見出し画像

俳の森-俳論風エッセイ第22週

百四十八、説明しない句できない句

俳句が生まれる瞬間にどのようにことばは選択されるのでしょうか。そのプロセスはよく分かりませんが、恐らく自分のなかで感じた何かが、それに相応しいことばを瞬時に獲得するものと思われます。
推敲の場合でも、ことばに行き詰った挙句に、突然思いもかけぬことばが閃くことがあります。どうしてそのことばが生まれたのか、本当のところはよく分かりません。

そんな風に生まれて、理由は分からないがいい句のように思える場合があります。他人の句であっても、理由は分からないがどこかこころ惹かれる・・・。
そのような句は、無意識の深層から、いきなり意識の壁を突き破って生まれてきたような気がします。生まれたときの謎を含んでいる句というのは、何時までたっても面白い句のように思います。説明しようとしても、説明できない。短い俳句にはそういう側面があるように思うのです。

さて、雑誌で次の句に出合ったとき、とても不思議な気がしました。俳句らしくないなと思ったのです。しかし、一旦気になりだすと、益々その句に惹かれてしまいます。
筍が隠れてしまふ鍬が来て       鷹羽 狩行
掲句は、お伽噺の世界でしょうか。もしこの通りだとしたら、道理で筍が見つからないはずです。竹林は、笹に覆われて隠れる場所には事欠かない訳ですから・・・。
それにしても、作者は何故、掲句を作ったのでしょうか、恐らく作者自身にも判然としないのではないでしょうか。この句は、その刹那の作者の意識と無意識の「あわい」から生まれてきたのではないでしょうか。

吹きおこる秋風鶴を歩ましむ       石田 波郷
この句は、因果関係の句ではないように思われます。秋風と鶴の歩みが別々に起ったのに、作者には、秋風がそうしたのだと思われたのではないでしょうか。そういう風に作者が感じたことのなかに、波郷の心境が映されているように思うのです。
筍は鍬を見ている(あるいは知っている)、秋風が鶴を歩かせる(あるいはそうしたいと思う)といっているようにも思われます。そんなばかなというのは簡単ですが、わたしたちの無意識は、それを完全に否定し切ることはできないのではないでしょうか。

そんな「あわい」から生まれた句は、いつまでも謎として残ります。その謎は、何度も何度でもその句にわたしたちを向かわせるのではないでしょうか。ある時、わたしにもこんな句が生まれました。
とんぼうのじつと時間の外にゐる     金子つとむ
蜻蛉には、ひとの時間はないとその時確信したのです。


百四十九、俳句の虚と実

俳句が作者の立ち位置から眼に映るものを写生するとき、それは、突き詰めていえば、作者のまなざしを写し取るのだといえましょう。
同じところを吟行しても、異なる句が生まれる背景には、当たり前のことですが、このまなざしの違いがあります。厳密にいえば、ある瞬間に同じ視点をもつものは、自分以外にはいないのです。
わたしたちが何を注視するかは、わたしたちのこころが決めることです。ですから、わたしたちのまなざしが選びとったものを並べるだけでも、わたしたちの内面を表現することができます。目に映るものを実とするなら、客観表現は実のみを表現するものといえます。

一方、わたしたちの思いをことばにすれば、主観表現になります。わたしたちの思いは自分にとっては実であっても、他人からは必ずしも推し量ることはできませんので、いわば虚といえましょう。
俳句の形式を虚と実の配分で考えますと、実だけで構成されたものと、虚実入り混じるものがあるといえます。
季語は、一部に空想季語があるものの全くの空想ではなく自然現象から発想されているため、実ということができるでしょう。従って季語を一つ入れるだけで、虚だけの句はできないことになるのです。

赤とんぼ筑波に雲もなかりけり      正岡 子規
掲句は、赤とんぼ(実)、筑波に雲もなかりけり(実)となり、実+実の句といえましょう。
夏草や兵どもが夢の跡          松尾 芭蕉
この句は、夏草(実)+兵どもが夢の跡(虚)となるでしょう。「兵どもが夢の跡」が芭蕉にとってどれほど実感があろうと、他人からみれば個人的な感慨であって、虚ということになるのではないでしょうか。しかし、芭蕉の虚がすばらしいのは、多くの人の賛同が得られるからでしょう。いわば普遍性のある虚といえるのです。
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男
この句の「欺かず」も、まさに普遍性をもつ虚といえましょう。人々が気付いているのにいえなかったことを作者が代弁してくれたのです。

