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俳の森-俳論風エッセイ第56週

三百八十六、作句の現場

月一回の句会で俳句仲間のIさんがこんな句を投句されました。
早乙女の一挙一動追ふカメラ
早乙女という季語は、老若を問わないとのことですが、Iさんが見たのは東北旅行の折に見かけた田植え祭。早乙女の中には、女子高生もいて、しばらく見惚れていたそうです。テレビカメラもでて、おそらく季節の話題として放映されるのでしょう。その一部始終をご覧になったIさんは、その中から冒頭の場面を詠まれたわけです。
おそらく、早乙女の嫋やかな所作に魅了されていたものと思われます。しかし、いざ表現してみると、一挙一動というのは、いかにもことばが硬いように思われます。また、自分事ではなく他人事として詠んでいますので、作者の感動が今一つ伝わってこないように思われます。

作者の着眼点はやはり早乙女の所作にあるようですから、それに見入る作者の動作を自分事として詠み込むとより臨場感が増すのではないでしょうか。そこで、次のように添削してみました。
ズームして撮る早乙女の手付かな
今時の家庭用ビデオカメラには、ズーム機能がついていますので、作者がビデオを撮っている様子を詠んだわけです。実際作者もその時の様子を撮っていたようですから、自分事として詠んだ方が、はるかに説得力があるように思います。

さて、俳句に限らず、写真でも動画でも、同じ場面に出くわしたとき、私たちが注目する箇所はそれぞれ異なります。吟行にいっても同じ着眼点の句というものには、めったにお目にかかることはありません。写真もそうでしょう。ですから、それぞれがおやっと思ったところを正直に切り取れば、その人独自の作品ができることになります。冒頭の場面は、例えば
早乙女や畦に報道カメラマン
という風に、ロングショットで、大づかみに切り取ることもできます。おや、何だろうと思った瞬間を切り取る訳です。また、もう少し近づいて、早乙女のなかに交る女子高生に着眼して、
早乙女の中の一人のをさな声
などとすることもできましょう。いずれにしても、作者が切り取った場面が、作者が最も感動した場面、それゆえ、表現したかった場面ということになります。
作者は、場面を描くことで、それを読者に伝え、間接的に作者の感動を読者に伝えようとしているのです。早乙女と報道カメラマンだけで伝わるものがあるのは、読者の側にも似たような経験があるからだといえましょう。それを共感の母胎といってもいいと思います。

三百八十七、一句一章、表白型

二句一章には、抽出型と触発型という二つの形があると以前にお話ししました。
抽出型というのは、文字通りある場面のなかから二つの景物(句文)を抽出することで、その場面を再現しようとする試みです。作者と同じ場面を追体験することで、読者のなかにも作者とおなじような感動がもたらされます。代表例として、次の句があります。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり        正岡 子規
一方、触発型というのは、ある景物によって触発された作者の感動、作者の内面のイメージなどを表出したものといえます。例えば
夏草や兵どもが夢の跡           松尾 芭蕉
などがこれにあたるでしょう。かいつまんでいえば、二句一章は、作者が場面の力を借りて、その感動を表現しているといえるのではないでしょうか。

これに対し、一句一章で表現されるものを何といったらいいのでしょうか。例えば水原秋桜子の句に、
冬菊のまとふはおのがひかりのみ      水原秋桜子
があります。一句一章では、作者の感動の正体は、そのものずばり端的に表現されています。作者は、己の光りだけを纏って超然と佇む冬菊の姿に感動しているのです。そこで、これを表白型と呼んでみましょう。一句一章は、作者の感動の所在が明確で、作者もそれを意識して作句しているといえましょう。

ところで、拙作ですが、あるときこんな句を作りました。
紫陽花や尾長声曳く寺の空         金子つとむ
どこかしっくりしなくて、二週間ほどそのままにしておいたのですが、やがて
紫陽花の寺に尾長の声頻り         〃
の句を得て、なんとなく落ち着いたのでした。そこで、その原因を探ってみて、はたと思い当たったわけです。前者は二句一章の抽出型ですが、私自身、境内に紫陽花が咲き乱れ、その上を尾長が啼き渡る場面に感動したわけではなかったのです。むしろ逆で、尾長の声をどこか似つかわしくないものとして感じていたのでした。
最近、尾長を見ることは少なくなりました。羽は薄い水色でとても綺麗な鳥ですが、声はご存知の通りの濁声です。地上の花園の上を飛ぶ尾長の声は、確かにちょっと興ざめですが、それがあるがままの自然でもあります。
そこで、後者では一句一章にして、尾長の声に焦点をあてています。私のいいたいことの中心は、むしろ尾長の声にあったのです。そして、そのことに気づいて推敲してみると、しっくりきたというわけなのです。一句一章は、作者のいいたいことをそのままストレートに表現する表白型と呼んで、差し支えないのではないでしょうか。

