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俳の森-俳論風エッセイ第13週

八十五、固有名詞の難しさ

一句のなかに季語を一つ入れるだけで、多くの場合、季語のもつ場所の情報が読者に手渡されることになります。
例えば夏の季語に、ちんぐるまという高山植物がありますが、それが咲く「高山」という一般的な場所情報は、季語であるちんぐるまに初めから含まれているからです。
また、季語には、初筑波、初富士、初比叡などのように固有名詞を含むものもあります。

もともと一句のなかに場所情報が不要な場合や、季語の情報だけで充分な場合は、場所を示すことばを新たに挿入する必要はありません。
しかし、あえて土地にまつわる固有名詞を使用した場合は、どんな効果が生まれるのでしょうか、いくつかの例句で考えて見たいと思います。

荒海や佐渡に横たふ天の川        松尾 芭蕉
芭蕉の句には、佐渡という地名のもつ力が存分に働いています。佐渡には、形勢はもとより、歴史、風俗、習慣などその土地のもつ全ての情報が含まれるからです。
このように、誰でも知っている固有名詞を味方につけると、大きな広がりのある句を作ることができます。
祖母山も傾山も夕立かな         山口 青邨
 阿蘇山の東に位置するこの山を知っている人なら、その景はたちどころに、脳裏に浮んでくることでしょう。
しかし、それを知らないわたしにも、祖母や、傾ということばから穏やかな山容が想像され、助詞「も」の働きで、二つの山が一望できる山であることが分かります。
また、掲句の調べは、まるで山に対する親しみからでた古老の呟きかと思せるほど、ほのぼのとしています。

きさらぎや雪の石鉄雨の久万       正岡 子規
子規の故郷、松山を知る人なら、この景を鮮明に印象深く思い浮かべることでしょう。
しかし、それを知らずとも、高い石鉄(石鎚)山では雪、麓の久万では雨といった風情を感じとることができるのではないでしょうか。

このように、土地にまつわる固有名詞は、それを知る読者にとっては、絶大な映像喚起力を発揮し、そうでない読者にとっては、意味不明の烙印を押されかねない危険性をはらんでいます。しかし、既に見てきたように、これらの句は、この危険性を上手に回避しているのです。

作者が固有名詞を使うのは、それに対する思い入れからといえましょう。それだけに、その使用は、強い主観表現とも受け取られかねません。ここに、固有名詞を使用する際の難しさがあるのではないでしょうか。


八十六、接続助詞「て」の用法

接続助詞「て」は使い勝手がいいため、わたしもついつい多用してしまうのですが、「て」の用法には大きく分けて以下の用法があります。
一、後から述べる内容に先行する内容を受ける
(春が過ぎて夏がくる)
川下へ靡きて枯るる芒かな        金子つとむ
冬霧を朱に色ひて朝日出づ        〃

二、後の事態のなりたつ条件を示す(叱られて泣く)
黄昏れて金に懲りゆく月の舟       〃
雀一つ止りて撓む穂草かな        〃

三、語句を受けて、動詞・形容詞につなげる
(泣いて訴える)
富士の影追うて走らす冬夕焼       〃
括られし花に縋りて(ゐる)冬の蝶    〃

四、対句的に語句を並べる(強くてやさしい)
五、反復・継続を表す(我慢して我慢して)

一般的には、一~三の使い方が多いと思いますが、二の使い方は、要注意です。
俳句は理屈を嫌うということをこれまでも何度か指摘してきましたが、二の使い方は、理屈を引き寄せてしまうからです。理屈を引き寄せてしまうと、何故いけないのでしょうか。二つの句をもとに考えてみたいと思います。

【原 句】黄昏れて金に懲りゆく月の舟
この句は、日没時に南の空に浮んでいた下弦の月が、日没とともに黄金色に染まる様子を呼んでいます。
読者が時系列に起ったことと読んでくれればいいのですが、掲句は、黄昏れた(ので)、金に凝りゆくと読まれる可能性を否定できません。そう読まれた途端に、この句は理屈の句になってしまうのです。
何故理屈がいけないかといえば、理屈が通った瞬間に、読者の心は理に傾いてしまい、黄昏を感じ、黄金色の月を愛でることがもはやできなくなってしまうからです。ここはやはり、「黄昏や」とすべきではないでしょうか。
【推敲句】黄昏や金に懲りゆく月の舟

