見出し画像

ツイッターがくれたもの

昨日は幸せな日であった。

ここのところ公私ともに非常に忙しかったのだが、ようやく少しゆっくりできる休日を得た私は朝から家事もそこそこに本を読んだり、アマゾンプライムで映画やアニメなどを消化していた。

募らせた疲労のうち「精神的なもの」の要因をひとつ挙げるならば「インプットのためのまとまった時間が取れなかった」というものがある。

そこで、昨日はかつてから「積んで」あった「資本主義リアリズム」を読み進めて、やっとめでたく読了したわけであるが、感想についてはツイッターに載せたとおりである。

政治・経済・思想・哲学・海外の諸文化にまで広範に言及される本書の内容は、私レベルの教養ではなかなか理解が進まなかったし、読後感も決して良いといえるものではなかった。手放しで賞賛し、万人に勧めたくなるものとは言い切れない。

さて、前回のエントリでは「癒し/癒されの形は人それぞれで、内向型と外向型に分かれる」という話をしたわけであるが、そちらでも書いたとおり、私は完全に内向型の人間である。

たとえばしっかり身体的な休息をとってHPを回復させても、観たり読んだり書いたりしないことにはどうにもMPが回復せずにモヤモヤしてしまう。

しかしながら、そのような「心の栄養」も過ぎれば毒となるのであって、ずっと映像媒体や文字媒体を眺めていてもやはり疲れてしまうのが悩ましいところだ。

そこで、昨日は食い物に手間隙を掛ける気もしなかったので「コメダ珈琲」に足を伸ばして「カツカリーパン」と「ウインナー豆乳珈琲」を注文した。どちらもパンチがあって美味かったが、食べ進めているうちにやがて脂っこさと甘ったるさがくどく感じるようになってしまった。

でもまあ、たまにはこういう店屋物もいいだろう。それにちゃんと「心の栄養の過剰摂取」自体は「身体の栄養が治癒」してくれた気がする。

次の休みは一度ざっと読んだだけで、深い理解まで及んでいない「感じて、ゆるす仏教」を読み返そうと思う。

著者はいわずと知れたニー仏氏であるが、氏とは本書を購読してからも何度か会っており、非常に気さくで聡明な人物であった。「かれの人となりを知ってから読み返すとまた一味違った感想を抱けるのでは」と思い立ち、再読を決したものである。

前記の「資本主義リアリズム」に関しても断片的な理解しかできなかったが、また私自身が歳を経て、功夫を積むことができたなら再読しようと思う。そういった楽しみ方も個人的には読書の魅力の一つだ。

話をニー仏氏に戻すが、かれは今現在「note更新の鬼」であって、毎日のように読み応えのある記事を書き連ねている。知己だからといって過度に持ち上げるつもりはないが、私は単純にかれの書く媒体の一ファンでもあるのだ。

かれがそのような膨大なアウトプットを飄々と(実際は苦労もされているだろうが、私からは軽やかに更新されているように見える)こなしているのは、なんのことはない私と変わらない歳であるのに、膨大なインプットを消化されてきたということなのだろう。

インターネット交流(特に今現在はツイッターのウエイトが大きいが)を長年やってみて、良いことも悪いこともたくさんあったが(勿論ニー仏氏を含む)多くの刺激的な人物とのやりとりを持てたことを考えると「良いことのほうが遥かに多かった」と感じる。

「ネットの付き合いなどを重視する人間は、それ以外の人間関係やインプットを軽視する愚者である」というような意見も見たことがあるが、どう考えても「私はたかが他人のオフ会ごときでガタガタ言う狭量な人物である」という自己紹介にしかなっていないので、滑稽なことこの上ない。

実際のところは、ネット以外の付き合いやインプットを大事にされる方でも普通に顔を出すのが「ネットの付き合い」なので、言いがかりもほどほどにされたほうが良ろしかろう。

私はそのような野暮天のイチャモンにはまるで同意できないし、昨日までのオンライン/オフラインの交流や、そこで遭遇したかれらの言い表すこと、書き表すものによって人生を豊かにさせてもらっている。

そして、そのような媒体を摂取し、消化し、それらについての感慨をこのように述べ表すことを、なによりも「幸せ」と考えているのである。

(了)

以下の有料ゾーンにおいては、東京旅行の感想を述べたキャス二本の録画閲覧用合言葉のみを記載します。投げ銭のオマケとしてお取り扱いください。

ここから先は

10字

¥ 250

お酒を飲みます