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【詩の森】565 僕の正体

僕の正体
 
向坂寛さんの『和の構造』によれば
英語なら「I」一つで済む人称代名詞が
日本語にはいくつもあるという
「私」は時と場によって、
「おれ」となり、「わたくし」となり、
「僕」となり、「われ」となり、「手前」となる。
そして「われ」と「手前」は
なんと二人称代名詞の代わりもするという
つまりその場の対人関係の中で「私」が
カメレオンのように変化するというのだ
 
だから僕らは
空気を読むことに長けているのだろうか
「僕」は元々「しもべ」のことであり
それが明治になって書生言葉として
定着したといわれている
「しもべ」に対する語は
「長(おさ)」であろう
それはまさに時と場によって
家長や村長や社長だったりするのだろう
僕らは終に「しもべ」のままなのだろうか
 
英語の「I」が大統領の前でも
「I」で押し通すのとは大違いだ
そこには日本の鍵概念ともいうべき
「和の思想」が厳然と横たわっていると
向坂さんはいう
日本的「和」は己れを純粋にし、
与えられた「秩序」の中に、直接的、融和的に
融合するのをよしとする発想である。
はたして僕らは集団依存的・従属的個の状態から
抜け出すことができるだろうか
 
憲法では個人の尊重を謳いながら
この国はそれを子どもたちに一切教えようとしない
その証左が小学校一年生の道徳教科書のなかの
「みんなでかんがえる」
という言葉ではないだろうか
考えることは本来全く私的な作業である
普通ならみんなで考えることなど
とうてい不可能だと誰しも思うだろう
だからここでいう「みんなで」とは
集団のなかの一員としてという意味なのだ
 
向坂さんはこうもいっている
この「集団」は、己れを主張し、角ばる時、
村八分の制裁が下るが、
己れを空しうして仕える時には、
己れの前にある集団は、
甘美な乳を与える母親である―――と
これに対し民主制に最大の価値をおく
スウェーデンの子どもたちは
学校教育全般を通して民主主義の考え方を体得し
実践していくといわれている
 
何と対照的な教育の在り方だろう
この国は未だに民主制より
集団の和に価値を置いているのだ
その証拠に結党時から党是として
憲法改正を掲げる自民党は
2012年の憲法改正草案で
現憲法の法文から全ての「個人」を消し去り
ただの「人」に変えているのだ
はたしてこの国は
民主国家と呼べるのだろうか
 
2023.11.9
 

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