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俳の森-俳論風エッセイ第51週

三百五十一、切れの正体

切れについては、これまでにも何度か考察してきました。ある時は、作者の感動や驚きが二の句を継げないような沈黙のことだといい、切れによって広がる空間は作者の感動で満たされていると指摘しました。
また、切れという切断は、あらゆる句文の接続を可能にし、読者にとって切れとは視点の切り替わるポイントだとも指摘しました。しかしあらゆる接続が可能といっても、そこには自ずから制約があります。切れがあっても、二つないし三つの句文は、纏まってある意味をなすということです。もしそうでなければ、読者に何かを伝えることは不可能だからです。

具体的に見ていきましょう。まず、二句一章の場合です。
古池や。蛙飛びこむ水の音。        松尾 芭蕉
閑かさや。岩にしみいる蝉の声。      〃
夏草や。兵どもが夢の跡。         〃

唐突ですが、ここで授業の号令について考えてみます。
起立。礼。着席。
号令をかける者は、実際の動作の時間を確保するために、間をおいて発語するでしょう。俳句は、短文ですから読み飛ばされてしまっては読者に何も残すことができません。そこで、〈古池や〉と切ることで、読者に古池をイメージする時間的余裕を与えているのではないでしょうか。読者は、彼自身の体験によって、独自の古池のイメージを呼び覚まし、その状態に留め置かれます。そこへ、次の句文が発せられると、読者はすんなりと句の世界に入ることができるのではないでしょうか。

次に、一句一章の場合を考えてみます。やはり、芭蕉さんの代表句を取り上げます。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。      〃
白菊の目に立てて見る塵もなし。      〃
雲の峰幾つ崩れて月の山。         〃

一句一章の場合も、二句一章と同様に考えることができます。作者は、これだけのことを言って、その後にもはや言うべきことは何もないといっているのです。もはや二の句は継げないと・・・。俳句は、十七音で何かを言い切る文芸です。言い切ることで、作者の感動をそのまま直に読者に手渡しているのです。
俳句を読むことで、私たちは、いきなりその句の世界に拉致されてしまいます。私たちの平素の状態から、これ以上の視点の切り替えはないのではないでしょうか。言い切ること、切ることは、作者が一切の感動をその一句に込めたという証なのだと思われます。切れには、私たちをその句の世界に引き入れ、さらには引き留める力があるのではないでしょうか。
起立礼着席青葉風過ぎた          神野 紗希

三百五十二、感動力と表現力

あまり有名な画家ではありませんが、先ごろ千葉県の川村記念美術館でヴォルス展を観ました。三十八歳で夭折した天才肌の画家で、いくつかの箴言を残しています。その一つに次の箴言があります。
どのような瞬間にもどのようなものにも永遠はある。
今回は、このことばを手掛かりに感動と表現について考えてみたいと思います。
私は、感動力と表現力は句作の両輪と考えています。更にいえば、両者の橋渡しをしているのが、感動の所在を見極める認識力ではないかと思うのです。

六月の初め、関東地方が梅雨入りして直後のことでした。車の運転中にいきなり大粒の雨が降り出しました。屋根を打つ大きな雨音にびっくりしてフロントガラスを見ると、ひしゃげた雨粒がみるみる広がっていました。急いでワイパーを動かしたのですが、暫くすると雨雲の下を通り抜けて、すっかり雨は上がっていました。
わずか十分ほどの出来事ですが、私のなかには何か面白い体験をした後の不思議な後味が残りました。
さてこの場面を句にしようとしたのですが、はじめは自分が何に心を動かされたのか、はっきりとは掴めていませんでした。いくつものことばが浮かんでは消えていく、二日ばかりはそんな状態でした。
フロントガラス、ひしゃげた雨粒、大きな雨音、男梅雨、雨雲の下抜ける・・・

