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俳の森-俳論風エッセイ第41週

二百八十一、感動のステージ

どれほど感動、感激したことでも、時を経るに従ってその感動は少しずつ色あせていくものです。俳句も同じように、できた時点では素晴らしいと自画自賛した句が、しばらく経つと急に色あせてしまうことがよくあります。この原因はどこにあるのでしょうか。
わたしは、それを、俳句としての完成度が低いからだと考えています。秀句ならば色あせない。自作が色あせてしまうのは、感動の見極めが足らず、それを表現するに足ることばが選択されていないからだと思うのです。
その最大の原因は、当然のことですが、作句時点では、わたしはまだ感動の過中にあるということです。この状態を分かりやすくいえば、わたし自身、普段の心持ちとはいく分違う、やや興奮した感動のステージに上がっているといえましょう。そのような状態で作句すると、感動が充分に表現されていると錯覚してしまいがちなのです。

もう一つの例を上げると、わたしたち全員が感動のステージに載っている場合があります。それは、吟行です。吟行句会で選句するとき、どの句も素晴らしく思えて、選句に迷った経験はないでしょうか。あるいは、どの句も情景が浮かびあがってとてもよく分かるのです。
それもその筈です。わたしたちは、ちょっと前まで、同じ場所を歩き、同じ物を見、同じ風のなかを歩いていたのですから。
そのようなホットな場面を詠まれると、景が眼前に現れて、親近感や共感を覚えるのは、むしろ当然ではないでしょうか。しかし、吟行句もしばらくたってみると、やや色あせて見えるのも否めない事実ではないでしょうか。

さて、このようにわたしたちが感動のステージ上で詠んだ句をステージから降りて見てみると、いま一つピンとこないということが起こります。これを色あせると呼んでいるのです。その理由は、ステージから降りると、感動している自分ではない、普段の自分になってしまうからです。しかし、この状態こそ、普通に俳句が読まれる地点、つまり、一般の読者の地点なのではないでしょうか。

つまり、ステージに上がってステージから見える景色を詠むのと、ステージを降りて読むのとでは、ことばの選択が自ずから異なるということです。優れた俳句は、わたしたちをいつでも感動のステージへ押し上げてくれます。一句のなかで特に印象に残ることばが、そのような働きをしているといえましょう。
そこで、推敲では、色あせた自作のなかに息を吹き込むような、感動のステージに引き上げてくれるようなことばを探すことになるのです。
翅わつててんたう虫の飛びいづる     高野 素十

二百八十二、俳句とアニミズム

俳句とアニミズムの関係を探るために、試みに三つほど例句をあげてみます。
翅わつててんたう虫の飛びいづる     高野 素十
チューリップ喜びだけを持つてゐる    細見 綾子
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男

これらの句をわたしたちは何故面白いと感じるのでしょうか。また、どこが面白いのでしょうか。
わたしたちは、ことばによってまるでそれがそこにあるかのように、眼前に現れることに面白さを感じているといえましょう。もう少し厳密にいえば、これらの句を契機として、わたしたちは、自分の体験をまざまざと思い起こしているのだといえるのではないでしょうか。

ところが、俳句などてんで興味のない人から見れば、どうやら、みんな採るに足らないことのように映っているようなのです。
かつて、俳句に誘おうとして、声をかけた会社の仲間から、句を提示した後に、「それがどうしたの」と言われたことがありました。確かに、句に現れた事実だけをみれば、てんとう虫が飛び去ろうが、チューリップがどんな風に咲こうが、さして問題ではないのかもしれません。
しかし、わたしたちにとっては、決してそうではないのです。例えば素十の俳句に出会うことによって、わたしたちは、まるでてんとう虫に初めて出会ったかのように、その不思議さ、そのいのちに触れるのです。そして、何故だか分からないけれども、ふつふつと何ともいえぬ喜びが湧き上がってくるのを覚えます。

綾子の句は、どうでしょうか。幼稚園や小学校の花壇を思い出すかもしれません。それと一緒に元気な園児たちの声も甦ってくるかもしれません。元気いっぱいの子どもたちの姿が、いつ見ても微笑ましいのは、何故なのでしょうか。そこにいのちの輝きを見ているからではないでしょうか。このいのちへの共感は、一種のアニミズムのようなものかもしれません。
単純で、純粋で、力強く、理屈ではないアニミズム。一寸の虫にも五分の魂という諺があります。とても不思議なことですが、わたしたちは、一寸の虫にもこころを寄せられるようにできているのです。

