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俳の森-俳論風エッセイ第43週

二百九十五、孤独の窓をひらく

唐突な言い方かもしませんが、俳句というのは季語の世界を再体験するための装置のように思えてなりません。わたしたちは一句を通して、何時でも何度でも季語の世界に没入することができます。ですから、いい句というのは、今がどんな季節であろうと、どんな場所にいようと、それを読むだけで、眼前にその季語のもつ世界を現出させてくれるようなものではないかと思うのです。

これは、わたしの個人的な体験かもしれませんが、いい句に出会うとわたしは何故か嬉しくなります。大げさに言えば、その句によってわたしのこれまで体験したある場面、その雰囲気、いわば五感の記憶が呼び覚まされるように感じるのです。例えば
滝の上に水現れて落ちにけり        後藤 夜半
の句から、わたしはこれまで見たいくつもの滝を思い出すことができます。そして、何よりも大切なことは、その場にいたときの臨場感までまざまざと思い出すことができるのです。

わたしたちが、たかだか十七音の詩によって残そうとしているものは、何なのでしょうか。それは、季節と出会う喜び、外界から触発されて動く私たちの心の躍動、そのあえかな一瞬をいのちの輝きとして、生きた証として止めようとしているのではないでしょうか。雲の峰が標榜するように、そのようにして残された自分詩は、そのままその人の生きた証、自分史となっていくものと思われます。

それゆえ、共感できる句に出会うとわたしたちは嬉しいのではないでしょうか。ここにも、わたしのように感じて生きている人がいる。それは、大きく捉えると同時代を生きるものとしての共感だといえましょう。さらに、自分の句に共感してくれる人がいれば、なおさらです。
基本的には、ひとりひとりは皆孤独のなかで生きています。それをいのちの孤独といってもいいでしょう。俳句によって、そのどうしようもない孤独の窓が開かれるのではないでしょうか。

俳句で表現されるのは、皆個人的なささいな事柄です。俳句を知らない人に、「それでどうしたの」と聞かれたら二の句が継げないような内容ばかりです。そんな個人的な他者の感慨をわたしたちは、どうして肯うことができるのでしょうか。
個人的な事柄を突き詰めていくと、どうやら一気に普遍的なものへと繋がってしまうようなのです。後世に残る絵画が、みな個性的で独創的なように、後世に残る俳句もまた、みな個性的です。わたしたちは、安心して自分の思うところを表現すればいいのではないかと思います。

二百九十六、五七五で語りかける

俳句は、何を語り掛けるかによって、大きく二つの流れがあるように思います。
・私はこんな体験をして、感動しました。あなたも、そう感じませんか。
・私にはこんな考えが浮かびました。あなたも、素晴らしいと思いませんか。
何か感動することがあったとき、人は誰かに伝えたくなるものです。また、素晴らしい考えが閃いたときも、やはり誰かに伝えたくなるのではないでしょうか。両者の違いは、感動がどこからやってきたかということだけです。

前者の場合は、感動の源には多くの場合、実体験としての季語体験があります。季語は、自分の外の世界にあり、具体的に体験できるものだからです。例えば、桜を見たり、紅葉をみたり、雪に触れたりというように・・・。
これに対し、後者の場合は、感動は自分自身のなかからやってきます。自分のなかに生まれたアイデアに自分自身で感動しているのです。そのアイデアが季語体験を契機としている場合は、前者に属するものといえましょう。
しかし、実体験を伴わなくても、ことばのイメージなどからアイデアが生まれることはあるでしょう。いわばモンタージュのように、ある言葉どうしが自分のなかで出会うわけです。これは純粋に創作と呼べるものかもしれません。
このように、俳句には、実体験としての感動と創作としてのアイデアに根差すものがあるように思われます。わたしたちが、通常写生句として詠んでいるのは、もちろん前者ですが、課題詠などでは、やむを得ずアイデアで詠む場合もあるでしょう。

