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俳の森-俳論風エッセイ第47週

三百二十三、詩空間『いまここ』

わたしたちのいまここは、常に過ぎ去っていくいまここであり、新たにやってくるいまここです。どんなに美しい夕焼けも、いつしか色を失くしていきます。わたしたちの心に深く刻まれるそのような美しい時間を永遠に止めようとする試み、それが俳句なのかもしれません。
それは、万物の輝きを慈しむようにして作られ、わたしたちの感動の粒立ちを、それがたったいま起こったできごとのように伝えてくれます。
感動体験、作句、読者の鑑賞の時点は、それぞれ異なりますが、詩空間『いまここ』は、常にいまここであり続けます。ですからわたしたちは、過去の俳人たちの句を、まるたったいまの出来事のように追体験できるのです。それは、詩空間のなかで、作者の傍らにそっと寄り添うことであり、共感者として作者の思いを追体験することでもありましょう。

前回、細見綾子氏の作品を取り上げ、季語が作品を理解するためのヒントになっているということを述べました。
チユーリツプ喜びだけを持つてゐる     細見 綾子
この句を知った後では、多くの人がチューリップといえば喜びを連想するようになるかもしれません。様々な色のチューリップが眼前に踊り出たかのような臨場感・・・。この臨場感によってもたらされた場こそ、まさに詩空間『いまここ』なのではないでしょうか。

掲句によって、わたしたちの記憶のなかのチューリップが呼び覚まされ、綾子氏の感動を追体験しているのです。これが、感動のない次のような文章であったら、臨場感は生まれてこないのではないでしょうか。
チューリップ新潟県の県花です
このように考えると、作者の感動は、その詩空間を介して、読者に伝播していくものだといえるでしょう。作者が見たものが仮に赤いチューリップだったとしても、読者は黄色いチューリップを思い浮かべるかもしれません。それでも、作者が言い当てた〈喜びだけを持ってゐる〉というメッセージは、変ることはないのです。

綾子氏の方法が、そのものの本質にズバリと迫ることで臨場感を醸成するやり方だとすると、場面を客観的に描写することで、読者の眼前に詩空間を描いてみせるやり方もあります。それが、客観写生と呼ばれている方法です。
加舎白雄は、蕪村とほぼ同時代の作家ですが、次のような句を残しています。当時はもちろん客観写生というとことばはなかったでしょうが・・・。
二またになりて霞める野川哉        加舎 白雄
はるかぜに吹かるる鴇の照羽かな      〃
杉苗に杉菜生えそふあら野かな       〃

三百二十四、補完関係

チユーリツプ喜びだけを持つてゐる     細見 綾子
前回掲句を取り上げた際に、感動のない文章例として、
チューリップ新潟県の県花です
を取り上げました。そのとき、この文章で補完関係が成立するのかどうかが、とても気になりました。

綾子氏の句に句点を打つと、
チユーリツプ。喜びだけを持つてゐる。
となりますが、特に違和感を覚えることはありません。
チューリップ。新潟県の県花です。
はどうでしょう。どことなく、居心地が悪くはありませんか。ですから、この文章は、
チューリップは新潟県の県花です。
とまで、しっかり言わないと落ちつかないのです。
この理由は何なのでしょうか。今回は、この違いを考察することで、切れとは何か、補完とは何かについて考えてみたいと思います。

両者は、中七、下五の文言が違うだけです。〈喜びだけを持つてゐる〉と〈新潟県の県花です〉に根本的な相違があるとすれは、それは何なのでしょうか。
前者がチューリップそのものについての作者の発見(感動)であるのに対し、後者にあるのは、感動ではなくチューリップの一属性の説明ということになりましょう。やはり感動の有無が、違和感のもとではないでしょうか。

句点の箇所に感動のことばを添えてみますと、
チューリップ(だなあ。)喜びだけを持つてゐる(なあ。)
などとなりましょう。つまり、句点には、作者の感動が籠っているのです。句点を感動と考えると、次の句に、
チューリップ(だなあ。)新潟県の県花です(だなあ。)
と〈だなあ〉を補ってみても、もともとチューリップに感動しているわけではないので、〈だなあ〉は浮いてしまいます。これが、違和感の原因といえましょう。
逆に、〈新潟県の県花です〉を感動の句文にできれば、違和感は軽減されるのではないでしょうか。試みに、〈です〉を〈なり〉に変えてみると、違和感は幾分和らぐように思うのですが、如何でしょうか。
切字を使っただけで、俳句らしくなるのは、切字によって見かけ上感動の句文が作られるためと思われます。
チューリップ新潟県の県花なり

