で「外部からの招聘はやめよう」という議論をしたのか、すみません、まったく記憶にありません。これも後述しますが「どの時点で吹連に加盟するのか」の議論で数年要したこともあり、外部指揮者の件は私が在籍していた時代、完全に棚上げになってしまったと推測します。
初代代表は笠松さん(1994年12月まで)、初代指揮は廿日岩さん(1995年12月まで)、初代会計は荒木さん(1995年12月まで)あたりを決めて、残りの役職は代表の交代含めて1995年1月に正式決定したと記憶しています。
金管木管のセクションリーダーは早々に廃止されたのかな。

8.団費

何しろゼロからのStartなためにそれなりの負担と考えていただきたく3000円/月程度と考えています。

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

3000円/月(正式団員のみ)

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

9.活動内容

今年の駒場祭(11/18、19、20)にデビューと考えているが、人数面の問題、Percussionの整備状況、駒祭の日程上の問題から、難しいかもしれません。
来年度(95年度)
 ・春合宿(2泊3日程度)
 ・新歓演奏会(4月中旬)
 ・5月祭(5月下旬)
 ・夏合宿(3泊4日程度)
 ・駒場祭(11月下旬)
 ・第1回定期演奏会 会場取り(12月上旬)
 ・大学吹奏楽連盟加盟(未定)
再来年度(96年度)
 ・春合宿、新歓演奏会、5月祭、夏合宿、駒場祭に加え
 ・吹奏楽コンクール(9月初め 但し大吹連加盟の場合のみ)
 ・第1回定期演奏会(12月初め)

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ

来年度(95年度)
・東京都吹奏楽連盟加盟は先送り・・・・・要検討
・新歓活動(3月上旬~4月中旬)
・4/18(火)6:00~進歓演奏会(生協食堂)
・新歓合宿(連休明けの土日の予定)・・・要検討
・5月祭演奏会(5月下旬)
・夏合宿(全く白紙)・・・・・・要検討
・駒場祭ミニコンサート(11月下旬)
・12/7(木)6:30~第1回定期演奏会予定(こまばエミナース)
再来年度(96年度)
 上記の活動に加え
 ・コンクール出場をするか否かは検討の余地がある

新吹奏楽団企画書より、原文ママ

企画書(案)と企画書で内容にかなり差があります(企画書では具体化されています)。先に「この企画書はかなりあとになって発行されたはず」と書きましたが、94年の駒場祭の表記がないこと、第1回定期演奏会が95年12月7日予定と書かれていること、95年の新歓演奏会が4月18日と書かれていることなどがそう推測した根拠になっています。第1回定期演奏会は94年の12月(つまり開催1年前)に「こまばエミナースが確保できそうなのでリスクはあるが95年にぜひやろう」という議論/確認がなされた記録が残っていまして、駒場祭が終わった11月下旬~第1回定期演奏会の会場確保をした12月中旬に発行されたものだろう、となるわけです。

10.第1回全体会議

平成6年9月3日(土) PM2:00~
場所:駒場寮北寮二階会議室
(5分前に北寮前に集合してください)

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ
この項目は企画書(案)のみ存在

11.第1回練習日

平成6年9月8日(木) 6:00~8:30
場所:寮食堂南ホール

新吹奏楽団企画書(案)より、原文ママ
この項目は企画書(案)のみ存在

10.当面の問題点

①定期演奏会開催を部員皆が望みながらも来年は時期尚早、平日は難、といった慎重論がある。金銭的に問題はありながらもこまエミを一応予約したうえで、平行して6か月前から予約できる会場を探し、土or日曜開催の可能性を探る。
②吹奏楽連盟にはいつ加盟するのか。加盟するとしたら、大学(大吹連)か、一般か。(加盟目的はコンクールである)活動方針、団財政、部員数などとの関連でまだまだ議論の余地があるでしょう。

新吹奏楽団企画書より、原文ママ
この項目は企画書のみ存在

後述しますが翌年4月に50人を超える新入団員が入団してくれたことにより財政面の心配はなくなり、またキャパ的に「6か月前から予約をスタートする区民会館的なホールでは無理」ということになり、第1回定期演奏会は予定どおり1995年12月7日(木)にこまばエミナースのホールで開催されることになります。
95年に定期演奏会を開催するのとしないのとでは活動の質に大きな差が生まれたでしょうし、直近の演奏会がないということだと新入団員も多くは入らなかったでしょうし、新しい楽団としてスタートダッシュを決めるうえで英断だったと評価します。
こまばエミナースは残念ながら2010年に閉館してしまい跡地はマンションになってしまっているということで寂しい限りですが、演奏会の録画をデジタルアーカイブとして残してありますのでご覧になりたい方は土田までお問合せください。(限定公開にしている都合で、リンクをここには貼れません)

最初の団員名簿

1994年9月3日の第1回全体会議を経て、9月8日の初回合奏までの間に入団希望者は入団届を提出するというプロセスがあり、最初の団員名簿(*3)は1994年9月7日付けで作成されています。
名簿に名前があるのは22名。
応援部吹奏楽団からの転籍者もしくは兼部者がおおよそ16名(記憶もあいまいでやや不正確)、吹奏楽部との兼部者が2名。残りはお友達的伝手で入部してくれたメンバー、ということになります。そして学年構成は4年生が1名、2年生が3名、残り18名が1年生。
福井県出身者が6名、富山県出身者が3名(北陸出身で全体の4割超)という、東京大学入学者の出身都道府県構成とはおおよそかけ離れたメンバー構成でスタートいたしました。

最初の合奏練習

駒場は試験期間だったはず、1994年9月8日(木) 18:00- 最初の合奏練習が寮食堂南ホール(寮食堂としては機能しておらず、廃墟に近い建物)でおこなわれました。
廿日岩さんの指揮、指導でTipps for Bandを使って基礎合奏をやったあとの最初の練習曲は「マーチ・エイプリル・メイ」(1993年度全日本吹奏楽コンクール課題曲)。
寮食堂南ホールがコンクリート造りでガンガン響く場所だったとはいうものの、最初に音を出した時の、曲の冒頭のサウンドは30年経った今でも鮮明に記憶に残っています。「なんていい音のするバンドなんだろう」
「マーチ・エイプリル・メイ」は11月の駒場祭コンサートの記念すべき1曲目で演奏され、翌年4月の新歓演奏会でも1曲目として演奏されることになります。

「東京大学ブラスアカデミー」の成り立ちのお話はここまでにします。
デビューコンサートの94年駒場祭、95年の新勧活動~新歓演奏会、50名を超える新入団員を迎えての体制づくり、第1回定期演奏会、吹連加盟の議論、部室問題などブラスアカデミー黎明期のトピックを、別途書くことにします。

ちなみに土田は94年の秋休み期間まるまる実家に帰って自動車学校に通っていたり、吹奏楽部との兼部状態でいちおうあっちがメインで12月に定期演奏会もあったという事情から、年が明けて95年になる頃まではブラスアカデミーでの活動はわりと薄めでした。応援部さん出身者どうしお互いもともと見知っていたり、福井県出身者はお互いもともと見知っていたりという環境でしたので、今でも人見知りでかつ人の顔と名前を覚えるのが苦手な土田が馴染むのにどれほど苦労したことか(笑)

出典

(*1)(*2)(*3)寺沢憲吾氏(1期/Cla/'94-'95広報)所蔵のデジタルアーカイブより

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