初心の頃に写生句を薦められるのは、人々を納得させる虚の感慨を述べることが難しいからといえましょう。しかし、だからといって、実の句が易しいという訳ではありません。数多の事物のなかから自分のまなざしで、一つの事物を探しださなくてはならないからです。
個人的な感慨から、深い認識に裏打ちされた普遍性をもつ感慨となるに至って、俳句の虚は、人々のこころに響く虚となるのではないでしょうか。


百五十、作者のまなざし

高浜虚子に、
川を見るバナナの皮は手より落ち     高浜 虚子
という句があります。青木亮人氏は、「その眼、俳人につき」(邑書林)という評論集のなかで、中村草田男が掲句を激賞したことを記しています。(バナナと「偶然」)
草田男の句評を引用すると、
 洋々と流れてをる隅田川の陰気な川面へ作者は目を投げて居る。そして食べるともなく一本のバナナを食べて居る。やがてバナナは知らない間に力の弛められた放心状態の作者の指の間を潜って足元の地の上にぱたり落ちた、――ただ、それだけの偶然な事実。(太字筆者)

バナナは夏の季語ですが、その情趣となると心もとない気がします。更にいえば、掲句はバナナそのものについてというより、バナナの皮を扱っているため、さらにその情趣は薄くなるのではないでしょうか。
そのため、掲句は逆に、既存の情趣に縛られることを逃れているともいえましょう。作者自身のことを詠んだのか、あるいは観察者として誰かを見ているのか定かではありませんが、仮に前者とすると、「川を見る」と「バナナの皮は手より落ち」との間には、時間的経過があります。
草田男が指摘しているように、作者は放心状態にあるのでしょう。何に捉われてしまったのか、読者にとっては大いなる謎です。バナナの皮が手より落ちたのに気付いたあとも、作者はまだ川を見続けています。川を見るという断定の句文は、作者が永遠に川を見ているのかと錯覚させるほど強いように思われます。
バナナの情趣が薄いだけに、掲句をその情趣に統べることは難しいように思います。主眼はむしろ「川を見る」方にあるのではないでしょうか。
方丈記の「行く川の流れは絶えずして、しかし元の水にあらず」のように、わたしたちが川を見るともなく見ているときの心境には、どこか無常ということが背後にあるように思われます。

水も雲も風も、わたしたちは変転するものに包まれて生きています。そのなかで、偶然のようにバナナの皮が滑り落ちたのです。あの湿り気のある皮の重さが、落ちたときの鈍い音を暗示させます。
そんなことにお構いなく川を見続けているのは、やはり川を見る作者を捉え続けている何かがあるからではないでしょうか。
松過のなんとはなしに橋の上       黛 まどか
橋の上に佇み、川をながめやる心境には、どこか共通点があるように思われます。
虚子の句のどこかしら場違いのようなバナナも、返って近代的だといえるのかもしれません。


百五十一、感動の焦点

すでに何度か指摘してきたことですが、一句を成すということは、自分が何に感動していたのか、再確認する作業だといえましょう。
推敲をしている段階で、一句があらぬ方向に進んでしまうことがありますが、それは、ことばに引きずられて、感動の焦点を見失ってしまった結果だといえるでしょう。かくいうわたしも、いつもそんなことの繰り返しです。

さて、今回は、実際にわたしの句の推敲過程を通して、感動の焦点を見極めることの大切さを述べてみたいと思います。
こどもが園児の頃は、花の季節になると車で二十分ほどの森林公園でよく花見をしたものです。子どもたちに人気の長い滑り台や、アスレチックなどもあって、子にせがまれてよく出掛けました。
あるとき、花吹雪のなかで、子どもが懸命に落ちてくる花びらを掴もうとしていました。黙って見ていると、背伸びするだけでは足りないらしく、飛び跳ねたりしています。やがて、他の子どもたちも加わって、宛ら子どもたちの遊びと化したのです。
けれど、花びらは予想外の動きをするらしく、簡単には捉まえることができません。そんな光景が瞼に焼ついて、暫くたってから句にしようと思い立ったのです。

