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俳の森-俳論風エッセイ第30週

二百四、自然からのメッセージ

写真家の星野道夫のエッセイを読んでいて、こんなことばに出会いました。少し長くなりますが、引用します。(オーロラの彼方へ、星野道夫著、PHP文庫)

ある夜、友人とこんな話をした。私たちはアラスカの氷河の上で野営をしていて、空は降るような星空だった。(略)「これだけの星が毎晩東京で見られたらすごいだろうなあ・・・・夜遅く、仕事に疲れた会社帰り、ふと見上げると、手が届きそうなところに宇宙がある。一日の終わりに、どんな奴だって、何かを考えるだろうな」
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人は、こう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」
人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。(太字筆者)

また、金子みすずの「星とたんぽぽ」という詩には、次のようなフレーズがあります。みなさんも一度は聞かれたことがあるのではないかと思います。(金子みすず名詩集、彩図社)
昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。

このことばをご紹介したのは、わたしたちは、わたしたちの五感が感じとった自然からのメッセージを、日々俳句にしているのではないかとふと考えたからです。
俳句の題材はさまざまですが、その契機となるのは、季節との出会いのように思います。季節との出会いは、自然からのメッセージを受け取る回路が開かれた瞬間ともいえましょう。

現役のころ、仕事に没頭していると俳句モードにならなくて、投句を断念したことがたびたびありました。常にリラックスして、自然からのメッセージを受け取る準備ができていれば、わたしたちは、自然が語る物語をいつでも聞くことができるのではないでしょうか。
東京のビルの空の上にも、間違いなく、無数の星が隠れているのです。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。


二百五、季語とはなにか

あることばが、季語として特定されることの意味を改めて考えてみたいと思います。
【季語の情趣について】
たとえば、赤蜻蛉という季語について・・・。
赤蜻蛉ということばだけでも、わたしたちは過去に見た赤蜻蛉のイメージを思い起こすことができるでしょう。角川俳句大歳時記によれば、赤蜻蛉は三秋の季語に分類されています。赤蜻蛉といえば、誰でも秋を思うのに、それを殊更秋の季語だと限定する意味はいったいどこにあるのでしょうか。
しかし、ことばとしてなら、標本の赤蜻蛉でも赤蜻蛉ということができます。赤蜻蛉を季語として特定するということは、それが自然物として、いのちを輝かす状態を想定することになるのではないでしょうか。当たり前のことをいうようですが、赤蜻蛉という季語は、死んだ赤蜻蛉ではないのです。

季節のなかで生きる赤蜻蛉は、その季節のほかにも様々な情報を身に纏うことになるでしょう。例えば、それが見られる場所や、時間帯などです。
こうして季語となった赤蜻蛉は、生きている赤蜻蛉として、わたしたちが五感で感じ取ることのできる一切の情報を身に纏うことになるのです。
これをわたしは、季語の情趣と呼んでいます。赤蜻蛉という季語には、わたしたちが、赤蜻蛉に出会った喜びや感動も当然含まれるのではないでしょうか。一年中見られる雀なのに、ある時は初雀といい、ある時は恋雀といい、ある時はふくら雀などといいます。これらの情趣はまさに感動そのものだと思うのです。

【句意を定かにする季語の働き】
季語がわたしたちの五感にさまざまな情報を提供し、その情趣が感動そのものなら、一句のなかに季語を置くということは、とても重いことのように思われます。
作者の側からいえば、その季語のもつ情趣を引き受けて一句をなすことであり、読者の側からいえば、その季語の情趣に一句は統べられていると見るべきでしょう。つまり、季語は、作者の感動を明らかにし、一句の句意を定かにするように働くのです。

赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり       正岡 子規
近くに赤蜻蛉が群れ、遠くに筑波の二峰がくっきりと浮かんでいます。雲一つない穏やかな秋の夕暮れ。時折、夕日に赤とんぼの翅がきらりと光ります。「雲もなかりけり」という措辞から、作者の満ち足りた様子がありありと浮かんできます。赤蜻蛉の情趣は何といってもこの安堵感にあるのではないでしょうか。


