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俳の森-俳論風エッセイ第36週

二百四十六、二つの俳句

茨木和生氏の「季語の現場」(富士見書房)を読んでいて、次のような記述に出くわしました。
狐火や髑髏に雨のたまる夜に       蕪村
髑髏に雨の降りたまった場面など、蕪村は実際に見ていないと思うが、あれが狐火よといわれてほのかに見た記憶が残っていたのだろう。この髑髏、あるいは兵のひとかしらかもしれない。古戦場のさまを思い描き、狐火という幻想的な季の言葉にひかれて蕪村は句に詠んだのである。
狐火や村に一人の青々派         高野 素十
「この狐火の斡旋はなかなかのものですよ」と聞いたのは師の右城暮石からだったが、「ホトトギスの俳人からすれば、青々派の俳人って、狐火みたいな存在でしたでしょうねぇ」とも聞いた。

今回は、この二つの句を題材に、二種類の俳句について考えてみたいと思います。蕪村句については、句文Bの「髑髏に雨のたまる夜に」は、茨木氏の指摘通り、おそらく空想ではないかと思われます。
もともと、狐火という季語が幽明境にあるような季語だけに、このような空想が働いたのではないでしょうか。現実的なむごさというよりも、どこかこの世のものとは思われない、妖しさが漂います。
一方素十句のほうは、あくまでも現実の世界で作句しています。事実かどうかは定かではありませんが、句文Bの「村に一人の青々派」は、現実の世界では大いに有り得ることでしょう。

このように、有季定型では、季語から何を発想するかで、四種類の句が生まれるといっていいでしょう。
A-①体験のない季語のイメージから、空想世界を詠む
A-②体験した季語の実感から、空想世界を詠む
B-①体験のない季語のイメージから、現実世界を詠む
B-②体験した季語の実感から、現実世界を詠む
しかし、読者から見た場合、作者の季語体験の有無は判別できませんので、以下の二分類に集約されます。
A 季語を契機として詠まれた空想句
B 季語を契機として詠まれた現実句
現在は写生論の影響で、多くの作者は現実句を作るケースが殆どでしょう。さらにいえば、B-①を題詠、B-②を嘱目吟といってもいいかもしれません。
狐火は自然現象に由来しますので、読者は現実の狐火を手がかりに、蕪村の空想に付き合うことになりましょう。蕪村と一緒にこの詩空間に遊ぶのです。また、素十句では、作者への共感を通して作者と交流し、それ故、作者の人となりを知ることもできそうです。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな      与謝 蕪村
大いなるものが過ぎ行く野分かな     高浜 虚子


二百四十七、見出しと俳句

たまたま子どもと一緒に受講した夏期講座で、元茨城新聞記者の冨山章一氏の講義をきくことができました。そのテーマは、「新聞はご飯と同じ。あなたの栄養源」というものでした。
そのなかで特に印象に残ったのは、組版といわれる人たちの仕事です。彼らは、限られた時間のなかで、紙面のレイアウトを決め、見出しを作ります。そして、見出しには、おおむね次のようなルールがあるということでした。
・ 文字数は、七~九文字、多くても十二文字位まで
・ 拾い読みしただけで、内容が大体分かるように作る
・ 5W1Hでかく
・ 全て漢字にはせず、最低一文字ひらがなを入れる
・ 一番伝えたいことを初めにいう

この時、氏がとりあげた紙面は、鬼怒川決壊の記事で、次のような見出しが使われていました。文字の大きさ順に並べてみます。
・ 常総で鬼怒川決壊(八文字、内一文字はひらがな)
・ 大規模浸水9人不明(九文字)
・ 本県・栃木に記録的豪雨(十文字)
・ 県内25万人非難指示・勧告(十二文字)
これを5W1Hに当てはめてみましょう。5W1Hは、人の行為を想定していますので、自然災害にはそぐわないため、誰がの部分は、『何が』としてみました。
・ 何時 省略(日刊紙のため、前日の事だと分かる)
・ 何処で 常総で
・ 誰が(何が) 鬼怒川が
・ 何を(した) 決壊した
・ 何故 記録的豪雨によって
・ どのように 不明
ここまで話を聞いたとき、わたしは、わたしたちの俳句との共通性を考えていました。たった十七音で何かを伝えることは、見出しよりもさらに難しいのではないか。そこで、次の句でこの5W1Hがどうなっているのか検証してみたのです。

