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俳の森-俳論風エッセイ第54週

三百七十二、物その物

たくさんの俳句を選句するとき、選ばれる句の共通点は、句のなかに読者を引き留めることばがあることではないでしょうか。以前共振語という呼び方で、そのことばについて考察しました。季語と共振することばという程の意味です。さらにいえば、長い間記憶に残る句には、ことばが何かを指示するというのではなく、物その物になっていると感じられる場合があるように思うのです。いくつか例句を挙げてみましょう。

泥鰌掘集まつて来て火を焚けり       皆川 盤水
滝行者まなこ窪みてもどりけり       小野 寿子
合格子鉄砲玉となつてをり         福田キサ子
滝の上に水現れて落ちにけり        後藤 夜半

これらの作品の、火、まなこ(眼)、鉄砲玉、水は単なる指示性を超えて、物その物、物の実感を感じさせることばになっているように思うのですが如何でしょうか。
盤水さんの句の「火」は、まさにここに置かれるべくして置かれたとしか思えないほど、居場所を得て赤々と燃えています。この火はどことなく、人間が初めて手にしたという原初の火を思い起こさせます。火を囲む人の姿が、そう思わせるのでしょう。原始人は火を焚くことで暖をとり、猛獣から身を護ったのでしょう。団欒の真ん中にはいつも火があったように思うのです。この火は泥鰌掘たちの冷え切った体を温め、泥に汚れた体を照らしています。この火は一読して忘れられない火になりました。

小野さんの句、滝行者の窪んだ「眼」は、修行の厳しさを物語ります。頬はこけ、眼は落ちくぼみ、眼光鋭く滝行者が還ってきたのでしょう。読者は、この眼に射抜かれてしまうと身動きがとれないのです。
福田さんの「鉄砲玉」が表しているのは、合格子の解放感でしょう。どことなく優しい感じがするのでは、下五の「なつてをり」にそれを肯う気持ちが強く働いているからではないでしょうか。あんなに頑張って勉強したんだから、今は好きなようにすればいい、そんな親心が感じられるのです。鉄砲玉自体は、やや非難めいたニュアンスで語られることが多いように思いますが、この句の場合は、それを親の優しさが包んでいるように思われます。

最後の後藤さんの作品も、人口に膾炙した句の一つでしょう。この「水」もまた、まさに水の量感そのものように滝の上に現われてきます。これらの例句から分かるのは、それぞれの作品のなかで、そのことばがそこに置かれることで、ことばが物その物になるという事実です。作者は、火を発見し、眼を発見し、鉄砲玉を発見し、水を発見したのではないでしょうか。それば芭蕉さんのいう物の見えたる光ではないかと思うのです。

三百七十三、底荷再考

以前、上田三四二さんが「短歌一生」(講談社学術文庫)のなかで指摘された『底荷』について考察したことがありました。上田さんは、俳句や短歌が日本語のなかで果たす役割を船の底荷のようだと指摘されたのです。それは、日本語の格調を保つに相応しい、磨かれたことばであるという理由からです。
さて、初心者に俳句を教える際に、これまでは一所懸命俳句そのものを教えようとしてきました。しかし最近では、私たちは日本語を正しく使うことにあまり長けていないのではないかと思うようになりました、俳句を作る以前に、日本語を正しく使うことを学ばなければいけないと気づいたのです。

私たちには、「和を持って貴しとなす」という傾向があって、ことばも通じればいいという程度で、ややルーズになっているように思われます。他人からことばの使い方をとやかく言われることもありません。ですから、文章を書き馴れていない人ほど、それを是正する機会がないのではないでしょうか。その結果、俳句をつくる段になると、途端に躓いてしまいます。意味の通じないことばを平気で並べたり、重複する語彙にも気づかないのです。
俳句や短歌が日本語の底荷になれるのは、共に短詩だからといえましょう。短詩の宿命として、ことばを正しく、十全に働かすことが必須条件として求められているのです。そうでなければ、読者の鑑賞に堪えうる内容を盛り込むことは不可能でしょう。
会話であれば、相手の反応を見て補足説明を加えることもできましょう。しかし、俳句ではできません。正しい表現の仕方を知らなければ、伝えたいことを伝えられないのです。初心者の多くは、俳句そのもので躓くというより、その前段の正しい日本語のところで、躓いてしまうのではないでしょうか。