二百六、写生の映像性

正岡子規が写生句として絶賛した河東碧梧桐の句について、青木亮人氏が、その著「その眼、俳人につき」(邑書林)で面白い見解を披露されていますので、ご紹介しましょう。

赤い椿白い椿と落ちにけり        河東碧梧桐
(明治二十九〔1986〕年)
 子規はこの句を「眼前に実物実景を観るが如く感ぜられる」と評し、新時代を体現する「印象明瞭」と絶賛した。(「明治二十九年の俳句界」、新聞「日本」明治三十年一月四日)。このように子規が激賞したのは、碧梧桐句が江戸後期以来の月並句と全く異なるためだった。
① 散りそめてから盛りなり赤椿     圃 木
      (「俳諧友雅新報」三十六号、明治十四年)
② 落ちてから花の数知る椿かな     梅 人
       (「俳諧黄鳥集」十三集、明治二十五年)
(中略)碧梧桐句は、なんらひねることなく、椿が落花したことのみを詠んだのである。そのため、「赤い椿」句を素人の「ただごと」と非難する宗匠も現れたが、子規は「ただごと」ゆえに賞賛したのであり、それは、碧梧桐句が句を読む速度と内容を想起する速度が合致する作品だったことが大きい。(太字筆者)

たった十七音の俳句が、明瞭な映像を結ぶということは、伝達する際の大きな力になるものと思われます。わたしたちの普段の生活のなかでも、とりわけ視覚は優位に働いており、場面のよく見える句には、心が動かされるのではないでしょうか。
青木氏が指摘されるように、碧梧桐の句は、読むそばから映像が立ち上がってくるようです。

ここで、映像性に優れた句をあげてみましょう。
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ      杉田 久女
まま事の飯もおさいも土筆かな      星野 立子
滝の上に水現われて落ちにけり      後藤 夜半
乳母車夏の怒涛によこむきに       橋本多佳子
更衣駅白波となりにけり         綾部 仁喜
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る        山口 誓子
若鮎の二手になりて上りけり       正岡 子規

季語の殆どは季節の景物であり、映像を伴うものといえましょう。しかし、なかには、春愁、秋思、冷やか、暖かなどのように直接的には映像を伴わないものもあります。このような季語で作句する場合は、季語以外の句文に映像性を持たせることで、読者の共感を得られやすくなるでしょう。読者に理解してもらうための技巧の一つが、この映像性ではないかと思うのです。

二百七、ときめきの対象について

今回は、わたしたちが作句する対象、ときめきを覚える対象について考えてみたいと思います。

実をいうと、このときめきの対象というのは、ときめいてみないと、自分でもよくわからないのではないでしょうか。ただ、長年俳句をしていると、自分なりの傾向のようなものが見えてきます。
高浜虚子が花鳥諷詠を唱えたのは、彼にとってのときめきの対象が多く「自然界の現象とそれに伴う人事界の現象」にあったからではないかと思われます。
これに対し、いわゆる人間探求派と呼ばれる人たちは、暮しや人生といった人間の内実に迫るものを詠むようになりました。それはときめきというより、それを詠みたいという衝動だったともいえましょう。

結局のところ、わたしたちは、自分が詠みたいものを詠んでいるのだといえましょう。詠みたいものは、わたしたちにときめきを与え、わたしたちを作句へと突き動かすものだからです。
わたしたちは、出来上がった俳句を見て、後から自分が詠みたかったものに気付くのかもしれません。
苗代に落ち一塊の畦の土         高野 素十
苗代のへりをつたふて目高哉       正岡 子規

さて、もしこれを俳句には全く興味がない人にみせたら、「それで、どうしたの」といわれるのが落ちでしょう。苗代に土塊が落ちたって、そのへりを目高が泳いでいたって、彼には全く関係のないことだからです。