はじめは、花びらを掴もうとする子の動作を描出しようと心掛けました。
散る花をつかまむと子が手を伸ばす
つかまんと花に跳ねゐる子どもかな
伸ばしたる子の手を抜ける桜かな

けれども、思った通りの景になりません。次に一つ掴んだところに焦点をあててみました。
漸くに掴みし飛花を見せに来る
飛花一つ掴みて見せにくる子かな
飛花一つ掴みて戻りくる子かな

けれども、どうやってもしっくりのこないのです。

そこで、もう一度、自分が何に感動したのか自問自答してみました。その結果、花吹雪のなかで懸命に花びらを掴もうとする子の姿だったと気付いたのです。
花吹雪一片を子が捕らんとす       金子つとむ
決定稿からは、手を伸ばす動作も、跳ねる動作も割愛しました。みな「捕らんとす」ということばに代表させてしまったのです。
それが可能なのは、掲句は読者にとっても未知の景ではなく、足りないところは、読者が勝手に補ってくれると予想がつくからです。俳句が成立するのは、読者の体験や感性に対する暗黙の信頼があるからといえましょう。


百五十二、例句をひもとく-春の入り日の美しさ

人はほんとうに感動したとき、それを表現するのは非常に難しいと感じてしまうのは何故なのでしょうか。どんなことばも自分が体験したことに比べれば、みな空々しいように感じてしまうものです。
ある時、田圃のなかで、春の入り日を落ちてしまうまで眺めていました。それを句にしようとしたのですが、なかなかうまくいきません。そこで、例句ではどのように表現されているか、先人たちの表現に当たってみることにしました。

春の日の傍題として、春の入日が載っています。そこで、春の入日に纏わる句を拾ってみました。
熟れて落つ春日や稼ぐ原稿紙       秋元不死男
とけさうな春の夕日を掌に        水野あき子
篁を染めて春の日しづみけり       日野 草城

最初はまぶしくて見つめることの適わない夕日が、次第にきらめきを鎮め、やがて真紅の色をくっきりと浮かばせるまでの経過を、秋元不死男は、さらりと「熟れて」の一言で表現しています。
水野あき子の「とけさうな」とは、まさに春の夕日ならではやさしさではないでしょうか。掌に受け止める夕日に、作者のやさしさが感じられます。
また、「篁を染めて」には、草城の春日を惜しむこころが、切々とひびいているように思われます。
今回のように、テーマをもって例句に臨んでみると、先人たちのそれぞれの捕らえ方をはっきりと見届けることができるように思います。

蒲公英の閉ぢて日の色極まりぬ      金子つとむ
わたしは、はじめ掲句を得ましたが、「極まりぬ」がいかにもこなれない表現のように感じていました。もう少し、さりげなく言えないものかとずっと思案していたのです。
そして、春の入日の例句にあたっていくうちに、わたしが言いたいのは、沈みゆく春の日と蒲公英との交感ではないかと気付いたのです。

そこで、次のように推敲しました。
春日落つ畦のたんぽぽ眠らせて      金子つとむ
眠らせては擬人化であり、句を甘くしていますが、現時点ではこれで由としました。
これは、ほんの一例ですが、例句は先人たちの美に対する感性の宝庫といっていいものです。自分の表現に行き詰ったとき、先人たちが何を感じ、どう表現しているのか、例句に当たることは、とても有益なことだと思います。
また、漫然と例句に向うよりも、何か一つテーマをもって臨むことで、新たな発見をする可能性が生れてきます。ぜひ試されてみてはいかがでしょうか。

百五十三、詩であるということ

けやき句会で、次の句が投句され、わたしも入選句として選びました。この句を選句していて少し気付いたことを述べてみたいと思います。

晩春の玻璃に夕日の来て沈む       今村 雅史
掲句は束の間のできごとを切り取っていて、叙情的な句に仕上がっていると思います。この景を見届けるように、作者が景のなかに佇んでいるといえましょう。作者はどこか物思いに沈んでいるようにも見受けられます。