この時はまだ、表現したい思いだけがあって、その焦点が定まっていない状態といえましょう。それを掴みとるのが、認識力ということになりましょう。やがて、雨の降り始めの車の天井を打つ大きな雨音が、他ならぬ驚きの核心だったと気づいたのです。そこで
降り出して車内に響く男梅雨        金子つとむ
としてみました。
しかし、この表現はどこか説明調・報告調で、あの瞬間の驚きは伝わってきません。ここからは、説明調を脱し、いかに感動を伝えるための表現を目指すかということがポイントになります。
ヴォルスのことばを借りれば、瞬間のなかに、永遠につながるような感動を見つけ出したいわけです。そこで、
太鼓打つ如き車内や男梅雨         〃
としました。太鼓ということばを使ったのは、そのとき雨粒という桴(ばち)が、車という太鼓を叩いているように感じられたからです。作品の良し悪しはともかく、表現としては感動の瞬間にやや近づいたのではないでしょうか。
感動力は、私たちの好奇心や経験が育むもので、人それぞれ固有のものです。そこに表現力が相まって優れた作品が生まれてくるのではないでしょうか。

三百五十三、切れの正体Ⅱ

朝妻主宰(雲の峰)の句形論のなかで、二句一章・補完関係を示す例句として、芭蕉さんの次の句が取り上げられています。今回は、この例句から切れについての考察を深めていきたいと思います。

石山の石より白し秋の風          松尾 芭蕉
この句は、
石山の石より白き秋の風
と容易に置き換えることができるでしょう。むしろこの方が意味は取りやすいのではないでしょうか。しかし、作者はあえて、白き(連体形)を白し(終止形)にして、そこで切断しています。
私たちは普通切れということばを使いますが、切れには、ひとりでに切れるかのような受動的な意味が含まれています。しかし、むしろ切れは作者にとってはもっと能動的なもの、つまり実体は、〈切れる〉ではなく〈切る〉なのではないかと私は考えています。

切れるのではなく敢えて切る、作者は意志的に切っているのです。それゆえ、意味が取りにくくなるのも厭わないのです。もしそうならば、そうまでして切ることにどんな意味があるのでしょうか。もし掲句が、〈石山の石より白き秋の風〉なら、私たちは、石山の石の白さとそれよりも更に白いという秋の風を思って、この句を通り過ぎてしまうでしょう。
しかし、〈石山の石より白し〉といわれれば、石山の白さを思い、それよりも白いものがあれば、いったい何かと想像を巡らすでしょう。五行説では春・夏・秋・冬をそれぞれ青・赤(朱)・白(素)・黒(玄)の色に当てはめています。〈白し〉と切ることで、白はいっそう強調され、私たちは、そこに立ち止まり反芻せざるを得なくなります。
この句点はまた、同時に秋の風も独立させています。この二つの句文を繋ぎとめているのは、作者の感動に他なりません。ですから、そこに、秋の風が置かれると、私たちはいっそう秋風の白さを痛感し、眼前の白一色の世界に引き込まれて行くのです。

切るということが作者の意志的行為である以上、そこには読者を納得させるだけの動機、つまり感動がなくてはならないのです。例えば次の句では、〈吹くや〉と切った作者の動機を果たして読者は肯うことができるでしょうか。
麦笛を並んで吹くや小学生
掲句は、むしろ素直に
麦笛を並んで吹ける小学生
とした方が、読者は共感しやすいのではないかと思います。
効果的な切れとは、切れ味のことでしょう。最終的には、切るほどの感動があるか否かが常に問われているのです。

三百五十四、切れの正体Ⅲ

今回も切れの正体について考察したいと思います。前回は、切れとは切るという作者の意志的な行為なのだというお話をしました。今回は、二句一章の二つの句文の関係について考えてみたいと思います。

前回も取り上げた例句を俎上にのせます。
麦笛を並んで吹くや。小学生。
句文Aを〈麦笛を並んで吹くや〉、句文Bを〈小学生〉とすると、二つの句文を繋ぐものは、作者の感動に他なりません。しかし、麦笛を吹くのが小学生である必然性が、果たしてこの句にはあるでしょうか。句文AとBが確かに繫がるためには、その背後にそれを取り結ぶ作者の感動がなければならないと思うのです。講評などで指摘される〈付かず離れず〉というのは、句文AとBの引き合う力のことではないでしょうか。
さらに次の句を見てみましょう。
げんげ田に軟着陸す。鷺一羽。
軟着陸ということばの固さはしばらく置くとしても、速度を落として着陸するのは鷺に限ったことではありません。つまり、〈げんげ田に軟着陸す〉ということばと、〈鷺一羽〉の間に必然性がないと、句点を打って切断した途端に離ればなれになってしまうのです。このような場合は、無理をせずに、一句一章にすればよいでしょう。
げんげ田に一羽の鷺の舞ひ降りぬ