【原 句】雀一つ止りて撓む穂草かな
も同様です。止った(ので)撓むと読まれてしまう可能性があるのです。それを回避するためには、
【推敲句】草の絮雀ひとつに撓みけり
となるでしょう。接続助詞として「て」を使ったときは、それが(ので)に変換可能な「て」か否かを充分確認したほうがいいのではないでしょうか。


八十七、大胆な省略

様々な思いが一句に結実するとき、僅か十七音の一語一語は、作者の思いを託されてそこにあるのだといえます。
俳句ではことばの質量が増すということを以前に述べましたが、一句のなかで使われることばの数が極端に少ない場合、それらのことばは、さらに質量を増してくるのではないかと思われます。

合格子鉄砲玉となつてをり        福田キサ子
この句は、「合格子」と「鉄砲玉」と「なる」からできています。たったそれだけのことばなのに、いや、たったそれだけだからこそ、これらのことばに込めた作者の思いは、充分に伝わってきます。
あとからあとから噴出す想像を誰が止められるでしょうか。高校受験か、大学受験か、どんな子なのだろうか、随分とがんばってきたのだろう、歯をくいしばってきて、よっぽど嬉しかったのだろう・・・。
そしていつしか、自らの受験と重ね合わせている自分に気付くのです。

この句は、眼前にある結果だけを述べています。プロセスを語りだすと、どうしても理屈がついてきます。この句がもし、次の句だったらどうでしょうか。
合格子鉄砲玉となりにけり
「なつてをり」には、母親の安堵と、微妙な立場が表明されています。鉄砲玉を咎めたいけれど、息子の気持ちもよく分かるだけに、なかばお手上げといったような・・・。ここには、愛情あふれる親のまなざしがあります。

滝行者まなこ窪みてもどりけり      小野 寿子
「まなこ窪みて」が、滝行の激しさを物語っています。戻ってきたのは夫でしょうか。「もどりけり」から、作者の安堵感があふれ出してくるようです。
合格したあとの吾が子の行動を鉄砲玉と捉えた母親、まなこの窪みにはっと虚を衝かれた作者、その実感がこれらの句の根っこにあるといえましょう。鉄砲玉にも、まなこの窪みにも、作者の言い尽くせぬ思いが、鉄心のように込められているのです。

寺田寅彦は、俳諧の本質的概論(寺田寅彦随筆集第三巻、岩波文庫)のなかで、次のようにのべています。
饒舌よりはむしろ沈黙によって現わされうるものを十七字の幻術によってきわめていきいきと表現しようというのが俳諧の使命である。(中略)この幻術の秘訣はどこにあるかと言えば、それは象徴の暗示によって読者の連想の活動を刺激するという修辞学的の方法によるほかない。(中略)暗示の力は文句の長さに反比例する。俳句の詩形の短いことは当然である。(太字筆者)


八十八、字足らず

字足らずのことを書こうと思って、ネットで例句を調べてみたのですが、なかなか見当たりませんでした。字余りに比べると、字足らずの句は極めて少ないように思われます。そこで、逆に何故字足らずの句は少ないのかということから考えてみたいと思います。

指を折って五七五と数えた頃を思い出してみると、十七音は、たくさんのことばのなかから削って、削って、いわば凝縮された形として生まれてきたように思います。
その終着点が五七五のわけですから、苦労して五七五にしたものをさらに削ろうとは誰もしないでしょう。すると、字足らずの句は、どんな場合に生まれるのでしょうか。

字足らずの有名な句に、芥川龍之介の句があります。
兎も方耳垂るる大暑かな         芥川龍之介
句意は、「兎さえも方耳をたれて大暑に耐えていることよ」ということです。暑さにぐったりしている作者が、兎にかこつけて自身の大暑への感慨を詠んだ句といえるでしょう。景はともかく、この句は、簡単に定型にすることができます。
野兎も方耳垂るる大暑かな
しかし、作者はそうしませんでした。それは、字足らずの句には、字足らずの句のもつ魅力があるからだといえるでしょう。

