俳の森-俳論風エッセイ第52週
三百五十八、天啓としての俳句
俳句は、季語を契機としていわば天啓のように個人を訪れた何かであろうと思います。子規は、『古池の句の弁』(俳諧大要、岩波文庫)のなかで、「芭蕉は終に自然の妙を悟りて工夫の卑しきを斥けたるなり。」と述べています。
ある日のひばり句会で、私は、次の二つを特選にしました。
遠筑波利根のまそほの夕薄 竹内 政光
蝶も鳥も人も獣も秋の風 飯野 正勝
前者は、赤味を帯びた薄が夕風にそよぐ向こうに、筑波嶺が小さく見えているのでしょう。まそほの薄という季語の佇まいが筑波とよく響きあっているように思います。〈利根のまそほの〉と畳みかけるような表現に、作者の感動が余すところなく表現されているのではないでしょうか。
一方後者の句には、やや時間の経過を感じます。散歩でもしていたのでしょう。蝶や鳥や勿論人や獣にも出会った作者が、ふと秋風を強く意識されたのだろうと思います。思わず〈も〉を四つも繋げてしまったところに、作者の感動の所在があるように思います。作者はまぎれもなく、秋風に出会ったのではないでしょうか。
これらの句に共通するのは、作者は季語の実物に、いままさに出会ったことが契機となって作品が生まれているということです。冒頭に私が、天啓といったのはまさにそのことです。まそほの薄を見ても、秋風に吹かれていても、いつもそれらに出会えるとは限りません。天啓とは、こちらの心の状態と季語のもつ情趣がぴったりと重なったときにやってくるように思えるのです。
作者が天啓のようにして得た句に、私たちが惹かれるのは、私たちもまたそのような瞬間を記憶にとどめているからでしょう。それが、その作品によって一気に甦ってくるのです。おそらく、同じ人間として生きているそのことが、共感の母胎なのではないでしょうか。もし掲句を、蝶は春の季語だから季重なりなどと言っていたら、掲句を味わうことは到底できないでしょう。蝶といわれて、秋のやや小振りな蝶を想像してみれば、秋風が一入身に沁みて感じられるのではないでしょうか。
子規が写生を称揚したのは、俳句は頭で作るものではないと、見定めたからでしょう。作者が感嘆詞を発したような場面が、そのまま句になるのではないでしょうか。その感動があるからこそ、俳句に力が宿るのではないかと思うのです。それは、何も俳句に限ったことではなく、詩でも和歌でも同じではないでしょうか。
何事の おはしますをば しらねども
かたじけなさに 涙こぼるる 西行
三百五十九、ことばの体重
私たちが、その情景をありありと心に浮かべ、その喜びのままに「鳥の声」と書けば、俳句では鳥の声が湧いてきます。ですから、「鳥の声湧く」などと殊更にいう必要はないのです。同様に、紫陽花といえば、紫陽花の花が咲き、赤蜻蛉というだけで赤蜻蛉が群れ飛ぶのは、私たちの中に、そのことばを裏付ける十分な情景が、広がっているからではないでしょうか。
水戸紀行で筑波を見たであろう正岡子規は、
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり 正岡 子規
という作品を残しました。作者にとっても、読者にとってもこの句を口にするたび、赤蜻蛉や筑波山が眼前に立ち現れてくることでしょう。
長年俳句をやっていると、一つの言葉が生まれるというより、一つの俳句が、まるごとそのまま生まれてきます。私たちが、普段何気なく会話をするように、俳句が繰り出されてくるのです。発語してみるまで、どんなことばが出て来るのか分かりません。どうしてことばがそう並んだのか、どうして他のことばでなくて、そのことばなのかを説明することはとても困難です。
敢ていえば、私たちのなかで渦巻いていることばや思念などが、何かを契機として立ち上がってくるのではないでしょうか。そのとき、私たちの五感は、重要な働きをするでしょう。俳句になって立ち現れるのは、そのときどきの作者自身なのかもしれません。その意味で、俳句は作者自身を写す鏡のようなものともいえましょう。
俳句が生まれることで、興味の在処、ものの見方を自覚するのは、私たち自身の方です。最近、街路樹がやけにごつごつしていることに気づきました。そんなことはとっくに気づいている人もいれば、そんなものには興味がないという人もいるでしょう。しかし、私には、その時初めてそれが見えたのです。その瘤はおそらく、毎年毎年剪定されることと関係があるのでしょう。それで、
街路樹の瘤の多さよ木の芽風 金子つとむ
と詠みました。