更にいえば、〈小学生〉や〈鷺一羽〉が句文として独立性を保てるか否かも問題になるでしょう。句文として独立するには、句文自体が豊かな内容をもち、他の句文との関係のなかで、必然性を付与されていることが必要です。
例えば、一語に切字の〈や〉を付加して句文とする場合、季語+やとなるケースが圧倒的に多いのは、季語のもつ情報量の多さに起因しているように思われます。しかし、(季語+や)の句文がいかに独立を保ったとしても、他の句文との間に必然性が薄い場合には、やはり季語が動くと言われてしまうでしょう。

さて、句文A(一語+や)が季語ではないケースとして、
閑かさや。岩にしみ入る蝉の声。      松尾 芭蕉
荒海や。佐渡に横たふ天の川。       〃
古池や。蛙飛びこむ水の音。        〃

などがありますが、既に絶対的な地位を獲得しているように思われます。句文AとBの関係は、〈岩にしみ入る蝉の声〉があってこその〈閑かさ〉であり、〈閑かさ〉があってこその〈蝉の声〉だといえましょう。両者は分かちがたく結びついています。このように、句文どうしが独立しつつ互いに引き合う関係こそが、二句一章の醍醐味なのではないでしょうか。

三百五十五、報告と提示

今回は、表現の仕方としての報告と提示について考えてみたいと思います。報告というのは、文字通り事実をなぞるように記述することで、その特徴は、時系列あるいは因果関係で示されるということでしょう。対する提示では、事実のなかから作者の感動の中心となるものを抽出し、それを併置させる方法をとります。実際に例句で確認してみましょう。

降り出して車内に響く男梅雨        金子つとむ
ここで、〈降り出して~響く〉は因果関係であり、説明調・報告調を免れないように思います。この調子からは、作者の感動は伝わりにくいのではないでしょうか。それに、〈降り出す〉ということばが果して必要かという疑問も残ります。雨が響くとあれば、降っているに違いないからです。そこで、添削したのが次の句です。
太鼓打つ如き車内や男梅雨         〃    
〈太鼓打つ如き〉から、車内の喧騒が伝わってくるのではないでしょうか。ここには、時系列的な表現も因果的な表現も取り除かれています。このような表現方法を私は提示と呼んでいるのです。そのポイントは、提示された事物が作者の感動を表現し得ているかどうかということ、ただそれだけです。もう一つ例句を挙げてみましょう。

夕虹やなごりの雨に濡れて立つ       〃    
事実のとしてはまさにこの通りなのですが、この景に必要なものは夕虹となごりの雨だけで、他の措辞は必要ないように思われます。
夕虹やなごりの雨の粒中る         〃
句の良し悪しはともかく、〈濡れて立つ〉を〈粒中る〉としてみました。作者は雨粒に着目しているわけで、逆にそれまでの雨粒の大きさを読者に想像させてくれるかもしれません。感動を打ち出すという訳にはいきませんが、報告調だけは脱し得たのではないでしょうか。

さらに例句を挙げましょう。
薫風にふはりと閉まる書斎の戸       〃
ひとりでに閉まる扉や風薫る        〃

〈薫風に~閉まる〉という措辞は、やはり因果を感じさせてしまうでしょう。それに対し、〈ひとりでに閉まる〉とするだけで、事実の提示になります。〈風薫る〉というのも作者の感じた事実です。二つあるいは三つの事物を提示することで、説明や報告調から逃れることができましょう。
俳句とは、作者のいた場所を、作者が選択した事物で再構成して見せることではないでしょうか。その選択の拠り所は作者の感動ということになりましょう。提示とはつまるところ、作者がいた場所に、読者を引き入れる手法ではないかと思われます。

三百五十六、俳句のかたち

いきなり質問ですが、俳句と一般的な文章の一番大きな違いは何でしょうか。私は、それは接続詞の有無ではないかと思います。俳句では、何故接続詞を使わないのでしょうか。
普段文章を書く時、私たちは文章の流れに気を使います。その流れを論理の流れと呼んでもいいでしょう。一般の文章では論理的であるかどうかがいつも問われています。論理的であることが、読者の理解を促すからです。接続詞は、そのために必要に応じて使用されます。
これに対しは、俳句では接続詞は用いられません。接続詞なんか入れたら十七音に収まらないという反論も聞こえてきそうですが、はたしてそれだけでしょうか。私は、俳句で接続詞の役割をしているのが、作者の感動ではないかと考えています。
端的にいえば、一般的な文章は、論理の糸でつながり、俳句は感動の糸でつながるのです。俳句が感動の糸でつながっていることを、実際の作例で見ていきましょう。

