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俳の森-俳論風エッセイ第20週

百三十四、感動と表現

一口に感動といっても、人によって何に感動するかは、様々でしょう。同じ場所に吟行しても、詠むものが違ってくるというのがそのことを如実に表しています。それに加えて、自分自身でさえ、詠んでみるまでは何に感動していたのか、正確には分からないということも多いのではないでしょうか。

それを感動の核心というならば、わたしたちは、俳句を通じて感動の核心をつかむ訓練をしているともいえましょう。自分が何に感動していたかを知ることは、俳句を構成する際にも必要ですし、なによりも自分自身を知ることにつながります。

ところで、わたしたちが、俳書や句会、助言などを通して学ぶことができるのは、殆ど表現技術が中心です。感動自体は、個々人のものですので、教えることはできないといってもいいでしょう。

つまり、感動を捉まえる訓練は、自分自身で行なうしかないことになります。
最初に抱いたあの感じに近づくために推敲を繰り返し、それが出来上がったと思えたとき、あの感じの正体が何だったか本人にも分かるという次第です。
それは、見方によっては、とても刺戟的なプロセスといえましょう。岡田万壽美さんの句にこんな句があります。
そのうちに何かにはなる毛糸編む     岡田万壽美
俳句もおなじで、編み棒を動かすように句を推敲していくうちに、形を整えてくるものではないかと思われます。

作者のなかに強い感動があればあるほど、そこに向かって、ことばを選んでいくことができるでしょう。それが希薄だと、作句作業は、迷いの坩堝にはまり込んでしまいます。もともと感動がなかったなら、潔く捨てるというのも一つの方法かもしれません。

さて、句を推敲する過程では、いろいろと寄り道や廻り道をしがちですが、次の句でも大いに廻り道をしてしまいました。もともと恋猫と眼があって、その眼がいつまでも脳裏に焼きついてしまったことが発端だったのですが、それに気付くまで恋猫の声に纏わる句を延々と作りつづけたのです。
それでこの句は一度放棄したのでした。暫くして、自分が感動していたのは、あの眼だったと気付いたのです。
なんのことはない、出合った瞬間に焦点をあてただけです。まさに、恋猫の声に撹乱されてしまった反省の一句です。
恋猫とふと眼が合うてしまひけり     金子つとむ


百三十五、季語の空気感

季語のなかには、例えば「暖か」や「爽やか」などのように自然現象としての意味と、心理的な意味の双方をもつものがあります。いくつか例句を上げてみましょう。

暖かにかへしくれたる言葉かな      星野 立子
あたたかや万年筆の太き字も       片山由美子
オリオンも三人家族あたたかし      鈴木 渥志
夕方の顔が爽やか吉野の子        波多野爽波
爽やかに祈りの十指解かれたり      松浦 敬親

これらの句はいずれも、自然現象としてより心理的な意味のほうにウェイトがあるように思われます。
これらの句は、季語というものを考えるうえで、とても参考になります。何故なら、「暖か」と「爽やか」を季語として読む場合とそうでない場合とでは、句の背景が変わってくるからです。

仮に季語とは知らないで読んだとすれば、掲句の季節はいつでもよいことになります。しかし、そのように季節を特定せずに読むと、どの季節を想定してもよい代わりに、どことなく居心地の悪さを感じないでしょうか。
その理由は、作者を取り巻く空気感が定まらないせいではないかと思われます。

逆に、季節が特定されると、暖かなことばを返してもらった作者は、暖かな春の陽気に包まれていることが明白になります。
同様に、今しがた終った祈りは、爽やかな秋の陽気のなかで行なわれていたことがはっきりしてくるのです。
そうすると読者は安心して、作者のいる詩の世界へ入っていくことができるのではないでしょうか。

季語を働かせることで、読者は初めて作者のいる場所の空気感を共有することができるのではないでしょうか。それが、句の現実感、作者の存在感へと繋がっていくのではないかと思われます。
句の詩空間のなかで、作者は呼吸をしているのです。そこへ、読者も生身のまま入っていくことで、共感をともにするのではないでしょうか。

