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俳の森-俳論風エッセイ第11週

七十一、俳句の映像性

俳句がすっとわかるのは、作者の心情が直に理解できたり、あきらかに音が聞こえたり、場面がつぶさに想像できたりするからでしょう。吟行などではどの句もよく理解できるのは、今みてきたばかりの場面だからということもあります。
そのなかでも、とりわけ、場面が想像できることは、すっと分かるための大きな要素ではないかと思います。つまり、俳句の映像性が選句の際の大きな要素になっているのではないでしょうか。

俳句の5W1Hのなかで、場所の情報は無意識に割愛されてしまうことが多いように思われます。なぜなら、作者にとって、その場所の情報ほど既知のものはないからです。ですから、作句のあとで、「この情報だけで、読者は場面を想像できるだろうか。」と自問自答してみることは、決して無益なことではないでしょう。

作者の思いが強いときほど、主観的表現をしがちになりますので、特に注意が必要です。思い入れは直接対象に向かうため、対象の描写に注力しすぎると、場所の情報を読者に提供することが疎かになってしまうのです。
加えて、主観的表現に自分自身が酔っていたりすると、場所の情報の欠落が読者の理解を阻害していることに気付かないこともあるでしょう。わたし自身、思い入れの強い方なので、経験上そう断言することができます。
もちろん、場所の情報は必ず必要というわけではありませんので、先の質問をより具体的にいえば、「この句に場所の情報はあるか、この句に場所の情報は必要か」を問うことになりましょう。

炎天や影まざまざと人にあり       金子つとむ
わたしは、長い間、掲句の場所情報の欠落に気付きませんでした。炎天という季語には場所の情報は、含まれません。ただ、晴れた空の下というだけです。
しかし、読者の立場にたってみると、これだけの情報で映像を結ぶことは、困難ではないかと思い至ったのです。この句には、場所の情報が必要ではないかと・・・。そこで推敲したのが次の句です。

炎天やビルの底ひを影曳きて       〃
推敲していて気付いたのですが、この「ビルの底ひ」は、作句の際に常にわたしの脳裏にあったイメージでした。なぜなら、それが作句現場だったからです。これは、俳句の表現上の陥穽といっていいものかもしれません。
表現が異なるため、二つの句意は微妙に異なりますが、どちらを選ぶかは、作者の判断ということになりましょう。映像性ということでいえば、後者に分があります。


七十二、ことばの彩り

一つの句がわたしたちに喜びや感銘を与えるのは、一句のなかに宇宙とでも呼べるような、時空の広がりを見出したときではないでしょうか。それらはすべて作者によって十七音に束ねられたことばがもたらしたものといえるでしょう。

わたしたちを取り巻くことばそのものには、イメージを喚起する力があり、さらにことばとことばの結びつきが、思わぬイメージを紡ぎ出すこともあるでしょう。
さまざまなことばは、ことばの彩りを持っているといえます。それが、一句のなかで充分に花開くとき、俳句の宇宙ともいうべきものが現出するのではないでしょうか。

語彙を豊富にすることは、単に十七音に収めるためだけではなく、一句のなかでの最適な語の選択にも役立つでしょう。一つの句に盛り込める文節は四から五といわれていますので、ことばの選択、配列そのものが俳句といってもいいくらい、重要なものだからです。

さて、拙句に、
黄昏や金に懲りゆく月一つ        金子つとむ
というのがあります。昼の月が夕方になって、次第に金色に輝くさまを詠んだものですが、一つが取ってつけたようでずっと気になっていました。一つは、月が一つであることを強調しているだけで、この句に新たなことばの彩りを添えるものではありません。

そこで、歳時記を繙いてみると、弓張月の傍題として月の弓や月の舟があることが分かりました。そこで、
黄昏や金に懲りゆく月の舟        〃
としたのです。角川俳句大歳時記に月の舟を使った例句はありませんでしたが、古人が空を行く月に想いを込めて、そのかたちから弓とか舟とか呼んだ気持ちが分かるような気がします。
月の舟という言い方には、やはり月の動きを見ていないと言えないような趣があると思います。実際わたしも、刻々と月が輝いていくさまに見惚れていたので、月の舟を採用することにしたのです。しかし、ややメルヘン的に読まれてしまうかもしれません。
月の舟とすることで、句に舟のイメージが付加されます。子規の筆まかせ抄(岩波文庫)にも、「一天水の如く弦月舟の浮ぶに似たり」という記述があります。