私たちが、折々心に係るものを詠むことで、ことばに私たちの体重がかかっていきます。写生をするということのなかには、ことばに体重を乗せるという意味も少なからずあるのではないでしょうか。思いつきでことばをこね回しても、裏付けとなる実景が無い限り、ことばに体重は乗らないでしょう。私は、人が一生かかって紡ぎ出すことばがあってもいいように思います。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎
現世の汚れをつつむ春の雪 小林 ゆきを
三百六十、人知と写生
江戸時代頃までは、人口の七割近くが農民だったそうですから、多くの人が自然現象と密接な関わりを持ちながら暮らしていたのでしょう。明治の近代化以降、私たちの暮らし振りはどんどん変わっていき、特に戦後は、農業人口が激減していきます。便利な暮らしは、私たちから季節感を削いでいるようにも思われます。そのような現代にあって、俳句は忘れかけていた自然との繋がりを取り戻してくれるのではないでしょうか。
俳句は何と問われれば、今なら、「人と自然との出会いがもたらす喜びの詩」だと答えましょう。その喜びの契機となったものが、季節の景物だといえるかもしれません。物だけでなく、寒暖や風や雨が私たちを季節の懐へ誘います。しかし、ほとんどの人は、朝日も夕日も見届けることなく、日々を暮しているのです。
そこに美があるのに、なかなか気づかない。季語はその入口です。先人たちが自然のなかに、あるいは日々の暮しのなかで美を見出してきた集大成といえましょう。季語を一つ知ることは、その季語につらなる先人たちの思いに連なることを意味するでしょう。俳句を通して、私たちは過去の人たちともコミュケーションすることができます。
さて、一口に自然の美といっても、それは草花のように景物そのもの美しさであったり、朝靄と青田、赤蜻蛉と夕日というように、景物が相互に引き立てあう美しさであったり、光の強弱がもたらすある特定の時間帯の美しさだったりします。心動かされる風景に出会うと画家は絵筆を握り、俳人は思わず句を口ずさむでしょう。
そうして自然との出会いは、私たちの記憶となってあるいは、作品となって私たちのこころを潤していきます。美しいものをたくさん知っている、それだけで豊かなことではないでしょうか。
もう百年以上も前に、正岡子規が、写生ということを提唱しました。写生をすることで、私たちは人知を越えた美を図らずも捉えることができるように思います。理知で作った俳句は、どうしても人間の枠を超えることはできません。ひとり、写生句だけが、人知を超えられると思うのです。例えば、次のような作品は、私をどこか遠いところへ誘います。
霜掃きし箒しばらくして倒る 能村登四郎
苗代に落ち一塊の畦の土 高野 素十
これらの作品は、どこか人知を超えたものに触れているような気がしてならないのです。このような作品に接すると自然に対する畏敬の念さえ湧いてきます。自然から離れた生活をしていると、私たちは自然の美しさを忘れてしまいかちです。だからこそ、この時代に俳句をすることには重要な意義があるのではないでしょうか。
三百六十一、表現は只一つ
私の敬愛する高野素十さんのことばに、「表現は只一つにして一つに限る」というのがあります。また、「俳句の道はただこれ写生。これただ写生。」ともいっており、虚子をして「客観写生真骨頂漢」と言わしめた面目躍如といえましょう。
しかし、只一つと言われると、少し疑念も沸いてきます。素十さんは写生ということを前提にして、そう言われているのだろうと思いますが、見たままを写すことが写生だと教わって、私も分かったような気になっていましたが、具体的にはどういうことなのでしょうか。写生を突き詰めれば、素十さんのいわれるように、只一つの表現に行き着くということなのでしょうか。
中村草田男さんは、その俳句入門のなかで、
花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月 原 石鼎
を評して、「対象の姿とそれの伴っている感じを如実に表現するためには、よほど吟味して言葉をえらんでこなければならないことと、つかった言葉の相互間に調和がとれていなければならないことが、この句をよく味わってみると、よくわかると思います。」と述べています。