古池や蛙飛び込む水の音         松尾 芭蕉
・ 何時 省略(日時は不明だが、蛙が時季を伝える)
・ 何処で 古池に
・ 誰が(何が) 蛙が
・ 何を(した) 飛び込んだ
・ 何故 不明だが、詩情と直結している
・ どのように 音をたてて
緩やかですが、多くの季語には『何時』『何処で』が予め含まれています。俳句にとっても、5W1Hは、有効に働いているのではないでしょうか。特に『どのように』は、作者独自の視点であり、俳句のポイントといえましょう。


二百四十八、現実句と空想句

前々回で現実句と空想句について述べましたが、今回はその違いについてさらに詳しく検討してみたいと思います。
現実句についてはこれまで取り上げてきた作品の大半が現実句ですので、およそ次のような特徴をみることができるのではないでしょうか。
【生活美としての現実句】
現実句では、作者が生活のなかで発見した美が、詩情として表現されています。読者が作品に共感するということは、とりもなおさず、読者がその美の価値を認めるということになりましょう。ですから、その美はいわば生活美といえるのではないでしょうか。

一方空想句は、どうでしょうか。読者は空想句のどこに価値を認めるのでしょうか。今回は蕪村の空想句を鑑賞することで、その魅力を探ってみたいと思います。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな      与謝 蕪村
一読して掲句から受け取る印象は、ただならぬ緊迫感といえましょう。野分のなかを、五六騎の武者が鳥羽殿へ急ぐというのです。上五の鳥羽殿へという言い方には、虚を突かれたような驚きがあります。
鳥羽殿というのは、京都伏見区にあった白河・鳥羽上皇の離宮のことだそうです。そこで、何か一大事が勃発したということを暗示させているのです。鳥羽殿から保元・平治の乱の史実を思い浮べることも可能でしょうが、蕪村の目的はもとより史実の再現ではなかったといえましょう。

実作者としての私見ですが、掲句は野分の情趣に触発された蕪村が、事件、騎馬武者、離宮と連想を膨らませ、あたかも「いまここ」の景であるかのように、遊んでみせた句と思えてならないのです。
掲句はまさに、野分と題された一幅の絵を見るようです。蕪村の句から、空想の句の魅力を以下のように要約することができるでしょう。
【理想美としての空想句】
作者は季語の実感をベースに、真に迫る虚の世界を作り出しています。読者は、それが嘘だと分かっていても、言語によって構築された美的世界の魅力の虜になるのです。それを理想美といってもいいかもしれません。

さて、一口に空想といっても、民間伝承や宗教の教義などのようになかば公共的な空想から、全くの個人の性癖に由来する荒唐無稽のものまで様々でしょう。その空想が読者に受け入れられるか否かは、ひとえに、季語に対する実感の有無にかかっているのではないでしょうか。
一句が季語の実感を強く反映したものであるなら、読者はその実感を手がかりに、作者と一緒にその空想に遊ぶことができるのではないかと思われます。


二百四十九、擬人化表現について

散歩をしていた時に見た光景が、そのまま句になりました。道端の一基の墓の回りには、彼岸の一週間ほど前でしたが、すでに彼岸花がいくつか咲きだしており、たくさんの蕾が開花を待っています。

墓一つ守りて揺るるや彼岸花       金子つとむ
二句一章の補完関係の句です。そして、推敲している時に、擬人化表現になっていることに気づきました。わたしは、何故擬人化表現を取ってしまったのでしょうか。
この句は、初めからこの句の形で生まれたもので、その時のわたしの心情をある程度正確に反映しているのではないかと思われます。そしておそらく、一つの墓を囲むように咲き始めた彼岸花が、墓を守っているようだと咄嗟に感じたものでしょう。またそこには、不思議なことに彼岸花以外の花が見当たらなかったことも、そう思わせた一因かもしれません。

しかし、しばらく経ってみると、やはり擬人化が気になり出しました。その墓は近くの民家のものと思われますが、わたしにとっては縁もゆかりもない家です。墓を守るというのは、すこし言い過ぎのような気がしてきたのです。それに、守るという表現は、彼岸花が咲いている状況を正確に言い止めていないようにも思われたのです。
こちらの感覚が敏感になっている場合や、もともと感受性が豊かで感動しやすいタイプの人は、感動を強く受け取るため、無意識に擬人化表現をしてしまうことが多いのではないでしょうか。
そんな時は、しばらく時間をおいて振り返ってみると、その時の感動が沈静化して、やや客観的に状況を見つめることができるようになります。

