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俳の森-俳論風エッセイ第18週

百二十、自選と他選

俳句の大会に句を応募するとき、どの句にすればいいか迷うことはないでしょうか。
それは自選と他選の乖離の問題ともいえます。自分がいいと思った句と、他人(選者)がいいと思う句が違うということです。

この理由は、大きく二つあるように思います。
① 自分が良いと思って出した句に、表現上の欠陥がある場合。
② 作者と選者の間で、評価の基準が大きく異なる場合。

表現上の欠陥は、自信作ほど多く見られるように思います。何故なら、自信作では、作者は大きな感動に包まれており、その感動の余韻からなかなか抜け出せないでいることが多いからです。この状態が、作者の自作を客観視する目を鈍らせてしまいます。

自作については、作者はいわば神と同じで、全ての情況を熟知しているわけですから、俳句に表現されていないことまで、ひとりでに補って読んでしまう傾向があります。それで、表現上の欠陥に気付きにくいのです。
しかし、逆にいえば、自信作ほど注意深く、あるいは機械的に表現をチェックすることで、ある程度は防止できるのではないかと思われます。

むしろ、問題なのは二つ目です。
わたしたちは、有季定型で写生を基本に俳句を作っていますので、違う作り方の句は、理解できないことの方が多いのではないでしょうか。
それほど極端ではないにしても、似たようなことが、同じ句会の内部でも起っているものと思われます。
簡単にいえば、ピンとくるかこないか。この問題は、いわば感性の領域、好みの領域の問題といえます。

選句の一切は他者の手に委ねられています。自分が感動したことを読者も感動してくれるか否かは、結果がでるまで作者には分からないということなのです。
大会に応募する句は、恐らく作者にとって最高の自信作でしょう。その句は、自分にとって新しい発見があったり、今までの句とは一味も違うものではないでしょうか。
しかし、それは同時に、読者にとっても新しすぎて、理解できない句かも知れないのです。また逆に本人にとっての新しさが、他者にとっては既知の場合もあります。

俳句は他選と割り切って、それでも自信作で勝負するしかないのが実情ではないでしょうか。
俳句は、自分詩であり、自分史なのですから・・・。


百二十一、俳句と川柳

俳句の学校(実業之日本社編)によれば、川柳の生い立ちは以下のようなものです。
俳句は俳諧の発句が独立した文芸ですが、川柳は雑俳の付句が独立したものです。連想形式でつながる本格的な俳諧に対して、その練習として二句間だけで付け合うことが江戸時代の初期に行われていました。七・七の前句に対して、五・七・五を付ける。またはその逆を行うのです。
これをクイズ仕立てにして、前句に対する付句を募集して、優秀作品には懸賞をだすことにしたところ、江戸の庶民にウケて、投句するものが続出して大流行となりました。この懸賞文芸が雑俳です。
(前句)障子に穴を明くるいたづら
(付句)這えば立て立てば走れと親ごころ

このように、俳句と川柳は、ともに俳諧という同じ親から生まれています。その生き方は異なるにしろ、読者に感銘を与える方法には、共通点があるのではないかと思うのです。

国境を知らぬ草の実こぼれ合い      井上 信子
この句には、機知と批判があるように思われます。国境などというものは人間が勝手に引いたもので、草の実はどちらからも仲良く零れあっているではないか・・・と。
国境と草の実を、人為と自然に対比させることもできるでしょう。何れにせよ、この句は、国境と草の実の響き合いのなかで、意味の多層化を図っているといえましょう。
国境と草の実の関係は、生活の様々な場面で見られる現象だからです。

このように、二つのキーワードが、互いに響き合うことで、豊かな広がりを見せています。これは、この川柳の味わいということになるのではないでしょうか。
俳句でも、事情は同じではないかと思われます。ただ、二つのキーワードは、季語と共振語となるだけです。