三百八十八、俳句の詠み方読まれ方

句会で選句するとき、初心の内は季語についての知識も乏しいため、季語とそれ以外の語彙を殊更意識して読むことはないでしょう。これは、一般の人が俳句に接するときの状況とほとんど同じです。

例えば、子規の次の句を読んだとき、初心者はどんな景色を想像するでしょうか。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり        正岡 子規
おそらく、近景には赤蜻蛉、遠景には筑波のみえる奥行のある景色を想像することでしょう。赤蜻蛉は赤蜻蛉で、それ以上でもそれ以下でもありません。但し、個人的に赤蜻蛉の記憶があれば、それを思い出すかもしれません。

しかし、俳句を続けていると、季語にまつわる情報がたくさん入ってきます。歳時記の情報や、好きな作家の作品や、自身の体験などもあるでしょう。人によっては、赤蜻蛉という季語から、郷愁や親しみさえ感じるかもしれません。私は、何故か夕日や刈田の匂を思ったりします。赤蜻蛉といわれただけで、そこには、自然物としての赤蜻蛉以外に、季語としての様々な情趣が加わってくるのです。これが、季語が季語として読まれることの意味だと思います。
つまり、季語の赤蜻蛉は、単なる赤蜻蛉よりももっと膨らみをもったことばとして、そこに立ち現れてくるのです。それは例えていえば、赤蜻蛉が季節の舞台を設えてくれるようなものではないでしょうか。近景の赤蜻蛉と遠景の筑波の間を、読者は埋めることができるのです。
それは、蛇行する川であったり、芒の揺れる夕景であったり、刈田や稲架のある景色かもしれません。季語を媒介として、読者は作品が描く世界に参加していくのです。読者のこの参加があることで、作者は、景のなかから、赤蜻蛉と筑波を描出するだけで、作品を仕上げることができるといってもいいでしょう。

子規が掲句で描きたかったのは、赤蜻蛉と筑波なのでしょうか。私は、そうは思いません。むしろ子規は、よく晴れて澄み切った秋の大空間そのものを、この句の中に据えたかったのだと思っています。その空間こそ、子規が感動したことだと思うからです。読者も又、子規と同じようにこの空間に入り、清澄な秋の空気に浸ることができます。そして、知らず知らずのうちに、赤蜻蛉に纏わる記憶を呼び覚ますことになるのです。

この句は、私が二句一章、抽出型と名付けているものです。作者が見た景のなかから意図的に抽出された二つの句文が、骨格のようにこの句を形作っています。そこに、肉付けするのは、他ならぬ読者だといえましょう。この作業こそが、俳句を鑑賞することだと思うのです。

三百八十九、二句一章の抽出要件

偶然に立ち会った感動の現場、作者は、その景のなかから二つの句文を抽出して読者に提示します。これが、二句一章の抽出型です。読者は、作者が提示した二つの句文から景を再現し、作者の感動を受け止めます。二句一章は、取り合わせともいわれますが、これは、もう一つの触発型をも含めた広い言い方のように思われます。

さて今回は、抽出された二つの句文の関係について、考えてみたいと思います。私が抽出と名付けたのは、あくまでも作者に感動をもたらした実際の景の中から、句文として二つを選びとるということを言いたかったからです。ですから、二つの句文は、作者の眼前にあるものの中から選び取られなければなりません。そして、その二つが、ともに同じ現場のものであることが、よく分かるように表現されなければならないのです。

実際に、例句を見ていきたいと思います。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり        正岡 子規
赤蜻蛉と筑波を子規が見ていると思えるのは、何故でしょうか。そんなことは当り前と思われるかもしれませんが、ちゃんとした理由があるのです。例えばこの句が、
赤蜻蛉女峰の高き筑波山
だとしたら、どうでしょうか。途端に怪しくなります。「女峰の高き筑波山」は現場にいなくても、知識だけで表現可能だからです。写生すると、作者がそこにいた痕跡を残すことができます。子規の作品の、「雲もない」は、まさにいまここの情景です。そこが、感動の現場であることを証明しているのです。