そして、てんとう虫やチューリップや冬の水がまざまざとそこにあること、そのように動物たちや昆虫や、草花や自然の山河に囲まれて生きているということが、そのままわたしたちを喜びへと誘ってくれるのです。
季節というスクリーンに、それらは繰り返しやってきます。この反復性ということも、わたしたちが親近感を抱く大きな理由といえましょう。

二百八十三、俳句と記憶

写生というと眼前の景をありのままに詠むことのように思われがちですが、小川軽舟氏がとても面白い指摘をされていますので、ご紹介したいと思います。第五十回子規顕彰全国俳句大会入賞句集、記念公演「写生と現代」からの引用です。(太字筆者)
結論からいうと、写生というのは作者が見たものを読者に説明し伝えるのではなくて、読者が見たことがあるものを思い出してもらう、ということが写生なんだということに、ある時思い至りました。(中略)
結局、写生とは作者と読者の共同作業なのですね。作者はあるものを見て、「これのここを詠おう」と考えて、言葉に置き換える。そして、その言葉を介して読者は自分の頭の中にあるイメージを色鮮やかに思い出す、ということによって写生は成功するのではないかと思います。

軽舟氏の指摘されていることを少しかみ砕いてみますと、写生のポイントは詳細な説明にあるのではなく、読者のイメージを引き出すような言葉をいかに見つけるかにあるといえそうです。
ところで、あることばから、読者が呼び覚ますイメージとは、どんなものでしょうか。厳密にいえば、言葉に対する感受性は、千差万別でしょう。それは、読者個々人がそのことばから呼び出す記憶や知識、ことばに対するニュアンスの総体といえるかもしれません。
わたしたちは、毎日多くの経験を記憶しています。五感が感受したものや、自分が考えたこと、感じたことなど実に様々です。そして、その記憶を引き出すときは、映像によることがほとんどではないでしょうか。まずそのシーンを映像として思い浮かべる。すると、それを契機として音や匂や味覚などの記憶が甦ってくるのです。この視覚の優位性は何を意味するのでしょうか。

わたしたちは、句を読んだ時にも、真っ先に映像を組み立てようとするのではないでしょうか。写生が作者と読者の共同作業であるなら、もし映像化できなければ、読者として参加することも難しくなると思われます。
ところで、実際写生をするときはものをよく見るようにいわれますが、ものよく見るということにはどんな意味があるのでしょうか。一つには、ものをよく見ることで、わたしたちのなかにその物に対する気づきや発見が生まれます。それは、わたしたちを感動へと誘うもので、そこから作句したい事柄が見つかるといえましょう。
さらには、ものをよく見ることで、表現の可能性を広げることも可能でしょう。たくさんの事実が見えていれば、様々な表現を試みることができます。そして、ものをよく見ることで、表現したい事柄に最も相応しいことばがどれであるかを判断することができるのです。

二百八十四、直喩と隠喩

如しあるいはごとくは直喩法と呼ばれる修辞法の一つで、他にもさながら、似たりなどの語を用いて、例えるものと例えられるものを直接比較して示します。これらの語は、ただ単に似ている両者を比較するための記号のようなものですので、そのために三音ないし四音を要することから、人によっては敬遠する向きもあるようです。

しかし、逆にごとしを効果的に使った作品もあります。すぐに思い浮かぶのは、虚子の次の句です。
去年今年貫く棒の如きもの         高浜 虚子
川端茅舎には、次の句があります。
一枚の餅のごとくに雪残る         川端 茅舎
また、盤水先生の次の句も有名です。
河骨は星のごとしや鏡池          皆川 盤水

一方、修辞法のなかには、隠喩法と呼ばれるものもあります。白髪が生じたことを頭に塩を置くなどといって、如しなどを使わずに表現する方法です。
其中に金鈴をふる虫一つ          高浜 虚子
金剛の露ひとつぶや石の上         川端 茅舎
摩天楼より新緑がパセリほど        鷹羽 狩行