もう一つ、川柳を見てみましょう。
三十歳満つるいのちが湯をはじく     時実 新子
「満つる」と「はじく」が対になって、女体の充実を表現しています。
この句から、すぐに思い浮かぶのは、次の俳句です。
窓の雪女体にて湯をあふれしむ      桂  信子
この句では、「雪」と「湯」あるいは、「女体」と「あふれしむ」が、響き合っているように思います。
この響きあいは、別のことばでいえば、共振であり、それは運動であるともいえるでしょう。一句のなかに、運動することばがあること、それが句の鼓動ともいえるのではないでしょうか。


百二十二、場のちから・物のちから

わたしたちが、遠い記憶を夢のように感じてしまうのは何故でしょうか。過ぎ去ってしまえば、あれほど泣き笑いしたことも、まるで夢のような気がします。逆に、一つの俳句がありありと存在感をもつのは何故でしょうか。

これは、何れも、場のちから、物のちからによるものと考えられます。遠い記憶は細部を不確かなものにし、現実感を希薄にしてしまうのではないでしょうか。
俳句にとっての場のちからとは、一句の構成が、作者のいる場所をありありと描出しているということです。読者が作者のいる場所や場面を具体的にイメージすることができれば、作者の感動を分かちあう前提条件が整ったといえましょう。
ここであえて前提条件と述べたのは、自作も含め前提条件の整わないままに投句してしまうケースが多々あるからです。

つぎは、物のちからについてです。物の色、手触り、重さ、味覚など、物はわたしたちの五感に直接訴える力を持っています。例えば、次の句、
滝の上に水現れて落ちにけり       後藤 夜半
は、滝というものの本質をよく捉えていて、眼前に滝を見上げているような趣があります。
作者の認識力が、ものの本質に食い込んでいくとき、物はまさにそこにあるかのような存在感を示すのではないでしょうか。
蕗の薹食べる空気を汚さずに       細見 綾子

逆に頭で考えた句、理屈だけの句には、この実感がありません。例えば、
稲刈るや石斧もつ手がハンドルに     金子つとむ
古代人は石斧で稲を刈ったという知識だけの働いている句です。この石斧に、果たしてどれほどの存在感があるでしょうか。一句は短いだけに、場の現実感、物の存在感を基盤として成り立っているように思えてならないのです。

場のちから・物のちからとは、現場、現物のちからです。それは、わたしたちの生きている実感、手ごたえのようなものです。俳句は、生きている最先端の「今」をいつも詠んでいます。
句会でわたしたちは、互いに生きている実感を披露しあっているのです。それは、和楽の精神ともいえるでしょう。わたしたちは、俳句でコミュニケーションし、互いに実感に交歓し、知らずしらず励まし合っているのではないでしょうか。

稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空      福田甲子雄


百二十三、俳句が詩になるとき

わたしたちが折りにふれて愛唱する俳句の数々。それらは、みな詩になった俳句といえましょう。優れた俳句になるためには、どうしても詩であることが必要ではないかと思うのです。それでは、詩であるというのは、どういうことなのでしょうか。

それを考える手立てとして、わたしたちの愛唱句について考えてみたいと思います。わたしたちが句を愛唱するのは、その句の持っている世界をまたしても味わいたくなるからではないでしょうか。
味わいを言い尽くすことはできませんが、その句の世界に浸ることで、わたしたちのこころは、静かになったり、暖かくなったり、楽しくなったりするでしょう。それらはみな、詩情がわたしたちに働きかけた結果です。

また、一句の世界以外にも、句自体のもつことばの美しさ、流れるような調べ、毅然とした佇まいなど、惹かれる要素はたくさんあるのではないでしょうか。
わたしたちが、また読んでみたくなるような何かを、俳句は提供し続けてくれるのです。わたしたちの愛唱句には、わたしたちのこころの糧があると言ってもいいでしょう。
俳句は、わたしたちが普段使うことばで作られています。特別のことばがあるわけではありません。しかし、わたしたちの愛唱句は、どれもかけがえのないものという感じがします。それは、何故なのでしょうか。