牛久大仏とにらめつくらの揚雲雀      竹内 政光
句会でこの句に出会った時、わたしは咄嗟に面白いなと思いました。牛久大仏は、ギネス世界一の百三十メートルを誇る立像だからです。その下にはお花畑も広がっており、観光地となっています。果たして雲雀があんなところで巣作りをするか少し疑問でしたが、兎も角、作者がご覧になったのだろうと、実景として信じたわけです。
ところが、よくよく本人に聞いてみると、それは実景ではなかったのでした。作者は、別のところで見た雲雀と牛久大仏を頭のなかで合体させていたのでした。
雲の峰は、俳句は自分詩であり、自分史であると標榜しています。砕いていえば、自分が間違い無く感じたこと、体験したことを詠むということです。題詠は表現の訓練ですから暫く措くとしても、わたし自身、俳句は、感動の裏付けがあってこそ、長く支持されるのではないかと考えています。
揚雲雀太平洋が見えますか         住登 美鶴

二百九十七、現物を現出させる切れの力

雲の峰の朝妻主宰は、切れは句点であり、切字とは句点を含む文字というふうに捉えています。俳句では、作者はたかだか十七音のなかで何事かをいうわけですが、このいう、言い切る、さらに言えば主張するということが、切るということの本義ではないかと思います。
二句一章、あるいは三句一章(三段切れ)では、言いたいことは、二つの句文、もしくは三つの句文によって構成されることになります。二つ以上の句文であっても、その句文がばらばらにならずに一つの意味をなすのは、そこに場の力が働いているからです。

俳句を一人称の文学というとき、そこには作者の居場所が、必ず想定されているといっていいのではないかと思います。場所を想定することで、わたしたちは、俳句の現場を見ることができます。例えば、芭蕉さんの次の句、
古池や蛙飛び込む水の音          松尾 芭蕉
〈古池や〉と〈蛙飛び込む水の音〉は本来別の文であり、両者は無関係でいいわけです。そこに作者としての芭蕉の立ち位置を想定すると、両者はともに作者の視界の内に入ってきます。つまり、蛙は、古池に飛び込むということになるのではないかと思うのです。
三句一章の場合はどうでしょうか。
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ         高浜 虚子
これも、作者の居場所を想定することで解決できます。この場面には作者以外にも登場人物がいます。何色と問うた者と、黄と答えた者は当然異なるからです。
何人か人が屯しているなかを初蝶が通りすぎていった。それに触発された緊張感あふれる場面を作者は描いているのではないでしょうか。

わたしは、切れにはある物を眼前に現出させる力があると考えています。〈古池や〉といわれるとわたしたちは、勝手にめいめいの古池を連想するのではないでしょうか。そこには、古池のもつあの淀んだ感じや、色や水面の照り、静けさといった一切のものが含まれるでしょう。
それを別のことばでいえば、読者をして作者と同じ立ち位置に連れていく力ともいえましょう。芭蕉さんが〈古池や〉と詠じると、わたしたちもまた芭蕉さんの傍らで、めいめいの古池の前に立つことになるのです。

これが〈古池に〉であったなら、その効果はなくなってしまうでしょう。何故なら、わたしたちの関心は、古池そのものではなく、その先に起こることに自ずから誘導されてしまうからです。たった一字の違いですが、切ることと切らないことの間には、それほど大きな違いがあるのです。同様に初蝶来といわれれば、どこからともなく現れた初蝶を、眼前に現出させることになるのです。

二百九十八、修飾語の使用について

二〇一四年の角川俳句六月号に取り上げられた名句のなかで、副詞や形容詞などを探してみると、一〇七句中二二句で、二〇%に過ぎませんでした。以前から、俳句ではこれらの修飾語の使用例が少ないように感じていたのですが、その理由を考えてみたいと思います。

まず、代表的な句を取り上げて、検討していきたいと思います。
山国の蝶を荒しと思はずや         高浜 虚子
町空のつばくらめのみ新しや        中村草田男
元日は大吹雪とや潔し           高野 素十

〈荒し〉、〈新し〉、〈潔し〉の何れのことばにも、作者の感動が籠っているように思われます。

緑なす松や金欲し命欲し          石橋 秀野
美しき緑走れり夏料理           星野 立子
健啖のせつなき子規の忌なりけり      岸本 尚毅

心情の直截な表現である〈欲し〉や〈美し〉は、使用するのが難しいといわれていますが、ここでは効果的に使われています。それは、本当にそれ以外に言いようのないぎりぎりのところで、ことばが発せられているからではないでしょうか。だからこそ、読者も肯うことができるのです。〈せつなき〉ということばは、病臥の子規の思うに任せない心の内を垣間見せてくれるようです。