このように、句点は感動の謂いであり、補完関係にある二つの句文は、何れも作者の感動の表現といえましょう。決して、動詞〈は〉が省略されている訳ではないのです。
石山の石より白し秋の風          松尾 芭蕉
神田川祭の中を流れけり         久保田万太郎

三百二十五、詩空間『いまここ』を満たすもの

作者の提示する詩空間を読者が自分なりにイメージすることで、作者の感動が読者に伝わっていきます。ですから、詩空間を満たしているのは、作者の感動そのものといえましょう。もっと具体的にいえば、作者は季語のもつ情趣を発見し、その発見に至ったプロセスを詳らかに提示しているのです。

正岡子規に赤蜻蛉の句があります。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり        正岡 子規
近景の赤蜻蛉と遠景の筑波山、その広大な秋の景色の中に、わたしたちはすっと入っていくことができるでしょう。子規の眼には、おそらく他のものもたくさん見えていたことでしょう。晩秋であれば、みはるかす刈田の広がり、悠然と流れる川面、おそらく爽やかに風も吹いていたことでしょう。しかし、それらは一切、句の面に出ることはありません。作者の選択が働いているからです。

子規を感動させたもの、子規が句にして伝えたかったものは、安堵感といったものだったのかもしれません。子規はそれを、赤蜻蛉と筑波と雲のない空とで描きだしてみせたのです。
作者は眼前の景を淡々と述べているように思われますが、作者はこの景のなかで、赤蜻蛉のもつ情趣を堪能し、それを描き出すのに必要な景物だけを選びとっているのです。〈雲もなかりけり〉という措辞には、子規がこの景を肯い、心底満足している様子がよく表れています。これらの景物と作者とがまさに等身大の詩空間を生み出しているのだといえましょう。

いっぽう、次の句はどうでしょうか。
冬菊のまとふはおのがひかりのみ      水原秋櫻子
ここには、赤蜻蛉の句のような広大な空間はありません。ただ、冬菊とそれを見ている作者がいるだけです。作者はなぜ冬菊だけを詠んだのでしょう。
その理由は一切語られてはいませんが、このような景であっても、わたしたちは、作者と冬菊、おそらく一本の冬菊とによって構成される、濃密な詩空間を想像することができます。
冬菊はおのれの花の色を光のようにまとっています。それを食い入るように見つめる作者。作者と冬菊との対峙が、緊張感を生んでいます。少なくとも作者は、冬菊をどこか崇高なるものとして見ています。
冬菊だからこそ、読者もまたそれに共感することができるのでしょう。冬菊だけを詠んだ、あるいはそれだけしか詠めなかった作者の心情を、わたしたちは汲み取ることができるのです。そして、冬菊はひょっとしたら作者自身かもしれない、そんな空想に捉われてしまうのです。

三百二十六、俳句の鑑賞

詩空間が作者の季語発見の感動で満たされているならば、それを読み解くわたしたちも、季語のもつ情趣に精通する必要があるでしょう。選句が読者によって大きくばらつくのは、主に季語の精通度合によるものと思われます。
鶏頭を三尺離れもの思ふ          細見 綾子
という句は、どのように読まれているのでしょうか。その主なものを引用してみたいと思います。

●この一句の核心「三尺離れ」とはどういうことなのであろうか。(中略)白壁の土蔵を背に屹立する燃えるような鶏冠の赤、秋色に包まれて、鶏頭と自分はいま共にあるという明らかさ、その空間の均衡が、距離が、絶対的なものとして三尺だったのである。(後略)(『俳句の謎』學燈社刊、中山純子氏による鑑賞より)
●三尺は九十センチ強。近いような遠いような距離だ。すみずみまでよく見えるが、手を伸ばしても届かない。触れる気はないのだ。鶏頭の燃えるような色と独特の量感を意識しながら、もの思いにふける。(後略)季語=鶏頭(秋)(『綾子の一句』岩田由美著、ふらんす堂刊)