一句の華やぎも、俳句を読む楽しみの一つでしょう。
荒海や佐渡に横たふ天の川        松尾 芭蕉
月を舟に見立て、星を川に見立てる。それは、素朴で、自然で、豊かな想像力の賜物なのではないでしょうか。


七十三、禅と俳句

阿部敏郎の「いまここ塾」(サンマーク文庫)を読んでいて、次のような記述に出会いました。
考えは過去の産物だけど、感じるのは「いま」。したがって花を見て、「ああ、きれいだな」って感じた瞬間は「いま」。「ああ、きれい」って思ったら、それは「いま」。感受性は「いま」です。
ところが、すぐ次の瞬間に、頭の中で「何科の植物かな、花屋で買ったらいくらかな」って。これは過去の自分の知識。それでまた、取り逃がしちゃう。
 俳句では「いまここ」に集中します。それは、考えるためではなく感じるためです。

また、鈴木大拙は、「禅と日本文化」(岩波新書)のなかで、次のように述べています。
俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなくて、直接に元の直観の方向を指すものである。否、実際は直観そのものである。

ここで、感動をその場で詠むことの意義について考えてみましょう。その場で詠むということは、見たまま、感じたままを詠むということです。感じたところが、そのままことばになるわけですから、理屈が介在しようがないのです。いいえ、俳句という短詩形は、実をいえば理屈の介在を拒絶するための方法なのではないでしょうか。

先にあげた「禅と日本文化」のなかで、大拙は次のようにも述べています。
感情が最高潮に達したとき、人は黙したままでいる。いかなることばも適当でないからだ。十七音でさえ、多過ぎるかも知れぬ。
俳句は叙述して説明する文芸ではありません。説明しないことで、相手にも自分と同じように直覚してもらおうとします。ですから、その場にあって、そのときの自分から生まれでたことばに、感動の伝播を託すのです。

「呼吸さえ覚えていれば、僕たちは「いまここ」にいる。坐禅は安定した姿勢で坐って、ただ呼吸を見つめている。でも呼吸だけを意識しているのは難しいですよ。」と阿部氏はいいます。無心で俳句を作っているとき、感動を捉まえようとしているとき、わたしたちは、紛れもなく「いまここ」にいるのではないでしょうか。
「いまここ」にいるわたしたちが、自分の視点から見たもの、聞いたもの、感動したもの、美しいものを詠む。わたしたちがすべきことはたった一つ、正直に詠むことです。それだけで、俳句は、雲の峰の標榜する「自分詩あるいは自分史」になっていくのではないかと思います。


七十四、口語の表現領域

普段は口語で暮らしているわたしたちが、文語で俳句をつくるのには、どんな理由があるのでしょうか。思いつくままに、列挙してみましょう。
① 十七音定型は、もともと文語のリズムだから。
② 歴史的仮名づかいの季語(暑し、寒し、涼し、冬深し、春浅し等)と相性がいい。
③ 切字(や、かな、けり等)は、口語と合わない。
④ 動詞が口語よりコンパクトなものが多く(数ふ、伸ぶ、受く、終ふ、など)、俳句にとっては都合がいい。

文語は俳句と相性がいいこと、その利便さもよくわかりますが、自分の感動を表現するのに、口語でなくては表現できない領域はないのでしょうか。特に現代的なテーマを扱うときはどうなのでしょうか。
梅雨明のネイルはマリンブルーかな    都賀さくら
けやき句会で高得点を獲得された句ですが、「マリンブルー」に「かな」がつながることに個人的に違和感がありました。梅雨明に呼応するようなマリンブルーの爪。作者の感性の光る作品です。「かな」を使用せずに、梅雨明はマリンブルーの爪と決め/つゆの明マリンブルーの爪光る/などとすることも可能ではないでしょうか。
次の拙句の場合、同じことをいっていても、文語と口語ではニュアンスが異なるように思われます。
口々に皆富士褒むる冬夕焼        金子つとむ
冬夕焼みんなで富士を褒めている     〃

