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俳の森-俳論風エッセイ第16週

百六、作者のいる空間

読者が一瞬にしてその良し悪しを判断できるのは、何故なのでしょうか。実際、句会などでわたしたちが一句の選にかける時間は、わずか数秒程度ではないでしょうか。

この問題をこれまであまり考えたことはありませんが、今回は、このことを少し深堀してみたいと思います。選句基準を厳密に運用しているわけではありませんが、わたしの選句の仕方をご紹介しますと、およそ以下のようです。

一、 自分の感性にひっかかってくる句を選ぶ(すっとわかる・ぐっとくる)
二、 表現上の難点をチェックする。(句形、季重なりなど)

こうしてみると、何が感性にひっかかってくるのかということが問題のように思われます。
このことを自分に句に置き換えてみると、推敲を終えてこれでいいと思えるのは、どの地点なのでしょうか。

以前、ゴールイメージの項で、草田男の「対象の姿とそれの伴っている感じを如実に表現する」ということばを紹介しましたが、仮にそのように表現できたとき、句はどういう姿になるのでしょうか。完成された俳句というものが共通してもっている特長はあるのでしょうか。

わたしは、以下の推敲過程を通して、あることに気づきました。
一、寒茜富士の孤影となりてより     金子つとむ
二、正面に富士の孤影や寒茜       〃
三、寒茜富士の孤影を望みけり      〃

一と二の句では、作者と富士の距離感がよく分かりません。しかし、三の句では、「望む」ということばの挿入により、作者は富士を遠くからみていることが分かります。作者と対象の位置関係がわかるということは、作者のいる空間が描けているということです。

作者のいる空間が描けると、読者はなんとなく安心して、その句に入りやすくなるのではないでしょうか。それが、共感の始まりだと思うのです。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
をりとりてはらりとをもきすすすかな   飯田 蛇笏
ふだん着でふだんの心桃の花       細見 綾子

「とどまれば~ふゆる」という措辞は、すでに作者が蜻蛉の見えるところを歩いてきて、止るということを示しています。「をりとりて」も同様で、作者は薄原の目についた一本を手折るわけでしょう。最後の句は、「ふだん着」がキーワードです。庭か近所の桃畑でしょうか。ふだん着でいけるところに、桃の花はあったのです。


百七、季語と出会う

俳句をしていると、季節の変化がわたしたちに様々な出会いを提供してくれます。わたしたちの句作は、その季語との出会いによってもたらされるのではないでしょうか。

例えば、冬の間であれば、わたしたちは何度でも冬晴の空を見上げることができます。しかし、その度に俳句ができるということはありません。こちらのこころの状態が、ふっと何かに触れたとき、俳句が生まれてくるのではないでしょうか。
その時わたしたちは、個人的に季語と出会ったのだといえないでしょうか。季語との出会いは、大きくものとの出会いのなかの一つといってもいいでしょう。

ところで、俳句では、季語が動くということが問題にされます。それはどんな時かというと、作者が季語と出会っていないのに、ただ季語をあてがった場合ではないかと思われるのです。
以前、早朝の駅のホームで、
冬晴や地上はいのち濃きところ      金子つとむ
と詠んだことがありました。どこまでも青く無機質な感じの冬空と地上の喧騒との対比に打たれたからです。
今にして思えば、あのときわたしは、冬晴と出会っていたのではないかと思うのです。

題詠で作る場合も事情は同じではないかと思われます。つまり、過去の体験のなかから、その季語に相応しい場面、いってみればその季語と出会った場面をひっぱりだしてくるのだと考えられます。記憶に残るのは、多くは初めての出会いの場面だからです。
選句の際、わたしたちは無意識に、置かれた季語が適切かどうかを判断しているように思います。そのとき、作者がほんとうに季語と出会ったかどうかを吟味しているのではないでしょうか。

もし、その出会い方が先人たちと似たようなものであれば、類句・類想となり、そうでなければ、その出会いは秀句という賛辞をもって迎えられるでしょう。
ものと出会う、季語と出会うということは、それがまざまざとそこにあることを意味します。ことばが質量を獲得するのです。季語の存在感は、一句の存在感でもあり価値でもあります。この出会いによって、たった十七音がずしりと重みを増してくるのではないでしょうか。

向日葵の一本立ちて影太し        淺川  正
日の濃さに海月ゆるりと裏返る      渡辺 政子
抜きたての葱のしめりを包みけり     高野 清風
色鳥の入りこぼれつぐ一樹かな      朝妻  力 


百八、忠実な詩情の再現

作句の契機となった感動を詩情と呼ぶなら、俳句は詩情を伝えるためにあるといっても過言ではないでしょう。わずか十七音でそれを伝えるには、感動をどう表現するかということが、大きなポイントになります。

俳句が他と詩と異なるのは、作者の感動が必ず季節を契機として呼び起こされるという点です。俳句は、季節のなかで作者が季語と出会った感動を詠んでいるのです。
すぐれた句ほど、作者は季語と深く出会っています。それだけに、季語を充分に働かせることができるのです。秀句かどうかは、この季語の働きをみれば分かります。