『あの感じ』に向って、私たちは推敲を繰り返すのだともいえましょう。しかし、その表現が一つしかないとなるとどうなのでしょうか。ちょっと味気ないことですが、俳句を機械的に分解すると、作者が行っているのは十七音を構成することばの選択とその配置の決定ということになりましょう。それを素十さんは只一つといっているのです。このことが、もう何年も気になっていたのです。
ところが、先頃自作を推敲していて、あることに思い当りました。写生はその場の状況を写し取るだけでなく、もっと厳密にいえばそのとき作者の意識にのぼった順番をも写し取ることではないか・・・。そんなことがふと頭を過ったのです。拙作ははじめ、こんな形でした。
夏雲へ少年が坂漕ぎゆけり 金子つとむ
しかし、これではその場面の状況は説明できても、その場に居合わせた私の『あの感じ』を説明するには、不十分のように思えたのです。私は跨線橋のだらだら坂を下り切ったところで、自転車に乗ったその少年とすれ違ったのでした。少年は自転車を漕いだまま、私がいましがた降りてきた坂を上っていきました。とそのとき、少年を見送る私の視界に夏の雲が入ってきました。
私が見たのは、少年、坂、夏の雲という順番だったのです。そう思って原句を眺めてみると、上五はやや説明的に思われました。そこで、次のように推敲したのでした。
少年の漕ぎゆく坂や夏の雲 〃
このように写生を掘り下げていくと、素十さんのいわれることが少し納得できたように思うのです。
三百六十二、いのちの実相を写す
高野素十さんの有名な句に、
甘草の芽のとびとびのひとならび
があります。高浜虚子はこれを称賛し、水原秋桜子は、草の芽俳句といって批評しました。素十さんはそれに対し、論戦を挑むというようなタイプではありませんが、「芹」昭和三十八年二月号、瑣末主義と題する一文のなかで、自身の考えを次のように述べています。
早春の地上にはやばやと現れた甘草(正しくは萱草)の明るい淡い緑の芽の姿は、地下にある長い宿根の故であろうかこのような姿であった。一つのいとけなきものの宿命の姿が、「とびとびのひとならび」であったのである。それを私はかなしきものと感じ美しきものと感じたのであった。甘草の芽のとびとびにひとならびではないのである。(傍点筆者)そして、逆に次のように質問しています。
「流れゆく大根の葉の早さかな」と「大根の葉の流れゆく早さかな」との両句の興趣の径庭を評者はよく、識別評釈し得るものなりや。
あえて補足するなら、もしこれがとびとびにであったなら、甘草の芽の在り様をただ面白がって詠んだに過ぎないといわれても仕方ないでしょう。しかし、この句はそうではなかった。「甘草の芽のとびとびのひとならび」強いていうなら、この『の』一字によって甘草の根の伸び行く意志のようなものさえ感じられて、作者は紛れもなく甘草のいのちに共感していることが分かるのです。このような自然の営みに感動するか否かは、おそらく人の資質の違いなのでしょう。しかし、だからといって、自然の営みに共感することが、瑣末なことであるはずがないと思うのです。
写生でその場面を詠むという選択は、作者の感動から来ているのではないでしょうか。それをどのように詠むかは、作者が自身の感動に対して、どれだけ自覚的になれるかで決まってくるように思われます。虚子の大根の句についても、同様のことがいえましょう。素十さんが指摘されているように、もしこの句が、「大根の葉の流れゆく早さかな」であったなら、その思わぬ速さに作者が驚いて作ったというだけになってしまうでしょう。しかし、高浜虚子は、そこに時の流れの暴力的なほどの速さをみたのではないでしょうか。
流れゆく大根の葉の早さかな
流れゆくと冒頭に置くことによって、流れゆくは、直接的には『大根』にかかり、流れゆく大根となります。しかし、流れゆくは同時に、『大根の葉の早さかな』全体にかかるともとれるのです。大根の葉の早さは、時の流れの一つの表象に過ぎず、作者はもっと大いなるものの前でたじろいでいるように思えるのです。
三百六十三、思いやり
現役時代、コミュニケーションの研修で、積極的傾聴というのを教わったことがあります。それは、「相手の話を、相手の立場に立って、相手の気持ちに共感しながら理解しようとする。」ことだと言われています。
俳句と積極的傾聴、一見すると関連がなさそうですが、私は、いわば相手の話を「身を乗り出して聞くような」この態度こそが俳句鑑賞の基本だと考えているのです。
俳句は、たった十七音、読者の積極的な関与なしには成立しえない文芸だといえましょう。高野素十さんは、明治書院刊素十全集第四巻の文章編のなかで、この辺りの事情を次のように述べています。
