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俳の森-俳論風エッセイ第28週

百九十、明治の改暦

明治五年の十二月に、庶民にとっては青天の霹靂ともいうべき出来事が起りました。それまでの太陰太陽暦から、太陽暦への改暦です。俳句界への影響を三つの観点から考えてみたいと思います。

① 何が起ったのか
「明治五年(1872)十二月三日を以って、明治六年(1873)一月一日とする」。
明治政府は明治五年十一月九日(西暦1872年12月9日)に改暦詔書を出し、時刻法も従来の一日十二辰刻制から一日二十四時間の定刻制に替えることを布達したのでした。
布告から施行までわずか二十三日というスピード実施は現在では考えられない暴挙ですが、その背景には政府の台所事情が絡んでいたようです。

② 何が変わったのか
旧暦(太陰太陽暦)では、冬至を含む月の朔日(月齢ゼロの日)を十一月一日と定め、一年の始まりはその二か月後の朔日でした。本来ならば太陽暦の一八七三年二月一日が新年だったわけです。旧暦では、新年は春から始まっていました。そこで、初春(はつはる)という新年の季語は、文字通り春の初めでもあったのです。
しかしこの日を境に、初春(はつはる)という新年の季語に季節としての春の趣は無くなりました。立春以降の初春は「しょしゅん」と読んで区別します。

③ 俳句界どう対応し、乗り越えたのか
それまで文字通り春の初めであった新年は、これ以降は晩冬になってしまったのです。そこで、それ以来歳時記では、新たに新年の項目をたてることになりました。
春夏秋冬は文字通り季節を表すことばなのに、新年という項目だけ場違いな感じがするのはそういう事情です。
ところで、純粋の太陰暦では、一年は354日(29.5×12)で、太陽暦に比べると十一日少なくなります。これをそのまま使い続けると暦と実際の季節が大幅にずれてしまうため、十九年に七回、約一ヶ月分のずれを解消するため閏月を設け、一年を十三ヶ月としたのが、太陰太陽暦です。
その補正のため、二十四節気の中気が本来割り当てられた月のうちに含まれなくなったとき、その月を閏月としたようです。閏月の月名は、その前月の月名の前に「閏」を置いて呼んでいます。最近では二〇一四年に閏九月が挿入されました。

このような事情があるため、新年の句の季節背景は、明治以前と以後で異なることになりますので、注意が必要です。但し、二十四節気を基本とする春夏秋冬の季節感には変更はありません。


百九十一、季語に対する考え方-子規と虚子

まず、正岡子規の四季の題目に対する考え方を俳諧大要(岩波文庫)から拾ってみます。文末をみると執筆日は、明治二十八年十月二十二日~十二月三十一日とあり、子規二十八歳の折の論考です。(以下、太字筆者)

一、四季の題目をみれば即ちその時候の連想を起こすべし。
一、四季の題目は一句中に一つづつある者と心得て詠みこむを可とす。但しあながちなくてはならぬとには非ず
一、俳句をものするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり。初学の人概ね空想に倚るを常とす。空想尽くる時は写実に倚らざるべからず。写実には人事と天然とあり、偶然と故為とあり。人事の写実は難く天然の写実や易し。偶然の写実は材料少く、故為の写実は材料多し。故に写実の目的を以て天然の風光を探ること最も俳句に敵せり
子規は、俳句に適しているのは天然の風光を探ることであり、四季の題目(季語)は、その時候の連想を呼び起こすので、利用するに越したことはないと言っているように思われます。非常に明快な論法です。

次に、高浜虚子の考えをみてみましょう。虚子編「新歳時記」(昭和九年、三省堂)の序文から引用します。
本書は季題(筆者注ホトトギスでは季語ではなく季題と呼ぶ)の取捨に最も重きを置いたが其方針としては、
俳句の季題として詩あるものを採り、然らざるものは捨てる。
現在行なわれているゐないに不拘、詩として諷詠するに足る季題は入れる。
世間では重きをなさぬ行事の題でも詩趣あるものは取る。
語調の悪いものや感じの悪いもの、冗長で作句に不便なものは改め或は捨てる。
選集に入選して居る類の題でも季題として重要でないものは削り、新題も詩題とするに足るものは採択する。