作者は、兎が方耳を垂れているという映像のほかは、一切不要と考えたのです。ことばを追加すればそのことばのもつイメージが付加されてしまうからです。
また、字足らずの句は、どこか欠落しているような、いわば負のイメージを伴います。作者は、この負のイメージを利用することで、大暑に耐える兎を通して自身を描出したともいえるでしょう。字足らずは、作者によって、積極的に選び取られた形式だといえるのです。

冬蝗終の飛行かもしれず         金子つとむ
拙句の中七は、「最後の飛行」とすれば、定型になります。しかし、敢えてそうしなかったのは、気持ちが負のイメージに傾いていたからかもしれません。五七五にすると堂々としすぎるように感じたのです。

思いの丈を定型に収めるという大→小への作句プロセスを考えると、字足らずの句は、意識しないと作りにくいものかもしれません。五七五ではなく表現としての完結を目指していくと、自由律になるのかもしれません。それゆえ、一句ごとに形が違うのです。
咳をしても一人             尾崎 放哉
まつすぐな道でさみしい         種田山頭火


八十九、季語と響き合う句文

ここでは、季語を含む五音の句文Aに対し、十二音の句文Bを取り合わせる場合に、十二音の句文に求められる条件について考えてみたいと思います。

以前初心者のための俳句講座三の項目で、二句一章にすべきか一句一章にすべきかを論じたことがありました。そのときの論旨は、句文Bが主役になれるような内容なら、二句一章にすべきというものでした。また、句文Bが主役になれるかどうかの判断は、その句文Bが季節に依存するか、そうでないかを見分けるというものでした。
その結果、次の二つの句はを一句一章に推敲しました。
【原 句】数え日や駅のポストに小さき列 金子つとむ
【原 句】寒暁や駅へ駆けゆくハイヒール 〃
【推敲句】数え日の駅のポストに小さき列 〃
【推敲句】寒暁の駅へ駆けゆくハイヒール 〃

「駅のポストに小さき列」や「駅へ駆けゆくハイヒール」は、季節に依存するため主役になれない、つまり二句一章にはできないというものでした。

このことをさらに深堀りしてみると次のようになります。先ずAとBの関係です。一句の取り合わせが上手くいくためには、両者がともに一歩もひかない対等の関係であることが必要だと思います。AとBが句文として独立しているということです。

具体的には、まず第一に、文法的に独立しているという意味です。句文Aと句文Bの終わりには、句点が付かなくてはなりません。しかし、勿論それだけではありません。文法的にみれば、「駅のポストに小さき列」や「駅へ駆けゆくハイヒール」にも句点をつけることができるからです。
もう一つ大切なことは、季語という詩語と響きあうためには、句文Bにも詩情が必要だということです。
「駅のポストに小さき列」や「駅へ駆けゆくハイヒール」も事実には違いありませんが、詩情をもつまでに高められた句文とはいえないように思われます。

それでは、次の句文はどうでしょうか。季語以外の句文Bのみを表示しています。
西のはるかにぽるとがる
駅白波となりにけり
美しき緑走れり

これらの句文は、単独でも充分詩情のある表現になっていると思います。それだけに、季語の句文Aと二句一章を構成することができるのです。
菜の花や西のはるかにぽるとがる     有馬 朗人
更衣駅白波となりにけり         綾部 仁喜
美しき緑走れり夏料理          星野 立子


九十、韻文のちから

俳句を読むには、ひとつひとつのことばを吟味することが必要ですが、さらっと眼を通したときに伝わってくるものがあるように思われます。それが、韻律ではないでしょうか。
韻律といっても、俳句の場合は、五音が繰り返すだけで、果たして韻律とよんでいいものかどうか・・・。藤井貞和は、日本語と時間(岩波新書)のなかで次のように述べています。
5―7