元来俳句といふものは、極洗練された芸術であって、言はば物の髄のやうなものである。一句に盛られた景趣を各人各様に鑑賞することによって面白味を生ずるもので、その一句といふものは、ある景色の中の極々のエキスでなければならぬ。(一句の出来た話より)
また、同書の他の箇所では、省略について、
いかなる文章にも省略といふもののないものはない。然し俳句に於いては殊に意識して省略を行はなければならない。省略と云ふ意味は単純なるものを単純に叙すると云ふのではない。之は省略ではない。複雑なるものを単純に叙するのが省略であります。(俳句の技巧の味方より)
さて、俳句の鑑賞とは、そのままでは萎んだ風船に、読者が想像力という息を吹き入れて膨らますようなものではないでしょうか。俳句として提示されたことばは、景色のなかのエキスであり、そこには複雑な内容が省略されています。もし、読者のなかにそれを読み解こうという意志がなかったら、どんな句であっても、「それがどうしたの?」ということになってしまうでしょう。
例えば次のような句に接したとき、私たちはありったけの想像を膨らませ、その句の世界に没入するのではないでしょうか。
汗の人集まり来たる畳かな 西宮はるゑ
汗の人は、取るものもとりあえずやってきたのでしょう。「集まり来たる」が一人や二人ではないことを示しています。そして、畳が静かにその場面を描出しているように思います。おそらく、危篤の知らせを受けてやってきた人たちではないでしょうか。誰のこころにもある場面です。この句が私たちの記憶にあるものを甦らせ、そこに私たちを誘うのです。私たちが積極的傾聴によってこの句に没入すればするほど、私たちは作者の思いに深い共感を抱くのではないでしょうか。俳句は私たちの思いやりが成立させる文芸だといえましょう。
三百六十四、芋銭と素十
小川芋銭は河童の画で知られる画家ですが、ホトトギスに拠って俳句を学んでいました。明治三十二年、私の住む取手市にも子規の俳句革新運動に呼応して、水月会という句会が産声をあげています。その水月会に、芋銭は深く関わっていました。そこで、芋銭の俳句とその俳句観をご紹介したいと思います。
古美術妙童刊、「小川芋銭 回想と研究」に、川村柳月氏が「芋銭画伯の俳句」という一文を認めています。
秋風に穴うがつ蠅の力かな 小川 芋銭
を取り上げた上で、氏は次のように述べています。
俳画は巧者らしい筆先や、世間でいう軽妙佻軽と呼ぶ書きぶりは、もっとも禁物であると先生は言われる。俳句がやはり同じである。川柳なれば知らぬこと、俳句は巧者ではいけないのである。人格から生まれた自己の叫びでなければ本当の俳句とは言えない。(中略)先生の俳句には、俳画を見ると同じく技巧がない。苦しい技巧や嫌味な技巧の小さな跡がない。天人の羽衣のごとく無縫であって、自由な俳境に微笑されているのである。(傍線筆者)
さて、冒頭にあげた句ですが、蠅の飛び行くさまを「秋風に穴をうがつ」と見たその眼は、芋銭独自のものではないでしょうか。その時、何故か不意に浮かんだのは、高野素十の次の句でした。
風吹いて蝶々はやくとびにけり 高野 素十
この句には、風に乗って飛ばされるのではなく、むしろ飛ばされまいと必死に飛んでいく蝶の姿が活写されています。これを天下の愚作と言った人がありますが、私はそうは思いません。素十は蝶をか弱きものとして見ているのではなく、むしろ自らの意志で飛んでいく、強きものとして見ているのではないでしょうか。飛びにけりという自動詞の主語は、蝶々です。蝶は、決して飛ばされている訳ではないのです。
両句は偶然にも詠嘆の切字で終わっていますが、その共通点は作者の自然の生命への驚きだと思われます。芋銭も素十も蠅や蝶のもつその力強さに驚嘆しているのです。それが、「穴うがつ」であり、「飛びにけり」なのではないでしょうか。素十は、「表現は只一つにして、一つに限る」ということばを遺しています。このことばと、芋銭の「人格から生まれた自己の叫びでなければ本当の俳句とは言えない」という考えを重ね合わせたとき、俳句の核心にあるのは、作者の感動だといえるでしょう。それが作者にとって明確に意識されていればいるほど、その表現は、唯一無二の形を取らざるを得ないのです。
俳句では、感動のこころがそれに相応しい形を求めているのです。そこに技巧の入り込む余地は全くないということなのではないでしょうか。
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