掲句は、最終的に次のように推敲しました。
墓一つ囲みて出づる彼岸花        〃
「守る」が「囲む」に変わることで、情景が一層はっきりしたのではないかと思います。普段目にする様々な物のなかから、何に着目し、それをどう詠むかは、全てわたしたちの心のセンサーが決めていることでしょう。それも常に一様ではなく、わたしたちの心の状態に応じて、センサーの感度も常時変化しているのではないでしょうか。
それでも、わたしたちが、見て、聞いて、感じて、句にした一切のものは、わたしたちの心のフィルターを一度通過したものといえましょう。ですから、敢えて擬人化表現によって感動を強く打ち出さなくても、端から全てわたしたち自身の俳句になっているのではないでしょうか。
要は、心が詠めといったものを素直に詠むだけでいいのです。そのように句を詠み続けることが、そのまま自分自身を発見する旅になってゆくのです。


二百五十、丁寧な暮し-来る、帰る、残る

和暦で暮らそう(小学館、柳生博と和暦倶楽部著)によれば、中国から伝わった七十二候は、貞享の改暦(一六八五年)で、渋川春海によって日本的に改められたということです。
それにしても、一年を四等分して四季となし、それを六等分して二十四節気(十五日単位)とし、更にそれを三等分し七十二候(五日単位)とした先人たちの知恵には、ただただ感嘆するばかりです。先人たちは、五日毎の季節変化を敏感に受け止め、それに合わせて暮らしを組み立ててきたといえるでしょう。

この七十二候に見られるような季節変化に対する敏感さは、そのまま季語の世界に受け継がれているように思います。たとえば、七十二候の玄鳥至(清明、初候)から、玄鳥去(白露、三候)までの間には玄鳥(燕)に関する様々な季語が網羅されています。
人々は、燕が来たことを喜び、その子育てを見守り、その帰る姿に惜別の情をもって接してきたのではないでしょうか。自然とともにあった心豊かな暮らしぶりが偲ばれます。燕に限らず、季語の世界では来るもの、帰るもの、残るものをいくつも列挙することができます。
例えば、『来る』では、
小鳥来る、燕来る、鴨来る、鶴来る、海猫渡る、白鳥来る、
『帰る』では、
鳥帰る、燕帰る、鴨帰る、鶴帰る、海猫帰る、白鳥帰る、
『残る』では、
残る虫、残る雁、残る鴨、残る海猫
などが挙げられます。
これらの季語から分かるのは、先人たちが、燕に限らずこれらの動物たちをいかに大事に見守ってきたかということではないでしょうか。自然保護とかそういうことではなく、ただかれらを隣人のように見ていたのではないかと思われるのです。残る雁や、残る鴨といったことばには、既に仲間が帰ったあとも傷ついて残っている鳥たちへのいたわりの心が揺曳しています。ことばを変えていえば、それは、毎日を自然の移ろいとともに丁寧に暮らすことなのかもしれません。

俳句は、毎日を丁寧に生きた人々の証として、詠み継がれ、語り継がれてきたのではないでしょうか。たまたまインターネットで見つけた岩手の超結社誌「草笛」の俳句をご紹介しましょう。
桜咲ク地震ニモ津波ニモマケズ      大田 土男
帰りたし子猫のやうに咥へられ      照井  翠

これらの句からは、震災後を生きる人々の息遣いが聞こえてくるようです。災害をもたらす自然は、わたしたちを勇気付けてくれる存在でもあるのです。


二百五十一、子規の句に見る切れの働き

今回は、子規の赤蜻蛉の句を題材に、切れの働きを具体的に検証してみたいと思います。病に倒れる前の子規は、ここ藤代(茨城県取手市)にも足跡を残しています。子規の水戸紀行によれば、明治二十二年(一八八九年)四月三日、常磐会寄宿舎から友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて水戸へ徒歩旅行をしたようです。藤代に宿泊したときの、子規の次のような文章が残っています。(太字筆者)
まだ日は高ければ牛久までは行かんと思ひしに我も八里の道にくたびれて藤代の中程なる銚子屋へ一宿す。此驛には旅店二軒あるのみなりといへば其淋しさも思ひ見るべし。湯にはいり足をのばしたる心持よかりしが夜に入りては伸ばしたる足寒くて自らちゞまりぬ。むさくろしき膳のさまながら晝飯にくらべてはうまかりき。食終るや床をしかせてこれで寒さを忘れたれど枕の堅きには閉口せり。