ところで、直喩法と隠喩法はどのように使い分けたらいいのでしょうか。如し俳句を見てみますと、いずれも、比較する対象と形質が部分的に似ている場合を言っているように思われます。
虚子の句の棒の如きものは、棒そのものではありません。棒のように確かな一筋が貫いていると言っているのではないでしょうか。これを仮に
一本の棒の貫く去年今年
といってしまっては、読者は受け入れ難くなりましょう。茅舎の句も同様です。その白さ、質感の部分を取り出して、雪が餅のようだと言っているわけです。
河骨の場合も、離れ咲くその咲き方と鮮烈な黄をさして星のごとしと言ったのではないでしょうか。

これに対し、隠喩法は、作者のなかで両者が等号で結ばれてしまった場合といえるでしょう。作者にとっては、まぎれもなく、虫の声=金鈴・露=金剛・新緑=パセリだったのではないでしょうか。
このように、隠喩は非常に強い作者の断定といえましょう。それだけに、この断定には、読者を納得させるだけの説得力がなければなりません。その説得力の源は、作者の感動ではないかと思われます。
おそらく何れの作者も、心底のこの等号を肯うような体験をしたのでしょう。金鈴も金剛もパセリもその体験のなかから掴み取られたことばだと思うのです。だからこそ、作品として成立し得たのではないでしょうか。

二百八十五、虚実の間

俳句を読んでいると、時折不思議な句に出会うことがあります。例えば、
筍が隠れてしまふ鍬が来て         鷹羽 狩行
筍が自らの意志で隠れてしまうということは、真面目に考えればあり得ないことですので、言ってみれば空想句ということになりましょう。しかし、この空想のなんと楽しいことでしょう。
出掛かった筍が、人の持つ鍬の気配に、そっと身を隠す。隠す材料は、竹林に積もった枯笹でしょうか。風がふけば笹が動き、そんな風に見えることもひょっとしたらあるかもしれない。そう考えると、筍が隠れたと思えた瞬間が、作者にあったのではないか。あながち、空想ともいいきれないのではないか、そんな風にも思えてくるのです。

元朝や三猿少し手をずらす         小宮山 勇
秋深し星の乾ける音のして         〃
六道の辻の鬼灯明りかな          〃

けやき句会の小宮山さんも、時々虚実の間に遊ぶような句を発表されています。このような句を肯うことができるのは、どうしてなのでしょうか。
みなさんにもこんな経験はありませんか。てっきりコーヒーだと思って飲んだ飲み物が緑茶だったとき、それは、コーヒーでもお茶でもないとても不思議な味になります。このように、少なくとも味覚は単独で働いている訳ではなさそうなのです。
味覚に限らず、わたしたちの五感は脳の処理と密接に関係しているようです。ですから、見えているのに見ていないもの、聞こえているのに聞いていないものはたくさんあります。厳密にいえば、脳がそれと意識しなければ、見えないも同然、聞こえないも同然なのです。
逆に幻視や幻聴というのは脳の仕業かもしれません。ですから、わたしたちは、五感を一応は信じているけれど、信じ切っているわけではなさそうなのです。わたしたちは、自分が見たいように物を見、聞きたいように音を聞いているだけなのかもしれません。

さて、これを少し推し進めてみると、小宮山さんの作品になるのではないでしょうか。三猿は、元朝の特別な気配に、思わず塞いでいた目と耳と口を開こうとしたのかもしれません。作者にそう見えたのは、作者がそう見たかったからではないかと思うのです。何故そう見たかったかといえば、元朝だからとでもいえましょうか。
深秋の空に星の乾く音をきき、六道の辻に鬼灯明りを思うのも、作者の願いがそうさせるのかもしれません。その願いが共感を呼ぶのは、それが季語の本意・本情だと感じられるからでしょう。それは、季語が人びとの共感を支えとして語り継がれてきたからではないでしょうか。

二百八十六、大局的と局所的

俳句のなかには、大別すると大景を的確に捉えた句と反対に局所的な景の本質に迫る句の二つがあるようです。
今回は、実際に例句を紹介しながら、大局を詠む場合、局所を詠む場合のそれぞれについて、表現上のポイントを考えてみたいと思います。

先ずは、大局的な句からです。いくつか例をあげてみましょう。
荒海や佐渡に横たふ天の川         松尾 芭蕉
海の日の与謝にはためく大漁旗       中川 晴美
浮鳥を分けてタンカー入港す        小澤  巖