そのことに気づいて以来、日本語の正しい使い方、ことばが意味する範囲にも力点を置くようになりました。日本語が正しく使えれば、すっきりとして、それでいて豊かな内容を作品に盛り込むことができます。そのために、億劫がらずにできるだけ辞書を引くことを勧めています。類語辞典などは、推敲の際に使用すると語彙を広げる手助けになるでしょう。
俳句や短歌が日本語の底荷だとすると、俳人や歌人は日本語を支える人たちということになりましょう。日本語を支えるには、正しく使うことに徹することです。孔子は、弟子に乱世の政治を任されたらどうするかと問われ、「名を正さんか」と答えたそうです。俳句を通して、私たちは名を正すこと、つまりことばを正しく使うことを実践しているのだといえましょう。

三百七十四、俳句はどこがいいのか

俳句は好き好きといってしまえばそれまでですが、大別すると実感派と空想派に分かれるような気がします。ここで実感派というのは、例えば子規の次のような作品を由とする人たちのことです。
苗代のへりをつたうて目高哉        正岡 子規
子規は、古俳諧を渉猟して「俳句分類」という偉業を成し遂げましたが、そのあげく自然のなかの何気ないことに面白さを見出していきます。子規は初心者に向けた「俳句の初歩」という文章(「俳諧大要」所収、岩波文庫))の中で、「写実的自然は俳句の大部分にして、即ち俳句の生命なり。」と述べています。

子規の目高の句を見ても、どこがいいのかさっぱり分からんという人がいるのは事実でしょう。同じく子規の次のような句でも、おなじ感想を持つ人があるのです。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり        〃
この二つの作品で語られているのは、いずれもあり触れた情景でしょう。おそらく、それが面白くないのでしょう。しかし、私はそうは思わないのです。むしろ私は、二つの句から得も言われぬような安らぎを感じてしまうのです。それは私が単に子どもの頃に、そのような体験をたくさんしてきたからなのでしょうか。
緑で覆われた苗代の僅かな隙を、目高が泳いでいます。縁をつつくようにしながら、少しずつ横に移動しているのでしょう。とてもけなげないのちの営みがそこにあるように思えてなんだか懐かしさが込み上げてきます。

一方、赤蜻蛉の句も、前景の赤蜻蛉と後景の筑波との間には、様々な景物が横たわっていることでしょう。そしてそれらはすべて清澄な秋の空気に包まれているのです。赤蜻蛉の羽がときおり日差しをうけて、きらりと光ります。遠くの芒原が銀色に輝いています。田んぼはあらかた稲刈りが済んでいるでしょうか。まるで匂まで感じられるようです。それは、作者が視線を移動させた束の間の出来事です。その間に、これらの景物がなだれ込んできます。私は作品の世界に入り込み、その世界を実感するのです。

反対に次のような句は、私を戸惑わせます。
滝落ちて群青世界とどろけり        水原秋桜子
この句は、何故か私の五感に寄り添ってこないのです。どこか、遠くの出来事のような気がしてなりません。その最大の理由は、おそらく群青世界ということばでしょう。群青色の世界ということでしょうが、なんだか夢の世界のようでピンとこないのです。恐らく、そのような世界に遊ぶことが私は不得手なのだろうと思います。このような作品は空想派好みといっていいのかもしれません。俳句はどこがいいのか、答えは一つではないのだろうと思います。


三百七十五、俳句の前提

もし俳句について何ら予備知識がなく、日本語だけは知っている読者を想定してみると、その読者はどのように俳句を読むのでしょうか。彼らはまず、寸断されたことばの羅列に戸惑い、ありふれた情景を思い描いて、つまらないと思うかも知れません。
地元で句会を開催する傍ら、句会とは別に学習会を開いていますが、俳句の初心者というのは概ね、先程想定したような方々といっていいでしょう。そこで、私はまず、
・俳句はイメージの詩であること
・分断された句文は、場面を想定することで繋がること
を説明して、イメージを重ね合わせるように読んでみてくださいと話しています。
俳句の形は、一句一章、二句一章、三句一章(三段切れ)などと呼ばれますが、その句に相当する句文は、場面の力によって分散することなく統べられているからです。

文章を書く時、作者は読者を想定して書きます。例えば、科学的な内容を小学生向けに書くとすれば、作者は読者がもっているはずの知識や語彙などを考慮して、表現に工夫を凝らすはずです。それでは、俳句を作る場合はどうでしょうか。そこまで厳密に、読者を想定してはいないように思われます。ただ、読者が日本人なら、俳句は五七五で、季語が必要くらいは習っていますので、そこを基準にすることはできるかもしれません。