ところで、わたしたちはどのようにして、季語に精通していくのでしょうか。題詠で知らない季語がでると、まず歳時記でその意味を調べます。例句にあたることで、季語のもつある種の感じ、つまり情趣をつかむことができます。しかし、その知識だけで作句したものは、やはり見様見真似で終わってしまうでしょう。
また、この課題から記憶を呼び起こしたりもします。季語を知らなかったために名づけようのなかった過去の体験を、見つけ出してくるのです。その記憶を追体験することで、一句を手にすることもできます。
このように、作句することは、季語を知ることにつながっているといえましょう。俳句を詠むことは、それまで無自覚であった季語体験を自覚的なものに置き換えてくれます。季語に代表される季節の情趣が、自分の句や自分が好ましいと思う他人の句によって、まるで衣装をまとうように彩られていくのです。

季語という側面から見てみると、わたしたちの季語感を育てているものが、作句だともいえましょう。わたしたちの選句も年を経ることによって、変っていくのではないでしょうか。わたしたちは、その時点でもっている自分の季語感によって、俳句を鑑賞するしかないからです。
わたしたちがどのような自然環境で育ち、何を見、何に触れてきたかは、この季語感に大きく影響するでしょう。俳句は、無自覚だった季語体験を意識化する行為といえます。季語に代表される美しい自然の景物は、わたしたちのこころを豊かに彩ってくれるものなのです。

三百二十七、親しき桔梗、さびしき木槿

片山由美子氏の『俳句を読むということ』という評論集(角川書店)のなかに、次のような一節があります。
もう一つ、〈晶子より登美子親しき/桔梗かな〉。この切れによる飛躍も俳句ならではのものです。「親しき」は、体言を求めているかたちでありながら切れる、というこの絶妙な「切れ」の構造。これを理解すると、俳句は俄然面白くなります。

片山氏は、親しきと桔梗の間には切れがあると考えているわけですが、雲の峰ではそのようには捉えません。
晶子より登美子親しき桔梗かな。      片山由美子
句点をうつと一か所ですから、一句一章の句ということになります。しかし、氏の指摘している通り、親しきと桔梗の間には、明らかに意味上の飛躍があるように見受けられます。それが切れなのか、今回は、もう少し検討したいと思います。

江戸時代の俳人、加舎白雄に、次の句があります。
めくら子の端居さびしき木槿哉       加舎 白雄
この句も前句と似たような構造です。さびしきと木槿の間に大きな飛躍があるのも同じです。わたしたちが、これらの句をともに一句として肯うことができるのは、何故なのでしょうか。わたしは、そんな飛躍的接続が許される理由は、むしろ季語そのものにあると考えています。

もしこれらの句を、俳句を知らない人に見せたら、怪訝な顔をされるのでしょう。何故なら、彼らは、桔梗は桔梗の花として、木槿は木槿の花として認識するため、桔梗や木槿への接続がどうしても理解できないからです。
しかし、俳人は、桔梗も木槿も季語として認識します。そして、季語とは、自然の景物であると同時に、先人たちが培ってきた文学上の情趣を含んだことばなのです。
季語の桔梗は、桔梗であると同時に桔梗という花のもつ、清廉で凛とした情趣まで含むことになります。作者は与謝野晶子よりも桔梗の花のような山川登美子に親しさを感じているのです。桔梗の花から、登美子を思い浮かべたといってもいいでしょう。

いっぽう、木槿は一日花。『白雄の秀句』矢島渚男著(講談社学術文庫)より、氏の解釈を引用すれば、
この句の中では「さびしき」という主情語が全体をまとめる大きな働きをしている。「さびしきは、「めくら子の端居」にかかっているが、木槿の花のさびしさでもあり、同時に対象に深く滲み入っている作者のさびしさでもある。

 季語の情趣が飛躍的接続を可能にし、その飛躍のなかにこそ作者の思いが詰まっているといえるでしょう。

三百二十八、季語との距離感

出来上がったときに自信作だと思えた作品が、時間が経つにつれて色あせてしまうことはないでしょうか。あるいは、何度も読み返していくうちに、急に平凡に思えたりすることも。このような選句のばらつきは何故生じるのでしょうか。今回は、その理由を考えてみたいと思います。