傍線で示したように、これらの句には、大景を統べるようなことばが用意されているように思われます。そのことばが、景を引き締めているのです。あるいは、一句の焦点となることばといえるかもしれません。
芭蕉さんの句では、〈横たふ〉がそのことばです。〈横たふ〉が天の川の有り様をくっきりと見せているのではないでしょうか。
同様に、厳さんの句では〈分けて〉がそれに当りましょう。タンカーのゆっくりとした進行につれて左右に分かれていく水鳥の様子が手に取るように分かります。
また、晴美さんの句では、大漁旗がそれに当ります。海の日の、与謝に、と絞り込んで、一句は大漁旗に収斂していきます。そして、この大漁旗の一語で、色彩がどっと溢れ出すのです。このように、大景を統べるには、それに相応しい的確なことば、あるいはインパクトのあることばが必要なのではないでしょうか。

次に、局所的な句を見てみましょう。
滝の上に水現れて落ちにけり        後藤 夜半
葛晒す桶に宇陀野の雲動く         渡辺 政子
笹鳴や渾身に練る墨の玉          吉村 征子

ここでは、写生の目がものごとの本質に迫っているように思われます。夜半さんは、滝の本質を〈水現れて〉と捉え、政子さんは桶の水に映る雲に、悠久のときを見つめています。また、征子さんの〈渾身に練る〉は、墨職人の全体重を載せたようなことばではないでしょうか。
このように局所的な句では、その場面を彷彿とさせる鮮やかなことばが必要になります。その本質への肉薄度合がわたしたちを感動させるのです。

大景をとらえるには、その景の焦点を見据えたことばが必要でしょう。また、局所的な句では、大景以上に、その場面の本質、ものごとの本質に迫る表現が求められます。
作者がそれらのことばを得たことは、おそらく大きな喜びだったと思われます。だからこそ、読者もその喜びを分かち合うことができるのではないでしょうか。

二百八十七、ことばの回路

俳句のことばはどこから生まれてくるのでしょうか。わたしたちは普段何気なく会話していますが、次のことばが無意識にでてくることもあれば、ある程度意識してことばをつなぐ場合もあります。今回は、不思議なことばの回路について考えてみたいと思います。

わたしは、推敲の際にはパソコンを使用していますが、それは、エクセルを使って推敲の全過程を記録するためです。わたしの推敲は、多いときですと数十回に及びます。何故そのようなことをしているかといえば、推敲過程が見えることで、ことばが生まれる回路を知るための手がかりになると考えたからです。
断定的なことはいえませんが、ことばの回路には、大別して説明の回路と感応の回路があるように思われます。何かを見てたちまち一句をものにするような場合は、感応の回路が働いているように思われます。
これに対して、推敲を繰り返していくと、どちらかといえば説明の回路が働き、理に溺れがちになります。ことばがことばを引き出してくるのです。この背景にあるのは、その人のもつことばの体系ではないかと思われます。俳句が理に落ちるととたんにつまらなくなります。
行き詰ったら、しばらく時間を置くことが大切です。ある時、次の句で行き詰ってしまいました。
見紛うて枯葉を覗く鳥見かな        金子つとむ
冬の探鳥では、枯葉と鳥影と見紛うことがよくあります。双眼鏡をのぞいて初めて分かるのです。掲句はそんな失敗を詠んだものですが、〈見紛う〉ということばが、説明のように思われました。しかし、この場面にぴったりのことばに出会うには時間が必要な場合もあります。一月ほど放置したある日、いきなり次の句が生まれました。
探鳥やまたも枯葉に欺かる         〃
〈欺かる〉の方が自然で、探鳥の雰囲気が出たのではないかと思います。また、〈見紛う〉ということばも使わずに済みました。

次の句も、雀たちの楽しそうな感じが表現されていないことが不満でした。
枯葦に百の雀の声止まず          〃
雀のお宿というのでしょうか、枯葦原などでよく多くの雀が群がっているのを見かけます。何を話しているのやら、ぺちゃくちゃと賑やかで、いかにも楽しそうです。
ちょっと冒険ですが、お喋りということばを何とか入れられないか。そんな折、ふとでてきたのが次の句です。
枯葦に百のお喋り雀かな          〃
ことばはどこから生まれてくるのでしょうか。ことばの回路はとても不思議な回路です。それがまた、俳句を作る楽しさでもあるのでしょう。


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