さて、次の句はどうでしょうか。
十薬の花際立つや藪の中          金子つとむ
一見すると、「藪の中に」の助詞「に」が省略されたようにも思われますが、この句は、二句一章として成立しています。その理由は、際立つと藪(の暗さ)が、読者のなかで自然につながるからです。もう一つ、見てみましょう。
寂寞と梅雨の家並や水溜り         〃
梅雨と水溜りは無理なく繋がりますので、二句一章としては、ぎりぎり成立するでしょう。しかし、私自身は、水溜りに家並が映っていると言いたかったので、その点は未だ不十分であり、推敲の余地がありそうです。

さて、人口に膾炙した句でも、句文どうしの繋がりから、一つの現場であることを指摘することができます。
古池や蛙飛びこむ水の音          松尾 芭蕉
以前に、「古池に蛙は飛びこんだか」という本を読んだことがありますが、私自身は、池と水音は、一つの現場であることの証明ではないかと考えています。

三百九十、イメージの貼り絵

拙句で恐縮ですが、まず、次の二つの句を比べてみてください。二つとも、ほぼ同じような情景を読んでいます。
① 浮雲の影のさ走る青田原        金子つとむ
② 青田面翳りて雲の速さかな       〃

実は、二つは詠んだ場所が違います。①は、ベランダから見渡す限りの青田を眺めて詠んだものです。広々とした青田を、浮雲の影が舐めるように通り過ぎていきます。青田原という季語はありませんが、その広がり強調したいと思い、そう名付けてみました。
➁は、あぜ道での景です。ですから、「青田面翳りて」と詠みだしています。句の臨場感でいうと、➁の方に軍配が上がるように思います。①の方は、景が遠い分、作者と句の関係が弱いように感じられます。

さて、タイトルのイメージの貼り絵についてです。私は、作者が感動を受け取った場面を読者に提示するのが俳句だと考えていますが、その提示する順番を決める際に、貼り絵ということを意識してはどうかと思うのです。
イメージの貼り絵としたのは、ある纏まったイメージが順番に置かれるということです。実際に、➁の例で考えてみましょう。
まず、最初に置かれるのは、青田面です。ここは、助詞「が」省略されていますので、切れがあるわけではありませんが、一呼吸置くことも可能でしょう。そうすると、読者の眼前には青田の瑞々しい緑が見えてきます。
するとそこに何かの影が過ぎります。「翳りて」から、読者は日が翳って、青田の色が少し暗く沈むのを感じることができましょう。この「翳り」は、青田の上に置かれた二番目のイメージです。
次にそれが、雲の影であることが明かされ、影の輪郭が明確になってきます。そして、「速さかな」で、影は飛ぶように過ぎる浮雲の影であると分かるのです。速さというとばで動きがうまれ、この句は動画的な要素を取り込むことになるのではないでしょうか。句の臨場感がより高まるようにも思われます。臨場感は、読者を作者と同じ立ち位置に、半ば強引に連れてきます。

さて、➁と比べると、①は、やや説明のように感じられます。➁のように、一つ一つイメージを置いていくような貼り絵的な手法と比べると、➁の場合は、最後まで読まないとイメージが立ち上がってこないのです。浮雲の影といわれても、それが走るといわれても、青田原がでてくるまで、読者はイメージを貼る場所がなく、宙ぶらりんの状態に置かれるのではないでしょうか。
次の子規の句のように、前景と後景のイメージを貼ると、そこには、空間が生まれ奥行が生じてきます。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり        正岡 子規

三百九十一、切れが生み出すもの

切れは文字通り、句文の完結を意味します。二句一章や三句一章で、二つないし三つの句文が散逸しないのは、そこに場のちからが働くからです。完結は別のことばでいえば、他の句文との断絶ともいえます。それでは、切れという断絶によって、そこに何がもたらされるのでしょうか。私は、そこに時空、時間と空間がもたらされると考えています。