さて、水戸紀行とは時季は異なりますが、子規の作品を見てみましょう。
赤蜻蛉。筑波に雲もなかりけり。     正岡 子規
一八九四(明治二七)年の作です。近景に赤蜻蛉、遠景に筑波山を置いて、雄大な景色を詠み込んでいます。
ところで、赤蜻蛉の後の句点(切れ)には、どんな意味があるのでしょうか。子規は眼前の赤蜻蛉を見て、「赤蜻蛉」と呟き、そのまま口を噤んでしまいます。
赤蜻蛉は、群れて飛び、風に流され、空中で停止し、また、ついと動き、時折、夕日に翅を光らせます。これら一切の情報が、赤蜻蛉には含まれています。子規が口を噤んだのは、赤蜻蛉の美しさにただただ見惚れていたからではないでしょうか。
やがて子規の視線は、遠くの筑波の峰へと移ります。そしておもむろに、「筑波に雲もなかりけり」と発話するのです。このとき初めて、読者は子規の立ち位置を知り、すっきりと晴れ渡った秋空のもとに、穏やかな山容を見せる筑波嶺を見はるかすことになるのです。

掲句には、歩き疲れた一日の安堵感と、麗らかな秋の日を惜しむ心が揺曳しているように思われます。子規とともにわたしたちも、穏やかで満ち足りた気持ちに浸るのではないでしょうか。掲句を仮に、
赤蜻蛉群れて筑波に雲もなし。
としても、意味は通じるでしょう。しかし、これでは原句の味わいは半減してしまうでしょう。句文間の切れがなくなることで、景の広がりが失せてしまうからです。
切れには、季語に限らずそのことばのもつ情趣の一切を、そこに引き寄せる力があるように思われます。赤蜻蛉と唱えるだけで、情趣の一切を含んだ赤蜻蛉が現れる、それが切れの力といえましょう。
赤とんぼ鞍外されし馬憩ふ        皆川 盤水


二百五十二、季語との出会いから

例えばここに、五音の季語があって、そこに十二音の句文を繋げれば、果たして俳句はできるのでしょうか。そして、頸を挿げ替えるように、季語を取り替えてみて、良さそうなものを選ぶ。
初心者に一句を作る楽しさを味わってもらうには、これもでもいいでしょうが、そのようにしても、季語は主役でいられるのでしょうか。何故、切れがあるのでしょうか。

わたしの些細な体験をお話しましょう。
例えば、秋風という季語があります。ここに秋風だと感じながら、それに吹かれているわたしがいます。しかし、そこに秋風が吹いていただけでは不十分なのです。
秋風に吹かれていると、何故か過去の思い出が湧き上がってきました。とめどもなく、いろいろな思いが、胸に去来してきたのです。そのとき、もう何十年も忘れていた人の名前がふと浮かんだのです。
なんということでしょう。それは、秋風の仕業かもしれない。わたしはそう感じたのです。このとき、わたしは、秋風に出会ったのではないでしょうか。
そして、
秋風や・・・
と発話したのです。わたしに秋風を感じさせたのは、思いもよらない遠い記憶のなかの人の名前でした。それは、若い頃によく通った小劇団の女優さんの名前でした。
そこから、数々の舞台の場面が思い浮かんできました。数十年の時を経て、わたしはあの客席に帰っていたのです。そんなことは、つい今しがたまで、わたしにとって、思いもよらなかったことなのです。
それゆえ、秋風やといって、口を噤まざるを得なかったのです。それは、わたしが、感動の余韻に浸る時間といってもいいかもしれません。感動があるからこそ、安易にことばを継げないのです。これが、切れの正体ではないでしょうか。そして、おもむろに
思ひがけなき人思ふ・・・
と呟きました。
秋風や思ひがけなき人思ふ        金子つとむ
このようにして一句が成立したのでした。

このように、一句は、人それぞれの感動が生み出すものではないでしょうか。そして、季語を発見したその感動が、その証としてその季語を置くのです。それは、他の季語に置き換えようがないのです。何故なら、他でもないその季語に感動したことが、一句の始まりなのですから・・・。
それゆえ、季語は主役なのです。もし一句のなかに置かれた季語が、簡単に挿げ替え可能であるならば、もともとその季語を選ぶに相応しい感動が希薄だっただけなのではないでしょうか。


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