季語は作者と読者を繋ぐキーワードです。
暖かというだけで、読者は暖かな空気感に包まれてしまいます。同じように爽やかというだけで、爽やかさを感じてしまうのです。季語は、読者にとっても実感に繋がっているからです。
そこで作者が何かをいえば、「うんそうだ、その通りだ」と賛同することになるのです。


百三十六、共感の母胎

誰しもいい句に巡り合ったとき、自分もこんな風に言いたかったと思ったことがあるのではないでしょうか。様々な景物を眼にして、わたしたちのこころは少し動いたり、ときには激しく感動したりします。それらは、自分で表現しない限り、自分のなかでは「あの感じ」のままで止まっています。
わたしたちは経験を通して、無数の「あの感じ」を抱き、貯えているといってもいいでしょう。
一つの俳句に出会うということは、自分が抱いていた「あの感じ」を自分の代わりに表現してくれた句に出会うことだともいえるのです。

山崎正和氏は、藝術・変身・遊戯(中央公論社)のなかで、芸術的な表現について次のように述べています。
コリングウッドによれば、感情とは刻々の感覚的刺戟にともなう一種の倍音のようなものである。だとすれば、刺戟そのものについてできることが感情についてできないはずはないのであって、私たちは感情それ自体をひとつのかたちにまとめることができるはずである。(中略)
すなわち、人間が自分を満たしている感情に能動的に立ち向い、それがどのような感情であるかを、かたちにして把握する方法を考えたのである。そして、その方法こそ芸術的な「表現」と呼ばれるものであることは、もはや念を押すまでもないであろう。(太字部分筆者)

つまり、芸術的な表現としての俳句は、「あの感じ」に明確な輪郭を与え、十七音のことばとして定着させたものだといえるでしょう。
「あの感じ」とは、わたしたちのいのちが季節と出会ったこころのときめきです。それを表現するために俳句はあるといっても過言ではないでしょう。
書道では、短時間の間に一気呵成に文字を仕上げていきます。俳句も、こころのときめきを捉まえるために、一気呵成にことばを紡ぎだすのです。

どんなに感動しても、表現してみなければ、その正体を掴むことはできません。俳句は、作者の感情にかたちを与え、いまだ発見されていなかったものを発見することなのではないでしょうか。
そして一旦俳句として表現されるとこんどは作者の手を離れて、共感の母胎をもつ読者を、同じ発見に導いていくのです。共感とは、「あの感じ」を共有する作者と読者が、俳句を介してその正体をともに発見し、確かめ合う営みだったのです。

あたかかや衆生へ傾ぐ観世音       金子つとむ
堂鳩の胸虹いろに春日さす        〃


百三十七、詩的空間の構成要素

わたしが俳句は詩的空間だという最大の理由は、そこに作者がいるからです。百十五話で、詩的空間についてお話しましたが、詩的空間の構成要素という観点から、さらに細かく例句にあたって考えてみたいと思います。
まず、詩的空間の構成要素として、わたしは次の四つを考えています。
① 作者の存在(立ち位置)
② 対象の存在(作者との距離感)
③ 季語のもつ空気感
④ 作者の感動(心理的色彩)

とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
作者は当事者としてこの句のなかにいます。ゆっくりと歩きながら、蜻蛉の群れに近づいてきます。作者がずっとみているのは蜻蛉であり、同時に、蜻蛉が掲句の秋の空気感を決定づけているといっていいでしょう。作者の歩みが、空間の大きさを形作っていくようです。
そして、「とどまれば~ふゆる」と捉えた作者の一語によって、この空間は、作者の心理的色彩に彩られることになります。読者もまたこの空間に入り、汀女と感動を分かち合うことができるのです。


芋の露連山影を正しうす         飯田 蛇笏
作者は、芋の露を間近に見ています。そして、遠くへ眼をやると、連山を望むことができるのです。作者にとっての対象は、芋の露と連山ということになりましょう。
芋の露が、山国の秋の空気感を決定づけています。「正しうす」に作者の感動がこもり、いっそう張り詰めた空気に、身が引き締まるようです。