例えば芭蕉さんの句で、古池や、夏草や、荒海や、閑かさや、曙やなどと、ある一語が詠嘆されるとき、それは、どんな効果をもたらすのでしょうか。それは、作者が、そうとしかいいようがなくて発したものです。そのとき、ことばは、それが生まれたときに遡って、そのことばが本然として表している「もの」、あるいは「こと」そのものに、立ち返っていくのではないでしょうか。

日常生活のなかでも、私たちはたった一語の重さを噛み締めることがあります。それは、好きな人が別れ際に発した「さよなら」だったり、信頼する人からの「頑張れ」の一言だったりするでしょう。逆説的に聞こえるかもしれませんが、もうこれしかないという形でぎりぎりに発せられたことばは、より重さを増すように思うのです。そのことばに、作者の全体重が載るといってもいいでしょう。

考えてみれば、僅か十七音の俳句自体、ことばの重さを重くする、十全に働かすための仕掛けなのかもしれません。作者に古池やと詠嘆されると、読者である私たちもまた、古池のもつあらゆる意味に思いを馳せることになります。そして、そこには、古池のもつ、時間と空間が静かに広がっていくのです。すべての場所には、本来時間と空間が宿っています。古池が、夏草が、荒海が、眼前に立ち現れてくるのです。
このように、切れには、時空を取り込み、その事物の本体を現出させる力があるのではないでしょうか。その句文が完結することで、その存在感、実在感が増すといったらいいかもしれません。一句一章の場合も、その切れによって、その俳句そのものが、一句としての存在感を確立するのだといえましょう。

二つの句文が、互いの存在感を増すとき、両者の間の空間もまた際だってきます。子規の次の作品は、その好例といえましょう。
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり        正岡 子規
前景と後景の二つの句文の存在感が、その間に横たわる秋の野の空気感を感じさせずには置かないのです。次の句には、卵を取り巻く冬の空気感があります。
寒卵二つ置きたり相寄らず         細見 綾子


三百九十二、季語から見た俳句の形

季語を中心に俳句の形を考えてみましょう。一句一章では、季語を主役として何ごとかをいっています。何故季語が主役かといえば、作者にとって、季語を実体験することが、作句動機になるからだと思われます。勿論、季語以外に強い作句動機があれば、無季であっても、そのものが主役となって作句されるでしょう。芭蕉さんの頃には、いわゆる雑の句もありました。一句一章の例句をいくつかあげてみましょう。
うすめても花の匂の葛湯かな        渡辺 水巴
まさをなる空よりしだれざくらかな     冨安 風生
冬蜂の死にどころなく歩きけり       村上 鬼城

季語の在り様を叙述するといっても、元よりその内容はとても非凡です。単に、季語の情趣の焼き直しでは、詩にならないからです。一句一章は、一物仕立てともいわれ、作者の手腕が問われることになります。

さて、これが二句一章となると、季語が一句文として、詠嘆される場合が多いように思います。それは、季語がまさに主役であり、季語を実体験した作者が、その「もの」、あるいはその「こと」に深く没入したことの証左ではないかと思われます。季語が単独で、あるいは切字を伴って詠嘆されるとき、季語はその一切の情趣をそのなかに閉じ込め、季語の時空をそこに現出させます。季語は単独で詠嘆するに足ることばだともいえましょう。そして、それに続く句文から、作者が、なぜそれほどまでに季語に没入したのか、その理由が明かされることになるのです。同じく、二句一章の例句をあげてみます。
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る         山口 誓子
蟾蜍長子家去る由もなし          中村草田男
貧乏に匂ひありけり立葵          小澤  実

作者が目撃した景のなかに、季語を強く意識させるものがあったか、あるいは、その季語に触発されて、作者の中に浮かんだ想念が表現されています。この関係性は、作者独自のものですが、読者は自身の体験を通して、その句の世界をうべなうことができるのです。

二句一章では、季語ではないことばが、単独で詠嘆されることもあります。その場合も、そのことばには、作者の強い思い入れや没入があったことは、間違いないように思われます。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声        松尾 芭蕉
曙や白魚白きこと一寸           〃
荒海や佐渡に横たふ天の川         〃

閑かさと蝉の声、曙と白魚、荒海と天の川は、一句のなかで拮抗し、緊張感を醸し出しています。この緊張感は、虚子の季重なりの名句を思い出させてくれます。
秋天の下に野菊の花弁欠く         高浜 虚子


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