ことばは、ここである転移を遂げていると見ることができます。優れた俳句のなかでは、使われている全てのことばが詩語となっているのではないでしょうか。ここでいう詩語とは、一句のなかで生き生きと働いていることばという意味です。
作者が選択した唯一無二のことばが、無駄なく無理なく配置されることで、俳句は成り立っています。一語一語、一文字一文字は、その互いの関係性のなかで、詩語になっていくのです。一句の堅牢さはそこに由来しています。
このことばを使えば、必ず詩になるというようなものではありません。
作者は、詩情を表現するために、ことばを選びぬき、配置を試し、韻律を考慮し、調べを確かめ、すっきりと意味が通る一章を作り出すのです。この作句プロセスを通してふだんのことばが、詩語になっていくのです。

それは、季語とて同じでしょう。作者が季語を発見し、それを一句のなかに置くことで季語が働きます。
ふだんのことばが詩語になるのと同じように、季語として置かれたことばが、一句のなかで多いに働くとき、季語は初めて季語になるのではないでしょうか。

百二十四、季語が働くということ

一句のなかで季語が働くとはどういうことでしょうか。前項でわたしは、一句のなかで季語が季語として働くとき、季語も詩語となると述べました。

優れた俳句では、季語を含めて全てのことばが十全に働き、詩語となっています。季語の働きが充分でない季語は、その句にあってはもはや季語ではないのです。その状態を「季語が動く」と呼んでいます。

この「季語が動く」ということばは、とても象徴的です。そこに置かれた筈なのに、動いてしまうからです。
反対に季語が充分に働いている状態は、「季語が動かない」と呼んでいます。充分に働いている季語は、もはや動かすことができないのです。
それほどに、すぐれた俳句のもつことばの関係性は、堅牢なものと言えるでしょう。俳句は、ことばの建造物だとも言えるのです。

わたしたちが、季語を一つ使って俳句を作るとき、季語の使い方には、大きく三つのパターンがあるように思います。
一つ目は、季語のもつ情趣を追認するということです。これは、既に先人たちが発見した季語の情趣を個人的に追認していくプロセスです。ここでは、わたしたちが本当に季語を発見したかどうかが問われることになります。

二つ目は、既存の情趣にはない新たな季語の情趣を発見するということです。
季語は自然の景物ですので、実際の景物をよく観察することで、新たな情趣を見つけだすことができるかもしれません。もちろん、それは容易なことではありませんが、例えば、草田男の、
蟾蜍長子家去る由もなし         中村草田男
などは、その好例と言えるでしょう。

三つ目は、新しい季語の創造です。生活の変化とともに新しい景物がうまれ、季節感を持ってくると、季語を創造する機会も生まれてくるかもしれません。ナイターなどは、その好例と言えましょう。
ナイターの歓声届く宮の森        三原 清暁

二つ目、三つ目は、凡人にはなかなか適わぬことですが、わたしたちはたくさん俳句を作ることで、季語のもつ情趣を発見することができます。それは、先人たちの美の遺産を無償で受け継ぐことになるでしょう。
季語や例句の世界は、わたしたちの暮らしに彩りをあたえ、豊かさをもたらしてくれるのではないでしょうか


百二十五、ひらがな表記

俳句のなかには稀に、ひらがなだけ、あるいは漢字の極めて少ない俳句があります。漢字のもつ映像性をみすみす放棄してしまうのには、どんな理由があるのでしょうか。
たまたま、皆川盤水師の特集で朝妻主宰が抄出した句のなかに、ひらがな俳句を見つけましたので、考えてみることにしました。

さかなやのかひふうりんのよきねかな   皆川 盤水
考えるにあたって、この句を一度漢字に直して比較してみたいと思います。
魚屋の貝風鈴の良き音かな
さあ、どうでしょうか。音よりもむしろ魚屋の佇まいや、吊るされた貝風鈴の姿などが視覚的に飛びこんでくるのではないでしょうか。わたしたちは、どちらかといえば視覚優先の生活をしています。そのことを考え合わせると、作者の狙いは、どちらといえば地味な貝風鈴の音色そのものに読者を誘うことにあったのではないでしょうか。