文語では、ことばが緊密に関連して、引き締まった印象を与えるのに対し、口語はどこか茫洋として、のびやかな感じを与えるのではないでしょうか。極論すると、「皆」と「みんな」は全く違う。みんなには、気持ちの繋がっている温もりがあるように思えるのです。畏まった感じと自然体の感じ、それは、もともと書きことばとしての文語と話しことばとしての口語の違いなのかもしれません。

ところで、独自の口語俳句で知られる篠原梵は、次のように述べています。(句集『年々去来の花』 別冊、『径路』)
俳壇人といふのも、文章を書くときはかなり普通のことばで書くのに、俳句作品となると時代ばなれ、あるひは日常ばなれをする。お互に変だとも気づかず、または思はず、さうしてあやしまない。(中略)日常普段のことばであらはすのでないと、把握することのできない、言ひあらはすことのできない何物かを逃がすことになるのではなからうか。新しい感覚や角度が見えて来ないのではないか。

わたしたちは、表現領域を拡大するために、ときには口語表現にチャレンジしてもいいのではないでしょうか。
水筒に清水しづかに入りのぼる      篠原  梵
揚雲雀空のまん中ここよここよ      正木ゆう子


七十五、感覚への共鳴

俳句という短詩が成立する背景には、互いの感覚に対する共鳴ということがあるのではないでしょうか。俳句における感覚とは、季語とそれ以外の句文を取り合せる感覚のことです。一句一章の句でも二句一章の句でも、一句を構成しているのは季語とそれ以外の句文であり、その中心をなすのはこの取り合せの感覚といえましょう。

わたしたちが俳句を選ぶとき、一句はわたしたちを共鳴させるものとして存在し、わたしたちはあたかも共鳴器のようにそれに反応しているのだと思われます。わたしたちが、句の良否を瞬時に判断できるのは、この共鳴ということによるものと思われます。
わたしたちは、さまざまな体験のなかで、さまざまな感情を生起させながら生きています。そしてその多くはその場で消滅してしまうような儚いものです。
しかし、一句を通してあのときの感覚が甦るのです。それまで、ことばにすらできなかった感覚が・・・。

季語をAとし、それ以外の句文をBとすると、作者の独自性は、句文Bそのものと、他でもないAとの取り合せのなかに現れています。一句は、わたしたちにいつもこう問いかけてきます。
「Bを感じたことありますか。AとBとベストマッチじゃないですか。」

句が選ばれるのはとても嬉しいことです。では何故嬉しいのでしょうか。作者は、自分の句の意味が伝わったから嬉しいのでしょうか。正しい日本語を使っている限り、意味だけなら誰にも伝わっているはずです。
作者にとって何より嬉しいのは、受け入れられるかどうか分からないAとBとの取り合せが、分かって貰えたからではないでしょうか。

感覚の共鳴という視点でみると、俳句はある種のコミュニケーションではないかと思うことがあります。コミュニケーションとは、人と人とが互いに認め合うことだと思いますが、感覚の共鳴とは、今生きてある自分の感覚が承認されることだからです。

俳句をつくるということは、「・・・の感じ」をことばにする技術を身につけ、コミュニケーションすることではないでしょうか。それは、好き、嫌い、かわいいなどの一言では片付けられない、もっと複雑な感覚です。他人の句を選び、自分の句が選ばれる。それは、ひととひととが繋がるプロセスの一つだと思うのです。

起立礼着席青葉風過ぎた         神野 紗希


七十六、俳句ライブという方法

「100年俳句計画」(夏井いつき著、そうえん社)を読んで、氏が小中学生を対象に、俳句ライブというのを実践されていることを知りました。夏井氏はいいます。
私が教えるのは、たったひとつ。「取り合わせ」という俳句技法の中の最も基本的な型を一つだけ教える。(中略)
はるのそら・○○○○○○○・○○○○○
「ね、こうすると、今みんなはまだ自分の脳みそをまったく動かしていないのに、俳句の約三分の一が自動的にできちゃってるわけよ」

あとは十二音を勝手につくり、季語と取り合わせてみるだけ。ポイントは、十二音のことばと季語が取り合わされたとき、意味が変容していくありさまをまざまざと実感することにあるようです。
実際の俳句ライブは、簡単なレクチャーのあと全員が五分以内に一句を作り、先生が選んだ十句の中から、全員の合議で順位を決めていくようです。
さよならというのはつらいさくら草  なみこ(小一)
みなみかぜはだしでのぼるすべりだい べんとう(小一)
しかられてゆらゆらにじむふじの花  吉田千与美(小四)
弟が髪をひっぱるソーダ水      塚本裕子(中一)