虚子の考えのキーワードは「詩」ということばにあります。虚子はこの序文の別の箇所で、「季題は俳句の根本要素であるが、既刊の歳時記を見るに唯集むることが目的で選択ということに意が注いでなく」と述べており、既存の歳時記に対する不満からの編纂であることを宣言しています。
子規と比較して、虚子が季題(季語)をより重要視していたことが伺えます。

子規と虚子の間には、有名な夕顔論争があり、二人の季語に対する考え方の相違が生んだ事件といわれています。
季語には、眼前にあって体感できる自然物としての側面と、長い歳月をかけて練り上げた詩語としての側面があります。この季語に対する考え方の相違が、俳句そのものに対する考え方を二分しているように思われます。


百九十二、古くからの切れの考え方

「切れ」は昔からどのように考えられていたのでしょうか。朝妻力氏(雲の峰主宰)の切字論と比較して考えてみたいと思います。
そのために、増補俳諧歳時記栞草(下)(曲亭馬琴編、藍亭青藍補、堀切実校注、岩波文庫)の雑之部から引用します。これは、嘉永四年(一八五一年)に刊行されたもので、近世期の歳時記の決定版とされているものです。(句中の句点が、朝妻氏のいう切れの箇所です)

切字(以下、例句一部割愛、傍線及び句点筆者)
[貞享式](前略)そもそも切字の用といふは、物に対して差別の義なり。それは是ぞと埒をわけて、物を三ツにする故に、始あり終ありて、二句一章の発句とはなれり。(中略)
○青藍云、切字は心を切て、句意を首尾せんがためなれば、たとへ定たる切字なくとも、心切、首尾ととのひたるは発句なり。(但し、心をきらず、下句に及ぼすを、平句の格とす。例に、何故にて、その埒をしるときは、句作に自在の働き有べし。
中の切
やすやすと出ていざよふ月の雲。     芭蕉
心の切
やがて死ぬけしきはみえず。蝉の声。   〃
挨拶切
人に家を買せて我は年忘。        〃
二字切
君火たけ。よき物みせん。雪丸げ。    〃
三字切
子供らよ。昼顔咲きぬ。瓜むかん。    〃
二段切
空鮭も空也の痩も寒の内。        〃
三段切
梅。若菜。まり子の宿のとろろ汁。    〃
中の切も、挨拶も、二段切も三段切も、をまはしも、にまわしも、無名の切も、すべて心切なれど、名目をわくるは、初学のたよりとしるべし。(後略)

朝妻氏の「切れ」が文法上の明確な句点であるのに対し、古くからの「切れ」は作者の心を切るものと考えられていたようです。
別のことばでいえば、文意あるいはイメージが切り替る断点といってもいいでしょう。そのように「切れ」を考えることは、作者の心情に没入するための鑑賞態度といえるかもしれません。
また、「心切」(切字を傍点で示す)が二つ以下の場合は、一句は季語の情趣のなかに統べられ、三字切又は三段切の場合は、三つの句文は対等に併置されて、場面によって一章に束ねられているように思われます。


百九十三、古くからの切れによる一句鑑賞

前回とりあげた、増補俳諧歳時記栞草(下)(曲亭馬琴編、藍亭青藍補、堀切実校注、岩波文庫)の雑之部の切字の説明のなかに、例句として次の句が収録されています。
桐の木に鶉鳴くなる塀の内        松尾 芭蕉
これは、にまわしと称される切字で、補注欄には、次のように記されています。
にまはし 句末の余情が、句首にかかってくるのを、上五の末の「に」で押える働きをするもの。

余計に分からなくなりそうですが、複本一郎氏は、「俳句実践講義」(岩波現代文庫)のなかで、掲句を次のように解釈されています。(太字筆者)
まず芭蕉の目に飛び込んできたのは、塀を越しての高い桐の木だったのでしょう。そして、その桐の木に注目していると塀の中から聞き覚えのある鶉の声が聞こえたきた――そんな状況下で「塀の内」の住人を思いやっているのでしょう。
「桐の木」という一つの世界と「鶉鳴なる塀の内」という一つの世界が「桐の木に」の「に」によって、一つの世界に融合し、「其じゃによって、是じゃと埒」が明いたのです。このように「切字」や「切れ」は、一句に意味性をもたらす働きをもしているということであります。