それでは、早速この景を読み解いてみましょう。実はこの句は夕日をどう受けとめるかによって、意味合いが違ってくるのです。
当初わたしは、夕日を光の意味に解釈しました。夕日の光が、窓ガラスを一瞬照らしたように鑑賞したのです。そうすると「沈む」が気になりだしました。
夕日が光の謂いなら、「沈む」ではなく、むしろ「消える」と言った方が適切ではないかと考えたのです。無論、理屈のうえでのことですが・・・。

晩春の玻璃に夕日の来ては消ゆ
こうすると、夕日の光が一瞬玻璃に宿って、ふっと消えたようなあえかな感じが生れるのではないかと思ったのです。しかし、印象は鮮明になるものの、即物的な感じが際立ちすぎるように思えました。

今度は、夕日を文字通り太陽の意味に解釈してみました。すると、今度は「玻璃」が気になりだしました。玻璃はガラスの別称ですから、もし太陽の意味であるなら、寧ろ「窓」と言った方が分かりやすいのではないかと思ったのです。
晩春の窓に夕日の来て沈む
しかし、窓とするとそれは西向きの窓かなどといった邪念が湧いてきて、やはり理が勝ちすぎてしまうようなのです。玻璃といったときのあのまばゆさのようなものがでてこないように思えました。

そこで、文字通りこの夕日は、太陽でもあり光でもあるという風に考えてみたのです。
すると掲句は、掲句のままで太陽でもあり光でもあるような情景をみごとに描き出していること気付いたのです。

掲句は、俳句は詩であることを改めて認識させてくれました。詩であるということは、理屈ではないのです。背後に理屈が覗いてしまうと、句は途端に色あせてしまうように思います。
掲句の微妙なバランスは、「玻璃」の一語にあったのだと、試行錯誤の末に納得したのでした。


百五十四、ことばの緊密さと美しさ

俳句では、花といっただけで眼前に花が咲き、荒海やといっただけで、眼前に荒海が現出します。これは、ことばの基本的な機能で、イメージ喚起力と呼ぶことができます。ここでいうイメージには、映像的な意味と心象的な意味の双方が含まれています。

そこで、俳句で花が「咲く」といえば、蛇足にきこえるか、さもなければ、作者は敢えて「咲く」といったことになり、強意の意味になりましょう。
一句のなかに蛇足のことばがあると、一句の美しさは削がれてしまうのではないでしょうか。俳句の美しさは、ことばの緊密さと密接に関わっているように思われます。

一句のなかに無駄なことばがないということで、作者の力量を量ることができます。例えば、
路地の子に花海棠の咲きそろふ      金子つとむ
という句から、読者は、どんな光景を想像できるでしょうか。路地で子どもが遊んでいます。しかし、人数は明示されていません。
また、「路地の子に」は、路地の子のためにという意味となり、海棠が擬人化された表現となっています。擬人化は作者の思い入れの強さを表しています。
しかし、いちばんの問題は、「咲きそろふ」が蛇足か、強意かということでしょう。

「咲きそろふ」が強意となるためには、例年よりも大分遅れて咲いたというような情況設定が必須ではないでしょうか。掲句からそのような情況を読み取ることはできませんので、「咲きそろふ」は蛇足ということになります。
掲句の構成要素は、路地と子と海棠です。ここに、母と、人数の情報を加えたものが次の句です。
花海棠路地に母子の五六人        金子つとむ
「咲きそろふ」を割愛することで、情景がより具体的になったのではないでしょうか。

ことばの無駄使いということでいえば、例えば接頭語の「お」はそれが無くとも意味が通じる場合は、やはり不要なことばといえましょう。
また、リフレインもその効果が顕著でない場合は、やはり蛇足になってしまうのではないでしょうか。その意味で使用に際しては注意が必要です。

最後に、接頭語の「お」が雰囲気を醸し出しているケースと、効果的なリフレインが、奥行きのある景を生み出しているケースをご紹介しましょう。
まま事の飯もおさいも土筆かな      星野 立子
山又山山桜又山桜            阿波野青畝



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?