俳句も日本語ですから、一般的な文章で、よく似たものを捜すことができます。
おや、こんなところに花が咲いているよ。
よく見れば薺花咲く垣根かな        松尾 芭蕉
夕焼け。あれはお日様のさよならの合図。
古池や蛙飛びこむ水の音          〃
鳥だ。ロケットよ。あつ、スーパーマン。
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ         高浜 虚子
これらの文章と俳句との共通点は、
● 場面設定ができること
● 話者の感動を読み取ることができること
の二点ではないかと思います。

このように見てくると、俳句の契機は作者の感動の内にあり、一つの俳句が複数の独立した句文で構成されていたとしても、それらを感動の糸がつないでいるため、一章として認識できるのだといえましょう。
俳句の紐帯は感動なのです。その感動が強ければ強いほど、一見無関係と思われる二つの句文が、やがて一つの俳句として認知され得るのではないでしょうか。俳句を味わうことは、作者の感動をわが物とすることです。作者の感動に共感することです。
一般に、二物衝撃といわれる取り合わせは、二つの句文間の間隙が広くなります。しかし、読者が作者の感動に思い至るとき、その間隙は急速に狭まり、終には端から間隙など無かったように感じられるのではないでしょうか。
夏草や兵どもが夢の跡           松尾 芭蕉
蟾蜍長子家去る由もなし          中村草田男
降る雪や明治は遠くなりにけり       〃

三百五十七、作者の存在を消す客観写生

昭和三年十一月十日、九品仏吟行の折の作とされる、
流れ行く大根の葉の早さかな        高浜 虚子
を初めて眼にしたとき、早さの文字に少し違和感を覚えました。その違和感というのは次のようなものです。
私は初めこの句は、速さとしたほうがいいのではないかと思ったのです。何故なら、大根の葉のはやさとは、まさに速度であって、速さとした方が、句意がすっきりするように思われたからです。実はこの違和感は、私のなかで何十年も放置されてきました。

しかし、つい先頃、私はむしろ早さのほうがいいのではないかと思い立ったのです。その理由は、今回のタイトルとも関連してくるのですが、速さとすると背後にどうしても速度の概念が入り込んでくることになり、そのような知識をもつ作者が立ち現れてしまうように思うのです。虚子はそれを避けたかったのではないでしょうか。早さならばむしろ、流れにのって大根の葉の鮮やかな緑が作者の眼前に現れ、すっと消えていくその一瞬の感覚のほうに、重点が移るのではないかと思われるのです。

まるで取返しのつかないものでもあるかのように、大根の葉が一瞬現れ、すぐに視界から去っていきます。この早さは、色彩を認識してそれが消えるまでの早さの実感に他ならないでしょう。このように表現できるかどうかは別として、大根の葉に限らなくても、私たちが一瞬捉えた色が、残像としていつまでも残るということはあるでしょう。それならば、むしろ誰が詠んでもいいのです。
私はこの作品が、誰もがどこかで体験したはずのそのような発見を、作者を消し去ることで普遍化しているのではないかと思うのです。あたかも、諺から作者の存在が消されて、誰のものでもあるように・・・。

この虚子をして、客観写生真骨頂漢といわしめた俳人がいます。高野素十さんです。虚子は素十の初句集「初鴉」の序文で、次のように述べています。
磁石が鐡を吸ふ如く自然は素十君の胸に飛び込んで来る。素十君は劃然としてそれを描く。文字の無駄がなく、句に光がある。これは人としての光であろう。
ばらばらに飛んで向うへ初鴉        高野 素十
句集名となった作品です。この句にも作者の痕跡はありません。誰の眼であっても構わないのです。だれが見てもいわれてみれば、鴉というのはこんな風に飛ぶものだ、初鴉であってもなくても・・・、鴉そのものの存在をみごとに捉えた力強い作品だと私は思います。
素十は、表現は只一つにして一つに限るということばを残しています。その到達点は、自分を消し去ることだったのではないかと思えてならないのです。


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