さて、作者の感動を表現する方法として、大きく二つの方法が考えられます。
一つは、感動の核心を、それに相応しい特別なことばに置き換える方法です。例えば、
をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田 蛇笏
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男
閑さや岩に滲み入る蝉の声        松尾 芭蕉
の太字部のことばです。これらは、詩情を表現するために、作者が自身の感動に深く分け入り、その核心を掘り当てたことばといえるでしょう。

もう一つの方法は、作者が感動した景(場面)を忠実に再現する方法です。作者は、詩情を表現するために、作者が感動をもたらした景(場面)をそのまま読者に提示し、その景のなかに作者を引き入れるのです。
優れた写生句は、このような方法で作られています。
葛晒す桶に宇陀野の雲動く        渡辺 政子
鶏頭を三尺離れもの思ふ         細見 綾子
青天や白き五弁の梨の花         原  石鼎

これらの句には、とりたてて特別なことばは見当たりません。作者は、見たまま、体験したままをそのまま打ち出しているのです。

一見すると二つの方法は大きく異なるように見えますが、その目的はたった一つ、忠実な詩情の再現ということです。そのために、感動の核心をなすような特別なことばが必要になる場合もあるし、そうでない場合もあるのです。
写生句では特別なことばを使用しなくとも、景自体が詩情を表現してくれるのだともいえるでしょう。

一句を推敲するのは、詩情が表現しえたと確信できる地点に近づくためです。その到達点で一句は完成します。
そのとき読者は、作者が感じた詩情をともに味わうことができるのです。俳句は、作者が把握した詩情を表現する究極の形として眼前にあるのです。


百九、何を詠むかどう詠むか

俳句はつまるところ、何を詠むか、どう詠むかに尽きるように思われます。こういうと、達観しているように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。俳の森を通して考えてきたことは、ほとんどこの後半の部分に過ぎないからです。

いろいろと理屈をつけられるのは、俳句の表現論、いわば技術論の領域だけです。何を詠むかということは、個人の裁量の領域ですから、他人がとやかくいえないのです。逆にそれだけに、その人なりのものの見方がでてきて、面白いのではないでしょうか。

わたしたちは季節の変化に触発されて俳句を詠むわけですから、何を詠むかということは、わたしたちの季節センサーの感度そのものに関わる問題です。そちろん、仮にそんなセンサーがあると仮定しての話ですが、その感度を上げるには、五感をフルに働かすことにこしたことはないように思われます。

文明の利器で自然から離れる一方のわたしたちは、意識的に自然のなかに身を置くようにしないと、その息吹きを感じとることができないのではないでしょうか。

「センス・オブ・ワンダー」(佑学社)のなかで、レイチェル・カーソンは次のように述べています。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。(太字筆者)

これほど短い俳句に価値があるとすれば、それは、作者の感性が明らかに季語と出会ったことにあるのではないでしょうか。すぐれた俳句には、その証が明らかに認められます。一句は、季語とそれ以外の句文の奏でるハーモニーともいえるでしょう。その音楽こそが詩情なのです。

しかし、この詩情の発見の仕方については、だれも教えてくれないのです。自分のなかで、新たな詩情を発見できなければ、似たような句を量産することになり、表現者としてのときめきも次第に薄れていくでしょう。俳句を学ぶということは、技術論を学ぶと同時に、だれも教えてくれない詩情を発見する力を自らの手で磨いていくことなのではないでしょうか。

この道や行く人なしに秋の暮       松尾 芭蕉


百十、作者の立ち位置

一句を読んだときに、作者のいる場所やその立ち位置がすっきりと分かると、句に対する理解がすすむように思います。自然に写生をすれば、対象との距離感に応じて適切なことばが選択され、自ずから作者の立ち位置が分かる仕掛けになっています。

しかし、メモなどを元に机上で作句したり、推敲したりするときは、自分が何処にいるかを明確に意識していないと、立ち位置の曖昧な句ができてしまいます。
立ち位置を明確にするには、句の現場を常に意識することが必要なのです。例句を見てみましょう。

枯蘆や水面か黒き小貝川         金子つとむ
わたしは何処でこの句を詠んだのでしょうか。句意から分かるのは、枯蘆が見えて、川面が黒っぽく見える場所ということになります。青空が川面に反射しているのです。
実際には、川堤の上から小貝川を見下ろして作句したのですが、果たして、わたしの立ち位置は明確に表現できているでしょうか。
想像で作らない限り、適切なことばが選択され、作者の立ち位置はひとりでに、あぶりだされてきます。
さて、次は想像句です。わたしは何処にいるでしょうか。
観音に千の慈眼や花の雨         〃
千の慈眼といっているので、観音を室内でそれも間近で拝しているように思われます。それに対して、花の雨は屋外のことですので、やや違和感を覚えます。つまり、この句は写生句ではないのです。
前句の良し悪しはともかく、写生句では、作者の立ち位置が明確になり、読者がその場所を占めることで感情移入がし易くなるように思われます。