「楽しくなければ俳句じゃない」をモットーに、言葉遊びの要素をふんだんに取り入れた俳句ライブですが、この言葉遊びについて、夏井氏は次のように述べています。
『言葉遊び』もできない子どもが、どうやって自分の『真の感動』を表現することができますか。言葉をあやつる技術を身につけ、言葉をあやつる楽しさを知ってこそ、言葉は子どもたちの中で真の力を発揮するんです。
いざ何かの感動にぶち当たった時、言葉をどう使えばよいかを体で覚えている子どもだけが、それを生き生きと表現できるんです。

ところで、十二音ということで思い出すのは、芭蕉の古池の句です。「禅と日本文化」(鈴木大拙著、岩波新書)に次のような記述があります。
芭蕉がその師仏頂和尚のもとで参禅していた頃、ある日、和尚が彼を訪ねてきて問うた。「今日のこと作麼生(そもさん)」近頃、どうして暮らしていられるか。芭蕉答えて、「雨過ぎて青苔湿ふ」仏頂はさらに、「青苔いまだ生ぜざるときの仏法いかん」「蛙飛び込む水の音」と芭蕉は答えた。

伝説のようですので、勿論真偽は定かではありませんが、蛙飛び込む水の音は、禅問答のことばだった可能性もあるのです。実際に十二音が先にできる場合があるものです。十二音を先につくり、いろいろの季語を組み合わせてみることで、俳句の成り立ちや季語の働きを知る。それも、ひとつの勉強法といえそうです。


七十七、共振装置としての季語

季語をつらつらながめていると、季語の生い立ちが分かるような気がします。感動が凝縮されたような季語もあれば、空想の翼をひろげたような季語もあります。しかし、季語の根っこには、必ず現実の風物があるように思われます。わたしたちが、俳句に季語を入れることを、遵守し続けているのは、季語に対する絶大な共感があるからでしょう。これが、いちばん大きな理由だと思います。

たとえば、星月夜。角川俳句大歳時記では、「月のない夜空が、星明りでまるで月夜のように明るいこと」と説明されています。つまり、星月夜の月夜とは、まるで月夜のようなという意味なのです。星月夜ということばだけで、わたしたちは、さまざまな空想に浸ることができます。そして、実際にそんな夜空を経験したことのある人なら、たちまちそのときの記憶が甦ってくることでしょう。

星月夜という季語にわたしたちが共感できるということ、これが俳句の母胎になっています。もしこの共感がなかったら、星月夜という季語は、現在まで残ってこなかったのではないでしょうか。共感できるからこそ、自分も作ってみたくなる。多くの人が同じように星月夜で作句する。そうすることで、季語はわたしたちのなかに連綿と生き続けてきたのではないかと思われます。
選ばれしやうに人逝く星月夜       前田 恭子

また、雀化して蛤となるという季語もあります。寒露の次候にあたり、およそ新暦の十月十三日から十七日に相当します。日本版ではこの候は、菊花開(きくのはなひらく)となっています。もともと晩秋になって雀がめっきり減ってしまったのを、蛤になったのだろうと想像したわけですが、雀と蛤の文様を比べてみた古人の観察眼に驚かされてしまいます。
季節によって国内を移動する鳥を漂鳥といいますが、実際鳥たちの移動は昔から謎だったようです。季語の音数が十二音もあるので確かに使いにくいのですが、古人にならって空想の翼を広げてみることも楽しいのではないでしょうか。蛤と砂浴びが面白いと思います。
蛤になるべく雀砂浴びす         上野 一孝

こうして季語についてあれこれと考えていると、季語のありがたさを思わずにはいられません。季語ひとつを思い浮かべただけで感じられるこの豊かさは、とても貴重なものです。それは、季語を通して遙か先人たちにつながっていくような感覚です。
季語はまるで共振装置のようなもの。一句のなかで、句意を響かせる働きをするのも季語、俳句を通して人と人を結びつけているのも季語なのだといえないでしょうか。


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