荒海や佐渡に横たふ天の川        松尾 芭蕉
作者は本州の海辺にいるのではないでしょうか。眼前の荒海を隔てて、遠く佐渡島の島影を望むことができます。そして、その上には天の川。対象は、荒海であり、佐渡であり、天の川です。
まるで、眩暈を覚えるほどの壮大なスケール、宇宙的な広がりです。芭蕉の存在さえも、相対的に矮小化されてしまいそうです。佐渡は、そこに繰り広げられた人間の営みの歴史をも想像させてくれます。

夏草や兵どもが夢の跡          松尾 芭蕉
「奥の細道」の高館での句ですが、上述の句と異なり、芭蕉の眼前にあるのは、夏草ばかりです。中七下五は、夏草を前にした芭蕉の感慨に過ぎません。
しかし、兵どもが夢の跡という措辞は、この地を過去へと遡らせます。芭蕉は夏草のなかに兵たちの幻影を見ているのです。夏草のある空間は現実空間でありながら、幻想空間へと変貌を遂げてしまったかのようです。


百三十八、季語に代わりうるもの

わたしは、詩情を伝えるために、俳句では作者の感動の契機となった場所(場面)を詩的空間として構築し、読者に提示することが必要だと考えています。その空間では、作者がいて対象物と向き合い、自然の空気感のなかで、作者の感動が心理的な色彩を放っています。

この空間での季語の働きは、その空間の空気感を決めることです。作者がどんなところにいるのか、作者の包まれている空気感を読者が共有することができれば、詩情の伝達は、より容易になるのではないでしょうか。
季語の有無に関わらず、一句のなかに作者が現実に存在するような空気感を表現できれば、句として通用するのではないかと思うのです。

これまでも無季俳句の試みがなされ、優れた句を生み出してきました。それらの句を手掛かりに、どんなことばが、実際に空気感を生み出しているのかを見てみましょう。

しんしんと肺碧きまで海の旅       篠原 鳳作
船の甲板で、こころゆくまで海の気を吸っているのでしょうか。「肺碧きまで」の措辞が、明るい陽光を感じさせ、夏の海の空気感を存分に表現しているようです。

見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く      日野 草城
両眼の玉を拭くのはいつものこと、あるとき不意にそのことに気付いたのではないでしょうか。眼鏡を拭くということに意識が集中しているのは、やはり寛いだ時間のように思われます。
見えぬ眼の方という表現が加齢を思わせ、それがまた、冬の縁側といった相応しい場面を紡ぎだしてきます。何れにせよ、寛いだ時間のなかの一光景とだけはいえるのではないでしょうか。

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ      林田紀音夫
遺書を書くという場面は、ある種のこころの緊張を、読者にも強いるのではないでしょうか。
遺書を書く、それも鉛筆で書くという場面そのものに、ただならぬ空気が漂っています。

投函のたびにポストに光入る       山口 優夢
作者は、ポストの傍らでポストの内部を想像しているのでしょうか。わたしには、心理的に作者はポストに住んでいるように思えてなりません。そして、そんな光景は現実の世界のなかにもあるのではないかと思うのです。
作者は何故か光の側より、闇の世界により関心があるように見受けられます。その場所が、作者のこころの居場所なのかもしれません。


百三十九、詩的空間の構成要素にみる主観俳句・客観俳句

詩的空間の構成要素を次の四要素と考えると、主観俳句と客観俳句の違いは、④の作者の感動の表出の仕方の違いということになります。
① 作者の存在(立ち位置)
② 対象の存在(作者との距離感)
③ 季語の空気感
④ 作者の感動(心理的色彩)

まず、主観俳句の作品を見てみましょう。
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男
奥木曽の水元気なり夏来る        大沢 敦子
花束のやうに白菜抱え来る        上市 良子