俳句によっては、季語を不要とする立場もありますが、有季の俳句では、季語が一句のなかで果たす役割は他と比べて格段に大きいといえます。作者は、読者が季語を知っているという条件で俳句を作っているのです。ですから読者の方も、新しい季語と出逢う度、その季語についてしっかり勉強する心構えが必要ではないでしょうか。しかし、初心のうちは、どれが季語でどれが季語でないかよく分かりません。したがって、ただ季語が季節を表すことばという位の認識で一句に立ち向かうと、たちまち途方に暮れてしまうのです。

季語がさほど重要でないならば、季語を集めた辞書ともいえる歳時記は、不要ということになるでしょう。歳時記には、その季語に纏わる歴史や先人達の作例などが記載されています。古くからある季語となると、多くのスペースを割いて書かれており、読みこなすのも容易ではありません。私の学習会では、「名句に学ぶ作句のヒント」と称して、名句の解釈やそこから得られる作句上のヒントを掴むようにしていますが、解釈する際にまず季語の本意・本情を探るようにしています。俳句の前提が季語だと分かると、季語に対する向き合い方が、少し変わってくるのではないかと思います。

三百七十六、不即不離

二句一章の二つの句文の内、例えば上五を単独で構成しうるのは、季語位しかないと漠然と思っていたので、芭蕉の次のような句に対して、当初少しばかり違和感を抱いていました。というより、一つの句文を満たす要件は何かという疑問がずっと解けずにいたのです。例えば、以下のような例句です。
古池や蛙飛び込む水の音          松尾 芭蕉
荒海や佐渡に横たふ天の河         〃
閑さや岩にしみ入る蝉の声         〃
清滝や波に散り込む青松葉         〃
曙や白魚白きこと一寸           〃

今はそうでもありませんが、最初のうちは、何かとってつけたような違和感を覚えたものです。これを、次のような作品と比べてみると、多少は云わんとするところを理解して貰えるのではないでしょうか。
夏草や兵どもが夢の跡           〃
秋風や藪も畠も不破の関          〃
冬の日や馬上に氷る影法師         〃
名月や池をめぐりて夜もすがら       〃
行く春や鳥啼き魚の目は泪         〃

今にして思えば、この違和感の正体は、それぞれの句文の重量だったように思われます。というのは、季語にはそれにまつわる歴史や培われた情趣というものがあるのに対し、荒海や閑さには、他の句文と釣り合うだけの重さがが感じられなかったからです。
しかし、ある時、気づいたのです。私の荒海や閑さと芭蕉さんのそれとの間には、かなりの乖離があるのではないかと・・・。これは、現代人の傾向のように思われます。私たちは、往時に比べ自然から遥かに遠い暮らしをしているからです。例えば、真の閑さといったものを、私たちは簡単には体感できないのではないでしょうか。

句文の意味の総体を仮に重量と呼ぶなら、両者の重量が拮抗することで、二つの句文は互いに響きあうのではないかと思われます。時に干渉し、時に反発し、無限の運動を繰り返すといったらいいでしょうか。そのダイナミズムこそが、作品の生命だと思うのです。細見さんの作品に
寒卵二つ置きたり相寄らず         細見 綾子
があります。この二つの卵の間には、万有引力が働いています。相寄らずとは、相寄るべき力があるのに、相寄らずということでしょう。その措辞が不思議な緊張感を生み出し、静止しているのに、動こうとしているような感じさえ与えています。
二つの句文は、ちょうどこの寒卵のように、一つのときとは別な世界を創りだしています。それを先人たちは、不即不離、即かず離れずと称したのではないでしょうか。

三百七十七、自然の実感

俳句という短いことばで何かを伝えることができるのは、端的にいえば、ことばがその持てる力を十全に働かせているからだといえましょう。そのためには、作者と読者双方に、ことばに対する豊かな感受性がなければなりません。そして、その感受性を育む方法は、俳句を作り続けること、そして自然に親しむことだと思うのです。