まず自作についていえば、時間が経つことで何が変るのかを考えてみる必要がありそうです。例えば、次のような句を作ったとします。
新緑や森の空気も生れ立て         金子つとむ
実際、新緑の森にいて、その空気に包まれているときには、「生れ立て」はまさに実感そのものでした。わたしは現実に季語のなかにいたのです。しかし、時間が経つにつれて、その感触がしだいに色あせ、季語の実感が少しずつ自分から離れていきます。
やがて一月もすると、「生れ立て」ということばが、少し大仰で理屈のように思えてきます。この句はできた時から変りませんので、その評価が変るということはわたし自身が変ったということに他なりません。そして、どう変わったのかといえば、作句時の季語の感触が薄れ、テンションが変ってしまったということではないかと思うのです。
一月たってから自作を読み直すということは、読者の視点(又はテンション)で読み直すことでもあります。何故なら、作句時点を忘れている(知らない)のは読者も同じだからです。俳句で共感を得るには、読者の視点(テンション)を予め想定して詠むことが必要でしょう。
一句には、ことばの力によって読者のテンションを上げ、新緑の森に連れ出すことが求められているのです。優れた俳句はみな、その句のなかで詠まれた景物を読者の眼前にまざまざと想起させる力をもっています。
摩天楼より新緑がパセリほど        鷹羽 狩行

わたしは、選句のぶれは、季語と自分との距離感によって生じるのではないかと考えています。作句時と一月後とでその距離感が異なれば、選句にぶれが生じます。ですから、選句のぶれをなくすには、常に季語と一定の距離感を保つ必要があると思うのです。
例えば、摩天楼の句を読むときは、自分が今どんな季節にいても、まず季語を思い浮かべ、季語の情趣のなかに身を置くようにつとめます。新緑という季語は、視覚的に鮮烈な印象をもっています。掲句では、たとえパセリほどの大きさであっても、摩天楼の上から遠く望むものであっても、その緑の鮮やかさが際立っているため、新緑という季語が生きてくるのです。
翻って自作を点検してみると、生れ立てという感覚は、若葉の森で深呼吸したときのものだと気づきました。
深々と吸うて若葉の小径ゆく        金子つとむ

三百二十九、三つの美

長く俳句をしていると、自分の選句に好みがあることに気づいてきます。例えば、句の内容でいうと、自然を詠ったものが好きとか、人を詠ったものが好きだとか、素朴がいいとか、華やかなのがいいといった具合です。
しかし、これらは俳句に限ったことではなく、単なる個人的な好みということなのかもしれません。句の内容如何で、個人の好みが選句に反映されるとすると、それとは別に、人々の選句の基準となるような、いわば俳句に求められる句の姿といったものはあるのでしょうか。
俳句では、よく句柄ということをいいますが、それは句の品格のことです。品格というとやや抽象的ですが、端的にいえば俳句としてのことばの使われ方ではないかと思われます。

句会の合評では、次のようなことばをよく耳にします。
・上五以外の字余りはどうも・・・
・AもBも季語ですね
・動詞が多すぎるんじゃないですか
・ちょっとくどいように思います

当然批評する方の背後には、その方の俳句観が横たわっている訳ですが、わたしたちが無意識に俳句に求めているものとは、いったい何なのでしょうか。

先程の合評のことばを裏返しにしてみると、わたしは、次の三つに集約されるのではないかと思います。
・作者の言いたいことが、はっきりと表現されているか
・形や調べが美しいか
・ことば使いに無駄や過剰がなく、洗練されているか

これらは、それぞれ、断定美、形式美、機能美というふうに言い換えることができましょう。俳句評論家の山本健吉氏は、『純粋俳句』(創元社)の中で、「切字に余韻、余情の用を見るよりも、そこに断定する精神の美しさを見るべきでしょう。」と述べています。
これらの三つの美は優れた俳句に具備されているもので、わたしたちは意識するしないにかかわらず、この三つの美を求めて作句しているのではないでしょうか。

作句や推敲の時にこの三つの美を意識することは、意識しないよりもとても有益だとわたしは考えています。特に、機能美は推敲を通して得られることが多いように思うからです。先ごろ作った句に、
暁の巣をはなれゆく親燕          金子つとむ
があります。我が家の玄関で営巣中の燕を詠んだものです。早朝四時過ぎには、巣をでていきます。ただ、推敲過程で、巣と親との関係が気になりました。最終的には次のように推敲したのですが、如何でしょうか。
暁の巣をはなれゆく夏燕          〃


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