という形式は、非音数律詩だと言うほかない。5―7―5の、最初の5と終わりの5とのあいだに、かろうじて繰り返しがあると言えば言える。しかし〈5―7〉だけでは繰り返しになっていないし、〈7―5〉もそれきりだ。音数律詩になりたい気持ちの籠もる形式だと言える。音数律詩が成立する直前で投げ出された、その意味で、“自由” 律として俳句形式はある。
このことは従来、注意されてこなかったことで、最重要事の一つだろう。短歌と俳句はけっして長い短いの差ではない。
それでも、定型があることで、意味が届くまえに、五音、七音、五音の塊りが届くように感じられるのです。
こんなことを考えたのは、拙句を推敲していたときです。
冬空の飛行機雲がやけに短いことに驚いて、推敲しているうちに偶然、次のような形になりました。
【原 句】短き飛行機雲や冬青空     金子つとむ
四・七・六の十七音の句です。五七五の生理的な心地よさはありません。それだけに、ことばが意味を要求してやまないように思います。それに対し、
【推敲句】冬空の飛行機雲の直に消ゆ   〃
では、句意を辿るまえに、音のかたまり、調べがいちはやくこちらに届いてくるように感じられます。その調べに乗りながら、句意をひもとくような感じなのです。

つまり、五七五はフリーパスで受け付けるのに、それ以外は、シャットアウトする。そんな、生理的なものが働いているように思うのです。
俳句が受け入れられる要因の一つに、この生理的な心地よさがあるのではないでしょうか。すっとわかる・ぐっとくる要因には、この韻文のちからが大いに影響しているように思われるのです。

これに対し、自由律俳句は、韻文のちからを借りないで立っている詩ということができましょう。
まっすぐな道でさみしい         種田山頭火
ここに「道をゆく」を追加すると、五七五になります。
まっすぐな道でさみしい道をゆく


九十一、詩を感じるとき

俳の森を訪ね歩いて、俳句は、詩であるということ、俳人は詩人であるということをいっそう強く感じるようになりました。雲の峰の標榜する「俳句は十七文字の自分詩、そして、一日一行の自分史」は、まさにその通りだと思うのです。

わたしたちは日々の生活のなかで、ある一瞬、なにかしらの詩情を感じて一句に仕立てます。詩情が表現されたかたちを詩と呼ぶのなら、俳句はまさに、季節を感受したこころが奏でる詩なのだといえましょう。
そんな極めて個人的な自分詩を他者と共感できるよろこび、それが俳句の魅力なのだろうと思います。

わたしの好きな篠原梵の作品を鑑賞しながら、詩の世界を覗いてみましょう。
水筒に清水しづかに入りのぼる      篠原 梵
・水筒に落ちていく水と底から競りあがる水。同じ水がぶつり、せめぎ合い、音を立てています。
葉桜の中の無数の空さわぐ        〃
・葉桜の間から見える空の、定めないざわめき。
富士の孤の秋空ふかく円を蔵す      〃
・富士の弧は、大きな円の一部であると・・・。見えない円をまざまざと作者は見ています。

マスクして北風を目にうけてゆく     〃
・「目にうけて」が痛々しい。
シャボン玉につつまれてわが息の浮く   〃
・シャボン玉に包まれるのは、自分の息。昔、風は息の集まりだと言った詩人がいました。
蚊が一つまっすぐに耳へ来つつあり    〃
・耳だけでとらえた蚊の姿。狙いすました針。

犬がその影より足を出してはゆく     〃
・季語はありませんが、炎天下のような気がします。
蟻の列しづかに蝶をうかべたる      〃
・もちろん蟻は蝶の死骸を食料として巣へ運ぶのでしょうが、見ようによっては蝶の葬列のようにも・・・。
閉ぢし翅しづかにひらき蝶死にき     〃
・こんなことを見届けること自体が、非凡です。

これらの詩情は、作者がまさにそこにいて集中していなければ、見逃してしまうか、感じ取れないことばかりではないでしょうか。
俳句をつくることは、いまここに集中するための訓練なのではないかと思えるほどです。
筍が隠れてしまふ鍬が来て        鷹羽 狩行
チューリップ喜びだけをもっている    細見 綾子


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