複本氏のご指摘通り、一句の意味は傍線部の通りかと思います。確かに、「に」を境に場面が大きく転換しており、その作者の心情を考慮した鑑賞といえましょう。
しかし、一句は、切字「に」の働きによって、意味性がもたらされるのではなく、あくまでも日本語の助詞「に」の働きが意味をもたらしているのではないでしょうか。つまり、掲句を単に日本語としてみたとき、
桐の木に鶉鳴くなる塀の内。       松尾 芭蕉
は、句点一つの一句一章の句ということになります。句意は、「桐の木の(あたり)に鶉が鳴いている塀の内であることよ。」となりましょう。鶉ですからまさか桐の木の止っている訳ではないでしょう。
この場合の助詞「に」は、格助詞として空間的な場所を示しています。鶉だけに芭蕉は「桐の木の辺りに」とか「桐の木の根元に」とか言わずともよいと考えたのではないでしょうか。しかし、鶉の声は、紛れもなく桐の木の方向から聞こえてきたのです。姿が見えないだけに、その声にいっそう神経が集中したのではないでしょうか。

「心切」としてそこに断点をもとめ、「に」を場面転換点として鑑賞するのには賛成ですが、日本語として一句の文意を測るには、「に」はあくまで格助詞として、その働きを見るべきではないかと思うのです。俳句は、俳句である前にまず日本語なのではないでしょうか。


百九十四、写生の奥行きー雲雀の句の変遷

鳥好きのわたしは、いきおい鳥の句をたくさん詠んでいますが、とりわけこの藤代の地に引越してきてからは、雲雀を多く詠むようになりました。
当地は雲雀の多いところで、茨城県の県の鳥にもなっています。雲雀は春の季語ですが、初夏の頃も元気に鳴いていますし、冬の間もときどきその声を聞くことができます。

今回は、わたしの雲雀の句を通して、写生ということを少し考えてみたいと思います。皆さんも、好きなものは自然と多く詠まれているのではないでしょうか。
時々その句を辿ってみることで、ご自身の見方の変化に気付かれることも多いのではないでしょうか。
雲雀の句を二句ずつあげてみます。
二〇一一年す
揚雲雀雨脚白くなりにけり        金子つとむ
投網打つ方便の舟や冬雲雀        〃

二〇一二年
雲雀の巣見てより雨の二三日       〃
覗かれて雲雀の雛が口ひらく       〃

二〇一三年
夕空にオンの雲雀がまだ一つ       〃
朝刊を取りて翳すや初雲雀        〃

二〇一四年
彩雲のかがよふ空へ初雲雀        〃
料峭や雲雀の声のととのはず       〃

二〇一五年
落雲雀落ちて未だ啼く川堤        〃
声闌けて雲雀の空の定まれり       〃

この頃、写生ということには際限がないとつくづく思います。初めは、雲雀をただ好きな対象物として詠んでいました。それが、次第に雲雀の心情(仮にそんなものがあるとすれば)に寄り添っていったように思うのです。
土手に降り立った雲雀が啼き続けるのを見届けたり、縄張りが定まってくると雲雀の声が次第に練れて、声が闌けたように聞こえたりしたのは、本当につい最近のことです。
わたしは、わたしと雲雀の間の距離感がほんの少し縮まったと、勝手に解釈しています。

写生では、「自然をありのままに見よ。」といわれますが、本当にそんなことが可能かどうか疑わしいほど、それは難しいことのように思われます。わたしたちには、見たいものだけを無意識に選択して見ているだけなのではないでしょうか。
それだけに、写生を続けることで、この「無意識の選択」を取り払えたらいったい何が見えてくるのか、いまから楽しみで仕方がないのです。


百九十五、何をよむか、どう詠むか

俳句はつまるところ何を詠むか、どう詠むかに尽きてしまうような気がします。例えば吟行句会を思い浮かべてみましょう。それぞれが同じような景物を見ていますので、句会では同じような季語が並ぶことになるかとおもいきや、実際にはそうでもないのです。
同じ寺院や花の前に佇んでいたとしても、その視点は作者によって異なるのです。このように、同じ場所にいたとしても、作者が何を詠むかとなると一様ではありません。