 作句を通して、私たちは日本語を学んでいるともいえましょう。語彙の選択や配置には、ことばの持つイメージ喚起力や音楽性など様々な要素がからんできます。実作を通してそれを体得していくのです。それでも、何万とある季語の全てに精通することは、恐らく不可能でしょう。それはまさに、尽きることのない俳の森です。
山本健吉さんのように、評論に徹した人も稀にはありますが、読者が作者でもあることは、とても合理的だと思います。何故なら、俳句の鑑賞には、ことばについての深い造詣が必要だからです。勿論、それがなければ俳句が理解できないなどというつもりはありません。ただ、俳句に限らず、誰かのいったことばをほんとうに理解するには、受け手の側にそれだけの準備が必要なのは、いうまでもないことでしょう。作句を通してその準備ができるのです。
自然に親しむというのは、体のなかにそのものの感触を溜め込んでいくことです。毎日の暮らしのなかで、様々なものが手に馴染んでいくように、五感で感知したものが、記憶の滓のように体のなかに蓄積されていきます。手が覚えている、耳が覚えている、目が、鼻が覚えているというふうになったらしめたものです。
グランマ・モーゼスというアメリカの画家は、七十五歳になってからリウマチのリハビリのために絵を描き出したといわれています。家のなかにいても、体が覚えているものを紡ぎ出すように描くことができたそうです。絵に限らず、似たような話は実はたくさんあって、漁師さんだった人が、急に魚の彫刻を彫り始めたり、私自身もそれまでのバードウォッチングの経験から、鳥に纏わる50篇ほどの童話を短期間に書き上げたこともありました。

自然を良く見、味わい、感じることです。触れてみることです。嗅いで、噛んでみることです。そうしている内に、ある種の実感が体のなかに宿ってきます。そうすれば、実感に頼って作句することができます。それは、単なることばの連想ではありません。実感を持つことで、私たちの選句が確固たるものになるのです。
以心伝心、拈華微笑というのは、座の人々がこの実感を共有しているか否かにかかっています。自然をよく見ていると、いままで見えなかったのに、急に見えてくるものがあります。その喜びが、私たちをまた自然へと向かわせてくれるのです。

三百七十八、場面を詠う(句文をつなぐ場のちから❶)

今回より、三回に分けて、場面を詠うと題して、俳句の句形のなかで、場のちからがどのように働いているのかを見ていきたいと思います。
私は、作句のうえで重要なことは、場面を詠うことだと考えています。生活のふとした瞬間に、おやっと思ったり、きれいだと立ち止まったりすることが誰にもあるでしょう。それらがすべて俳句の種になります。何故なら、作句動機は、間違いなく作者の感動だからです。感動といって大袈裟ならば、ときめきといってもいいでしょう。
「場面を詠う」(1/3)は、まずいちばん分かりやすい三句一章から始めましょう。

❶三句一章(三段切れ)
普通、三段切れは良くないと言われますが、読者が想像しやすいように、作者がしっかりと場面を表現できれば、全く問題ありません。随分昔でうろ覚えですが、テレビのスーパーマンの出だしに、こんな場面があったのを覚えているでしょうか。
鳥だ。ロケットよ。あっ、スーパーマン。
これは、俳句ではありませんが、三つの文で一つの場面を作っています。因みに章というのは、ひとまとまりに完結している詩文のことで、一つの俳句のことだと考えてください。三句一章は、三つの句文で、一つの俳句になっているという程の意味です。

三句一章の例句を、いくつかあげてみましょう。それぞれどんな場面か想像してみましょう。
初蝶来。何色と問ふ。黄と答ふ       高浜 虚子
かまきりを「持ってて」。「いいよ」。持っている。柳本々々
目には青葉。山ほととぎす。初鰹。     山口 素堂

一句目は、春の野の光景でしょうか。何人かで散策しているのでしょう。あっ、初蝶だと思った瞬間、飛び去ってしまったのでしょう。そこですかさず、誰かが何色と問うた。すると他の誰かが間髪を入れず黄と答えた。とまあ、こんな場面ではないかと思います。初蝶ということばが、この句全体に緊張感あるいは躍動感を与えています。やはり吟行でしょうか。読後には、黄色い蝶が、残像のように読者のこころにもしっかりと刻まれます。
二句目は、小学生の男の子どうしの会話のようです。かまきりを持ったことがないと分からないかもしれませんが、持ったことのある人なら、その時の感触が甦ってくるはずです。触覚を感じさせるというは、なかなか凄いことだと思います。三句目は、これから初鰹を食する場面を想像すれば、すっと腑に落ちてきます。
このように場面を想定すると、三段切れは、臨場感を出すのに格好の句形だということが分かると思います。場のちからが、三つの句文を束ねているのです。


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