おそらく、素十も子規も、自分のこころの命ずるままに、これを句にして残したのでしょう。何かのときめきがあったのです。そして、今この句を読むわたしたちは、この句から何を受け取るのでしょうか。
わたしたちは、これらの句を読んで、苗代の緑を、黒々とした土塊を、そして目高の姿を生き生きと眼前に描くことができます。それは、「いかにもさもありなん」という形で、これらの句がわたしたちの記憶、五感へと訴えてくるからです。

ここでは、ことばが現物となって立ち現れる魔法が成就されています。目高は目高を示す記号ではなく、目高そのものなのです。同様に、苗代も土塊も、まさに苗代そのもの、土塊そのもののようにそこにあるのです。
作者にとっては、苗代に出会い、目高に出合ったこと自体が、こころをときめかせる喜びだったのではないでしょうか。そして同じこころの傾向をもつ読者は、その喜びに共感できるというわけなのです。
滝の上に水現れて落ちにけり       後藤 夜半


二百八、断定ということ

けやき句会に、次ぎの句が投句されました。選句をしているときに、似たような句が星野立子にもあるのを思い出しました。今回は、表現の違い、とりわけ断定ということについて考えてみたいと思います。

まず、二つの例句をご紹介しましょう。
一筋のみどり早走る夏料理        姫野 富翁
美しき緑走れり夏料理          星野 立子

両者の着眼点はほぼ同じで、素晴らしい着眼といっていいでしょう。異なるのは、表現の違いだけです。この違いは、どこから生れるのでしょうか。個人差といってしまえばそれまでですが、ここには、自分をときめかせたものに対する、突き詰め方の違いがあるように思うのです。

ところで、夏料理で緑が走るという措辞から想像できるのは、笹の葉のような細長いものでしょう。涼しげな大皿に盛られた料理のように思われます。
それを見た印象を前者は、「一筋のみどり早走る」と表現し、後者は「美しき緑走れり」と表現したわけです。両句とも優れた句ですが、夏料理が眼前に迫ってくるのがどちらかといえば、後者のように思われます。

写生句では、主観的な表現を極力避けるようにいわれます。二人の目に飛び込んできたのは、共に「鮮やかな緑」だったのではないでしょうか。それを、一方は「一筋のみどり」といい、もう一方は「美しき緑」と断じたのです。
立子は、その大皿を見た瞬間に「まあ、美しい」と声を上げたのではないでしょうか。そして、他ならぬ自分自身が発したことばに驚き、偽らざる印象として、一句のなかで生かしきったものと思われます。立子にとって、その緑は、「美しき緑」以外の何ものでもなかったということではないかと思います。

立子句はまた、前者と比べて濁音の少ないことが、すっきりとした印象を与えています。このように、主観語が全ていけないというわけではないのです。自分がほんとうに美しいと感じたものを、美しいと表現することに何の躊躇が要りましょう。
個人がほんとうに美しいと感じたものを、他人も美しいと感じてくれる・・・、それが人間自身がもっている共感の母胎ではないでしょうか。

端居して濁世なかなかおもしろや     阿波野青畝
この世よりおもしろきかな箱眼鏡     藤本安騎生
健啖のせつなき子規の忌なりけり     岸本 尚毅


二百九、情景提示と二物衝撃

今回は、朝妻力主宰(雲の峰)の句形論から、情景提示と二物衝撃の違いについて、句文Aと句文Bの関係から考えてみたいと思います。

【情景提示】
まず、二つの例句をあげてみましょう。
七夕や。髪ぬれしまま人に逢ふ。     橋本多佳子
討入りの日や。下町に小火騒ぎ。     鷹羽 狩行

前半部分を句文A、後半部分を句文Bとすると、両句とも句文Aと句文Bは、互いによく響き合う関係にあるように思われます。
ここで、切字の「や」を「に」に置き換えると一句一章になり、句意は一句一章に近いことが分かります。
七夕に髪ぬれしまま人に逢ふ
討入りの日に下町に小火騒ぎ

