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映画の窓から、: 『めがね』

『めがね』という映画をみた。
島にやってきためがねの観光客、タエコに、めがねの島民、ハルナがいう。

ずいぶん、大きな荷物ですね

どきり、とした。
旅先どころか、1日滞在する予定のカフェにすら、明らかに多すぎる荷物を持っていってしまう。直したい、と思いつつ、直せない自分の癖。

不安なのだ、と思う。
隙間を求めて旅をしているのに、少しのナンニモナイ時間が、怖い。
目に見える進歩がない不安を払拭するための、この本が読み終わったときに読む本が読み終わった時のための本が読み終わったときのための本。
いらない、と、心のどこかでわかっているのに。

春の海 ひねもすのたり のたりかな

めがねのタエコを追ってやってきためがねの男、ヨモギがいう。

どこか気怠げなひねもす、の響きにのたりのたり、が応えて、そうして流れる時間がゆるやかになる。
そんな時間を自分の中に編みこむように、波の音をきき、黄昏をみつめてたそがれる。

なんとなく、たそがれるのが得意な人が集まってるって言うのかな

めがねのタエコが泊まる宿の、めがねの店主がいう。

ぼけっとする、という言葉は日本語にしかないらしい。いつも重たい荷物を引きずって、時間を追い抜こうと走っている。
でも走って泳いで時間と競走した時間はいつも、流れている気がしないのだ。ぱさぱさとして、口が乾く。
たがらぼけっとが必要で、たそがれが必要なんだ、と思う。

たとえばめがねのサクラさんが、春だけ島にやってくるように、人生の4分の1くらいは、のたりのたり、でいいのかもしれない。
のたりのたり、と口ずさみながら、ナンニモナイを愛していたい。

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