それに加えて、どう詠むかとなると、まさに作者の独壇場です。題詠などを見ても、実にさまざまな場面や切り口に溢れています。何を詠むか、どう詠むかの組み合せのなかに、作者はまぎれもなく存在するといっても過言ではないでしょう。
それが、初心のうちは他人の作品と似てしまうのは、発想が個人のレベルではなく、いわば常識的なレベルにあるからではないでしょうか。
本当に自分自身が感動したものを、自身のことばで語るときには、その組み合わせは次第に作者そのものになっていくのではないでしょうか。ある時、けやき句会に主宰が次ぎの句を投句されました。
あたまかたひざぽんなどと梅雨ひとり   朝妻  力
その後の飲み会で、「あんな簡単でいいなら自分でも詠める。」という人がいて、本当にそうだろうかと暫し議論になりました。

わたしは、意味が分かりかねて採り切れませんでしたが、後から聞くと、「あたまかたひざぽん」というのは、幼児がジェスチャー入りで歌う歌なのだそうです。
お孫さんの誕生日に一緒に遊ぶために、今から練習しているとのことでした。けれど、「梅雨ひとり」が示すように、むろんそれだけではないのです。
さて、初心者がこういう句を詠めるかといえば、それは無理だとわたしは思います。何故なら、掲句には、明らかに自身を客観視するもう一つの眼が働いているからです。

写生を推し進めると、自分自身をも対象化してしまう眼を持つことになります。初心の内からこの眼をもっている人は、きわめて稀だと思うのです。写生を通して作者の眼力はどんどん進化していきます。ですから、俳句にはその時点の作者の眼力がおのずと刻印されてしまうのです。
雲の峰が標榜する自分詩・自分史には、そのような意味合いも含まれています。子規の辞世の句には、写生が行き着くところまで行ってしまった感があります。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな       正岡 子規
痰一斗糸瓜の水も間にあはず       〃
をとゝひのへちまの水も取らざりき    〃


百九十六、秋桜子が目指したもの その一

水原秋桜子は、昭和六年に有名な論文「自然の真」と「文芸上の真」を書いて、ホトトギスを去り、その後は馬酔木によって活躍することになります。この論文で秋桜子は、彼が理想とする「文芸上の真」について、次のように述べています。
「文芸上の真」は、言うまでもなく文学において絶対に必要なものである。これは決して自然そのものではない。「自然の真」が心の据え方の確かな芸術家の頭脳によって調理されさらに技巧によって練られたところのものである。(日本の名随筆「俳句」金子兜太編、作品社)

しかし、具体的には今ひとつピンときません。そこで、秋桜子の俳句入門書である「俳句のつくり方」(実業之日本社)の添削例とそのコメントを通して、彼が理想とした俳句の一端を探ってみたいと思います。添削例は添削者の俳句観を知る絶好の材料だからです。(以下、太字、原句、添削の区別を筆者追加)

【原 句】蜩の鳴きいづ雷後夕焼けて
(略)この句の「夕焼」は、季語と見ない方が妥当でありましょう。そこで、秋の季語の併立のことになりますが、この場合は「蜩」が主役になり「雷」は副で、全体が「蜩」で統一されていますから、差し支えはありません。雷はつまり初秋の雷になるわけです。
(略)蜩の声はすずしい感じですから、こうくどく言ってはいけません。ここは単に「蜩や」でよいと思います。また、「雷後夕焼けて」も、言葉がつまって、涼しさがないようです。
【添 削】蜩や雷後の雲の夕焼けて

【原 句】花南瓜井水流して足洗ふ
南瓜の花というべきところを、「花南瓜」と表現することがあります。同じように、「花茄子」、「花芒」などと用いられますが、あまり品がよいものではなく、注意せぬと句全体の気品をそこねるので、濫用することはできません。
(略)もう一つの欠点は、「井水流して」で、「井水」という言葉がいかにも耳障りです。(略)
【添 削】南瓜咲く下に井を汲み足洗ふ
(略)棚などをよぢて高く咲いている方が、見た眼にすずしく、「井を汲む」とよく照応するわけです。

【原 句】帰りくるいつもの近道青田原
「青田原」というのは聞きなれぬ言葉でいけません。それから、「いつもの」という俗語も、この際低級ですし、「近道」「青田原」と、名詞が直接二つ続くのも、調子のわるいことです。(略)
【添 削】近道の青田の畦を戻りくる

次回「秋桜子が目指したもの その二」へ続く。


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