しかし、意味は通じるのですが、理屈めいてしまって、七夕の句のもつどこかゆったりとした感じや、小火の句のもつ茫洋とした感じが損なわれてしまいます。
意味は一句一章に近い情景提示の句は、あえて二句一章にすることで時間や空間の広がりを取り込んでいるといえそうです。
【二物衝撃】
蟾蜍。長子家去る由もなし。       中村草田男
算術の少年しのび泣けり。夏。      西東 三鬼

一見すると、句文Aと句文Bは無関係で、独自に主張しているように思われます。「長子家去る家も由もなし」には、蟾蜍という季語に匹敵するだけの、強い調子があります。同様に「算術の少年しのび泣けり」も豊かな詩情を湛えています。
これらの句文が季語と対峙し、一歩も譲らないように見えるのがこの句形の特徴です。しかし、作者は何故、二つの句文を同居させ、一句としたのでしょうか。

作者には、この二つの句文を並べるだけの必然性があったと考えられます。蟾蜍を実見した印象から、草田男のなかに句文Bが生まれ、忍び泣く少年の姿が、三鬼に夏を強く印象づけたのではないでしょうか。
蟾蜍のどこかユーモラスで、鈍重で多産などのイメージと、家を守る長子のイメージが読者のなかでスパークしたとき、この二つの句文の間に確かな響き合いが生まれるのではないでしょうか。
算術の少年は、問題が解けなくて、悔し泣きをしています。それと開放的な夏のイメージとは一見不釣合いな感じがします。夏が、開放的であるだけに、少年の夏は、いっそう閉鎖的で惨めな夏といえるかもしれません。しかし、夏のもつこの試練のようなイメージもまた、夏の姿の一つだと作者はいっているのです。


二百十、情景提示と一句一章

情景提示の句は、句意としては一句一章に近いため、一句一章にすることも可能です。その際、どちらにすべきか迷うことも多いのではないでしょうか。
前回は、情景提示では時間や空間の広がりが取り込めるという話をしましたが、ここではもう少し突っ込んで、情景提示と一句一章の相違点から、その選択基準を考えてみたいと思います。

夏の河。赤き鉄鎖のはし浸る。      山口 誓子
夏河に赤き鉄鎖のはし浸る。
赤き鉄鎖のはし浸りゐる夏の河。
掲句の季語は、俳句大歳時記では夏の川とあり、副題として、夏川、夏河原があります。河の字を宛てたのは、作者が大河をイメージしたからかもしれません。
一句一章に変更した後ろの二句では、夏の河の広がりが出にくいように思われます。特に、「夏河に」とすると、助詞「に」が「浸る」に直接繋がるため、いきなり「鉄鎖のはし」に焦点が合ってしまいます。
いっぽう原句は、夏の河で一端切ることで読者にイメージ形成の時間を与え、その一景として「赤き鉄鎖のはし浸る」という情景を描出しているのです。
赤き鉄鎖という表現から、読者が最初に描いた夏の河のイメージは修正され、大きな埠頭のようなイメージが広がるのではないでしょうか。この結果、大きな景の広がりを具体的に獲得することになります。

それでは、次の句はどうでしょうか。
ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜。    桂  信子
「逢ふ」は四段活用ですので、終止形と連体形が同じ形です。掲句は、「逢ふ」で一旦切れるとも考えられますが、もし本当にしっかりと切るのなら、
蛍の夜。ゆるやかに着てひとと逢ふ。
という表現もできたはずです。そしてこの両句を比較してみると、後者がどこか散漫な感じであるのに対し、原句には、逢瀬のひとときに向かって、作者の思いが次第に昂っていくような、秘められた恋情を垣間見ることができるように思われます。
原句はやはり、蛍の夜まで一気に収斂する一句一章の句ではないでしょうか。「蛍の夜」は作者の思いを代弁する絶唱といえましょう。恋の一途さの染み透るような名句だと思います。

さて、二句一章を拡大型とすれば、一句一章は反対に凝縮型といえるかもしれません。
句意としては一句一章の内容であっても、作者の表現意図によって、適切な句形を選択すればいいということになるのではないでしょうか。


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