雉子の眸のかうかうとして売られけり    加藤 楸邨
ひらひらと月光降りぬ貝割菜        川端 茅舎
鳥わたるこきこきこきと罐切れば      秋元不死男

これらの擬音・擬態語からは、作者の独特の感性を窺い知ることができます。ひらひらと蝶が舞う、あるいは、しとしとと雨が降るなどといえば平凡の極みですが、ここに揚げたことばには、作者の独自の把握が光っているのではないでしょうか。

修飾語は文字通り、ある物あるいはある状態を規定し、一つの見方を提示します。それだけに作者独自の見方が要求されるのだといえるかもしれません。
蝶を荒しといわれれば、わたしたちははっとします。ひらひらと降る月光のなんと幻想的なことでしょう。こきこきこきという表現からは、都会生活者の孤独のようなものまで滲みでているような気がします。
手垢のつかない修飾語をどう発見し、どのように使用するのか。それが極めて難しいだけに、実際の使用例が少ないのだともいえましょう。逆にいえば、もしそのようなことばを探しだすことができれば、作者独自に句になるのだろうと思います。
をりとりてはらりとおもきすすきかな    飯田 蛇笏

二百九十九、平易なことば

とりたてて難しいことばを使わなくても、難しい内容をいうことは可能ではないかと思います。ただ意味だけを伝えるのであれば、意味内容に相応しいことば遣いをすればいいのですが、俳句で伝えたいのは、もちろんそれだけではありません。
むしろ、詩情というのは、一句が言外に醸し出しているものともいえます。一句が醸し出すそれらのものは、厳密にいえばことばが醸し出すのですが、それはひとことでいえば、ことばのハーモニーと呼べるものではないかと思います。作者は、ことばを選び、配列し、十七音に収めていきます。その際、どんなことばが選ばれるかといえば、作者の身についた自然体のことばでしょう。それ以外に、作者の感動を等身大で映すことばは、見当たらないからです。

ところで、こどもが無理に大人びたことばを使うとどこか不自然なように、わたしたちも、それぞれ自分にとってのこなれた語彙をもっています。例えば、わたしは長いことバードウォッチングを続けていますので、散歩をしていても鳥声がすれば、だいだいその鳥の名を当てることができます。ですから句に詠むときも、鳥ということは少なく、椋鳥だとか鶫だとか、河原鶸だとかいった名前がよくでてきます。
これに対し、鳥の見分けが付かない場合は、やはり鳥というだろうと思うのです。わたしは、それでいいと思っています。それが、現時点での鳥に対する関わり方なのですから、あてずっぽうで、鳥の名をいう必要もないのです。

雲の峰を読んでいると、時々聞きなれないことばがでてきて、まてよと思うことがあります。勉強して語彙を増やすのはとてもいいことなのですが、実際に使うときには、自分にとって身についたことばかどうかを今一度考えてほしいと思うのです。
鳥の名前にもたくさんの異称があります。例えば、明告鳥は鶏の異称ですが、何となく分かります。しかし、これを使うとなると、普段からそう呼んでいるのならいいのですが、そうでない場合は、一句のなかで浮いてしまう危険性があります。鶏でも明告鳥でも同じ意味ならいいと思うかもしれませんが、一句のなかで、一つのことばを入れ替えると必ず他のことばとの関わりに影響を与えてしまうものなのです。
 次に上げた作品は、どれも平易にご自身のことばで等身大の心境を吐露されているように思います。
稚の手に指つかまれて日向ぼこ       斎藤 摂子
夏めくやはち切れさうな妊婦服       井村 啓子
縁側は母の仕事場実千両          住登 美鶴
春愁や紅茶にひたすマドレーヌ       冨安トシ子
叱られて手付かぬままの桜餅        深川 隆正


三百、自分詩―いまここの詩


雲の峰の標榜する自分詩とは何でしょうか。ただ、ひたすらに自分のことを詠んでいれば自分詩になるのでしょうか。わたしは、つねにいまここにいるわたしが、わたしだと思っています。ですから、過去の自分に未練をもったり、まだ見ぬ自分に憧憬をもったりしません。いまここにいる自分といっしょにずっと生きていたいと思うのです。
ですから、自分詩というのは、いまここにいる自分が表現したいことを正直にのべることで、等身大の自分を表現することではないかと考えています。
たった十七音ですが、逆にそれだからこそ、わたしたちは、意匠をこらしたり、身につかないことばを使ったり、大向こうをはったような表現をしがちです。しかし、自分のなかから普通にでてくることばこそ、自分を表現してくれることばなのではないでしょうか。
わたしたちがことばを発するときには、無意識に五感の全てが働いているとわたしは考えています。ですから、思わず吐いたことばにこそ、その時々の真実があるように思えてならないのです。