そう思って、もう一度盤水師の句を読んでみると、柔らかな風に乗って、あの貝風鈴の音が響いてくるように感じられます。すべてひらがな書きというのも、貝風鈴の素朴さとよく合っているように思われます。

次に、有名な蛇笏の句を取り上げます。
をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田 蛇笏
掲句を漢字にすると、
折り取りてはらりと重き芒かな
となりましょうか。こうすると、読者はすぐに句意を理解することができるでしょう。一方、原句の方は、一字一字を追っていくうちに、後から意味が立ち上がってくるような印象を受けるのではないでしょうか。
つまり、作者は、読者にもこの句の記述通りに、手折って、その茎を手に持って、重さを感じ取って欲しかったに違いありません。
「はらりとおもき」を、読者がその手にまざまざと感じ取ることができたとき、この句は読者にとって忘れられない一句となるのではないでしょうか。

次に一語だけ、漢字の入った句を取り上げます。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
蜻蛉だけを漢字にした作者は、蜻蛉の姿をまざまざと見たからではないでしょうか。あるいは、蜻蛉の姿を読者にも見せたかったのだと思います。
汀女は、遠くから蜻蛉のいるあたりへ歩いてきます。始めは、秋の日を返す光に過ぎなかった蜻蛉が、とどまることで、間近にその姿を見ることになったのです。その驚きの込められた漢字が、蜻蛉なのではないでしょうか。


百二十六、ことばの凝固感

俳句を推敲していてこれでよしと思うときには、ことばが凝固する感じがあります。試行錯誤を繰り返しながら、ことばを変えたり、順番を入れ替えたりするうちに、ある形に落ち着いていく。ことばの凝固感というのは、ことばが、収まるべく収まるという感じです。

季語が動くとか、動かないとかよくいいますが、同じように全てのことばが本来あるべき位置を占めたと感じられるときが、作者にとって一句が完成するときなのではないでしょうか。
読者が凝固感のある句に接すると、意味がよく分かり、詩情があって、一句が立っているという印象を受けます。
そこには一輪の花の完璧さをみるような趣があります。表現には、一切の無駄がなく、批評や提案すべき余地がないのです。
もう手放しで受け入れる、喜んで受け入れるしかないような状態。日本語は、こんなにも美しいことばなのか、あらためて実感するのです。

俳句が詩になるときには、このようなことばの凝固感を伴うように思います。長年俳句をやっていると、この状態をすぐに見破ることができるようになります。わたしたちが、ほんの一瞬で句の良否を判別できるのは、この凝固感を手掛かりにしているからではないでしょうか。
凝固感のない句はどこかしまりがなく、短い散文のように感じられます。凝固感のなかに、ひとつの動きを与えているのが、五七五のリズムではないかと思われます。

作句の段階では、作者はいろいろと悩むものです。この悩みは、ことばの選択のゆらぎ、配列のゆらぎ、調べのゆらぎなどとなって現れるでしょう。
しかし、表現が核心に近づいてくると、そういうものが次第に沈静化して、ことばが凝固してくる、それが俳句が成るということではないかと思うのです。

ことばが動かないというのは、他のことばには置き換えられないということを意味します。
一例をあげてみましょう。
たなうらに包みて愛づる蕗の薹      久田 青籐
たなうらの他には、てのひら、たなごころなどという言い方もあります。たなごころは、五音ですのでひとまず措くとしても、てのひらとたなうらはどのように使い分けたらいいのでしょうか。
てのひらに包みて愛づる蕗の薹
てのひらには広げたような語感があるため、包むということばと反発しあうようです。掲句ではやはり、たなうらに分があるように思われます。


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