草田男の句では、中七下五の強い調子が一句を貫いており、作者の感動は欺かずという擬人化表現となって表出しています。また、大沢さんの水元気なりもやはり擬人化です。白菜を一つ抱えたところを花束とみたてた上市さんの作品も、とても初々しい感じがします。感動の強さが擬人化や見立てを生むといってもいいかもしれません。

一方、客観俳句を見てみますと、
葛晒す桶に宇陀野の雲動く        渡辺 政子
笹鳴や渾身に練る墨の玉         吉村 征子
海の日の与謝にはためく大漁旗      中川 晴美

何れの句にも作者の感動を直接打ち出したような強い調子のことばも、擬人化や見立ても見当たりません。しかし、そのことがかえって、読者を句の世界へと引き込んでゆくように思います。

主観俳句の句では、読者は作者の主観に同調できない限り、その句の世界に入ることはできませんが、客観句では、作者が提示した句の世界に、読者はすんなりと身を委ねることができます。
そして、作者とおなじように、宇陀野の雲に悠久の時を感じ、墨の玉に遠く工人たちの歴史を思い、大漁旗に海に生きる人々の暮しを思うのです。

主観句が半ば強引にわたしたちの認識を揺さぶるのに対し、客観句は、わたしたちを静かな感動へと誘うのです。
もとより、その優劣を論じているわけではありませんが、主観俳句では読者を納得させるだけの認識の一語が要求されるため、より難しい表現ということがいえるかもしれません。
このように比較してみると、客観俳句は、そこに構築された詩的空間そのものが、すでに感動空間なのだということもできるでしょう。作者の感動は、それを句にしたということのなかに、作品そのものの成立過程のなかにいきわたっているのです。


百四十、意識と無意識

俳句は、どこからやってくるのでしょうか。わたしには、無意識の領域からのように思われてなりません。
例えば、わたしたちは散歩すると様々なものに出会いますが、その時に限って路傍の草花や鳥や虫たちに眼を止めることがあるのは、何故なのでしょうか。
 何か目的を持って探す場合と違って、普段は、見えているもののなかから心にかなうものを無意識に選別しているのではないでしょうか。そして、その驚きや感動は、長くわたしたちの心に止まることになります。

あのときの「あの感じ」を求めて、わたしたちは作句に入ります。荒削りながらもその瞬間にことばが生まれることもあるでしょう。そうでない場合は、あのときの「あの感じ」からことばを探ることになります。
何れにせよ、表現したい衝動が先にあって、「あの感じ」を表現しえたとき、作者にとって初めてその正体が分かるのです。表現された「あの感じ」は、詩情と呼ばれます。

一句を読み終えたとき、詩情が豊かに広がってくるようであれば、その作品は成功したことになりますが、そこには大きな落とし穴があります。
それは、詩情が純粋に作品そのものから立ち上がってくるのか、それとも作品を含む作者の記憶全体から湧き上がってくるのか、作者自身には残念ながら、到底見分けがつかないからです。

雀来て大きく撓む穂草かな        金子つとむ
この句は、何を意味するのでしょうか。これまで述べてきたことと照らし合わせると、およそ以下のようなストーリーになります。
わたしは、ある時こんな光景に目を止めたのでした。そこから、何故だかわからないけれど、それを句にしたいと思いました。何か感じるものがあったからでしょう。そして、いくつもの試行錯誤を経てこの句が出来上がったとき、わたしは初めて気付いたのです。わたしがいいたかったのは、自然の巧まざる美しさだったのだと・・・。
雀の重さは、わずか二十三グラム程といわれています。草の穂に雀が乗ったからといって、折れることはありません。大きく弧を描いて撓むだけです。わたしは、その弧をとても美しいと感じたのでした。

さて、読者はこの句に何を感じるのでしょうか。
もし、わたし自身が感じたように受け止めてくれる人がいれば、それは大きな喜びとなるでしょう。被講されたときの喜びは、まさにこの喜びなのです。
俳句を通してわたしたちは、感性どうしが認めあう喜びを日々実感しているのではないでしょうか。


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