立ち位置に留意して花の雨の句を推敲すると、
開帳の千の慈眼に見られけり       〃
などとなるでしょう。こうすれば、作者の立ち位置は、明確になるのではないでしょうか。初めから写生をしていれば、ひとりでにこういう表現になるはずなのです。

このように、写生には立ち位置の明確化を含む様々なメリットがあります。自戒を込めて十一話で述べた写生の効用を再掲します。写生はやはり、俳句の王道なのではないでしょうか。
今ここの視点で詠むため、ひとりでに作者の立ち位置が明確になります。
・ ものを写生することで、ひとりでに理屈から離れられます。
・ 写生を通して、存在に対する深い認識を得ることができます。


百十一、俳句が成るということ

最近体験したことですが、二十句ほどの連作を仕上げたあとに、とても充足した気持ちになりました。今までは、いい作品ができると気持ちが昂揚していました。いわば興奮状態にあったわけです。しかし暫くしてみると、色あせたりしたものです。

しかし、今回は違いました。その作品ができてから、もう一週間も経つのです。そして読み返してみると、またあの感じ、充足した感じがやってくるのです。この感じをあえてことばにすると、次のようになります。
・ 表現したかったこととことばが、ぴったりと寄り添っている。
・ 表現に無理・無駄のない感じがする。
・ これでいい、付け加えるものも、取り除くものも何もないという気がする。

俳句が成るというのは、どういうことなのでしょうか。自分でも思いもよらなかったような表現に出会って、「やったあ!」と喝采するのとは少し違うように思われます。
鍵穴にするりと鍵が納まるような、もっと当たり前のありふれた感じといったらいいでしょうか。
何度も読み返し、推敲しているうちに、じんわりと近づいてくる「あのときの感じ」、その後に表現しえた喜びが湧き上がってくるのです。
ひとは感動したときの「あの感じ」をいつまでも忘れないものです。俳句ができたことで、「あの感じ」は、今度は記憶ではなく、できたばかりの俳句によって、いつでも再生できるようになります。

ことばは不思議なもので、喜怒哀楽どれをとっても、その作者にとっての軽重はなかなか伝えにくいものです。寧ろことば以外のものがそれを補うといっていいでしょう。声音や表情、沈黙、間合いなどです。
しかし、俳句はたった十七音のことばです。わたしたちが優れた俳句に出会う喜びは、「有り難く、得難いものがまさにそこにある。」という喜びなのではないでしょうか。

「あの感じ」とは、わたしたちの生の実感といっていいでしょう。「うれしい」や「かなしい」など、平均化されたことばの意味ではなく、わたしたち自身に固有のもっと生な感じなのではないでしょうか。
俳句は、ことばにならないものを短いことばで掬い取ろうとしています。それは、「うれしい」や「かなしい」といったことばでは決して伝わらないものです。
わたしたちが、あの感じといい、感動といい、詩情と呼んでいるものは、本来ことばにできないものなのです。


百十二、場のイメージしやすさについて

一つの俳句は、読者にとってどのような読まれ方をするのでしょうか。ここでは、情景のイメージしやすさという観点から、いくつかの場合を考えてみたいと思います。場がイメージできると、句に親近感を覚え共感が得られやすいと思われるからです。
ことばのなかには、イメージを喚起しやすいことばとそうでないことばがあるように思われます。吟行句の場合から、イメージしやすさの違いを考えてみたいと思います。

① 吟行句
吟行句が理解しやすのは、一句の力のほかに、今しがたまでそこにいた読者の新鮮な記憶が預かっているからだといえます。吟行句に散りばめられたことばの数々は、皆ありありと像を結びます。このようなケースは、場所的にも時間的にも、読者はもっとも句に描かれた場の近くにいるということになります。

② 固有名詞を使った句
次は、句のなかに固有名詞の入るケースです。例えば、京都や奈良とかいった地名、有名な神社仏閣、有名な山岳名など容易にその姿や場所を想像しうるものであれば、読者は、自分の記憶を直ちに呼び起こすことができます。
逆にその場所を読者が知らなければ、それは、一般名詞と同じような働きにしかならないでしょう。

③一般名詞を使った句
次に一般名詞について考えてみます。川や海、湖などが読者に想起させるのは、特定のそれではなく、読者のイメージとしての川や海、湖となります。ここでは、作者が描いた情景と読者がイメージした情景は、まったく別のものになるでしょう。しかし、体験としての川や海が、共感の母胎となってくれるでしょう。

④動作・五感を表すことばを取り入れた句
 わたしが見た、聞いた、感じた、考えたことなどが、一句の世界を構成します。しかし、それは俳句の大前提ですから、実際には省略されることが多いのです。
 逆に敢えて使用した場合は、強烈なインパクトを生む場合があります。
また、季語は、そこが現実の場所である証といってもいいでしょう。雪女などの空想季語であっても、その空想の元となった自然現象は存在するからです。

現実の場所に作者がいて感じたことが俳句ならば、その場所のイメージしやすさは、読者にとっての共感のしやすさに直結するように思われます。読者は安心して作者のいる場所へ入っていけるからです。


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