俳句仲間に誘われて、樹齢四〇〇年の枝垂れ桜を見にいったときのことです。見るも痛々しいほど樹木医の治療の痕をとどめて、その江戸彼岸という桜は、やや小ぶりながら見事な花を咲かせていました。六十二歳のわたしが、四百歳の桜と初めて会ったのです。それを般若院二〇句にまとめました。わたしはやっと等身大の自分を表現できたのではないかと考えています。
般若院                  金子つとむ
堂裏に一木を守る花の寺
爛漫の花に隠るる御堂かな
青山に人影絶えぬ花のころ
枝垂れ枝に紅の濃き花一つ
本堂の暗き玻璃戸に花影満つ
枝垂れくる花の一枝も写しけり
青天やしだれ桜のしだれ落つ
芳しや四百年の江戸彼岸
木の下に伸び放題の春の草
青空に輝き出づる桜かな
木の支柱鉄の支柱や糸桜
花房を雲と見紛ふ木末かな
糸桜ゆれて一花も零さざる
姥桜咲いて善男善女かな
江戸彼岸誉むる言葉を口々に
老桜夢のごとくに咲きほこる
有り難き一期一会の花ならむ
あえかなる色に出でたる花ごころ
花人となりて碑などよみて
花守に礼を言ひつつ寺を辞す

三百一、物に語らせるということ

俳句ではよく、物に語らせるということがいわれますが、これを形容詞、副詞などの修飾語との関係から考えてみたいと思います。
鈍色の甍の波や柿若葉           金子つとむ
形容詞は一般的に、あるものを規定するために使われます。この鈍色は文字通り甍を規定する働きをします。つまり、〈他の色ではない鈍色の〉という意味になりましょう。もう一つの働きは、〈鈍色の〉というと、甍のもつ様々な属性のなかから色のみに焦点を当てることになります。
このような形容詞の使い方は、読者の側からいうと、想像の余地を制限されることにつながります。このやり方で物に語らせるのは、かなり難しいのではないかと思います。何故ならこの方法は、意図的にある物の属性に焦点を当てるやり方だからです。

次に、形容詞を効果的に使った句を取り上げてみます。
美しき緑走れり夏料理           星野 立子
掲句では、形容詞が想像力を掻き立てる働きをしています。わたしには、掲句はまさに膳が運ばれてきて、作者がそれを一瞥した瞬間に成った句のように思われるのです。それが何であるかよりも前に、緑が美しいと作者は感じたのです。美しき緑は作者の発見であり、この句の核となることばといえましょう。美しき緑は、ものその物ではなくその印象を明確に規定しているのです。
それだけに、読者はこの美しき緑の一語から、具体的な緑を様々に想像することができるのです。

最後に修飾語を使わないで、物の状態を提示する方法を検討してみましょう。
赤とんぼ鞍外されし馬憩ふ         皆川 盤水
ひらがなのとんぼの後に出てくる鞍の文字は、視覚的にも何かどっしりとした印象を与えます。そして、この鞍は、少し前に馬の背から外された鞍であり、馬が憩ふという表現から、一日中馬の背にあった鞍だと分かるのです。
この句には、直接鞍を修飾することばは見当たりませんが、どんな状態の鞍であるかは明確に提示されています。それが、読者の想像力を掻き立てて止まないのです。

滝行者まなこ窪みてもどりけり       小野 寿子
このまなこにも、先程の鞍と同じような雄弁さを感じます。滝行を終えた行者の窪んだまなこは、まさに滝行の象徴のようにそこに置かれています。まなこが窪むほどの修行とはいかなるものか、読者は想像せずにはいられないのです。この句にも形容詞は使われていません。
つまり物に語らせるというのは、物を規定・限定するのではなく、読者の想像力を刺激するように、特定の状態に在る物を提示するということではないかと思うのです。


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