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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(4)

著者 二宮俊博

東陽の詩友-小栗明卿・太田玩鷗・巌垣龍渓・清田龍川・伊藤君嶺・大江玄圃・大江伯祺・永田観鵞・端文仲

巌垣龍渓(寛保元年[1741]~文化5年[1808])

 『日本詩選』の作者姓名には、「巖垣彦明 字は亮卿。号は君水。大舎人、長門介。資性学を好み、奉職の外、日夜筆硯に従事す。京師の人」と。『東山寿宴集』にも見え、『平安風雅』には「岩垣彦明 字は孟厚、号は龍溪、又た松蘿館。長門介」とある。その遠祖は伊勢安濃郡の出という。東陽より15歳上。当時京都で漢詩界のみならず広く藝文の世界での世話役ともいうべき存在であったようで、詩社を主宰し、先に挙げた『常山遺稿』や『玩鷗先生詠物百首』もそうだが、幾つか詩文集の序跋を引き受けている。例えば、これも前述の明和八年刊の『淇園詩話』の跋、これは龍渓が皆川淇園に教えを乞うたことがあるのによるが、後述の端文仲『春荘賞韻』の序、六如の『葛原詩話』の序などもそうである。
 東陽がいつ龍渓と知り合ったか、はっきりしないが、七律「巌垣孟厚に贈る」(『詩鈔』巻四)には、年長者の龍渓から青眼をもって迎えいれられたと述べている。魏末晋初の阮籍は、気に入った相手には青眼で、そうでないと白眼で接したという(『蒙求』巻下、「阮籍青眼」)。その上、偶然かあるいはその口利きによるものか、いずれにせよこの時に東陽が借りた家の隣がなんと龍渓の住まいで、事あるごとに招いてくださる。詩文は清新で手だれのあざとさがなく、志操堅固にわが道をしっかり守っていらっしゃる。書物が山と積まれ、門下は俊才ぞろいで、何とも羨ましいかぎり。座敷の襖に描かれた絵は高々とした山に広々とした水をイメージさせ、そこから妙なる調べが流れ出てくるかのよう。これだけでもはや音楽はいるまい、と詠じている。ちなみに、安永4年・天明2年版の『平安人物志』に拠れば、龍渓の住所は富小路夷川上ル町であった。

  青眼忘年分誼深  青眼 年を忘れて分誼深し
  墻東居接毎招尋  墻東 居接しつねに招尋せらる
  文章初發芙蓉色  文章初めてひらく芙蓉の色
  志節後凋松柏心  志節後にしぼむ松柏の心
  家富圖書堆滿室  家は図書に富みうづたかく室を満たし
  塾優多士養成林  塾は多士に優れ養ひて林を成す
  畫堂山水峨洋趣  画堂の山水 峨洋の趣
  不用更論絃上音  用ひず更に絃上の音を論ずるを
◯分誼 交誼。◯墻東 垣根の東側。なお、城東の意もあり、「世を避く墻東の王君公」と評された後漢の王君公の故事(『後漢書』逢朋伝)から、隠者の住まいを指す。ちなみに、六律「卜居二首」其一(『詩鈔』巻三)に「分に随って墻東に世を避く」、七律「漫成二首」其一(『詩鈔』巻四)に「墻東世を避く別乾坤」とあるのは、その例。◯初発芙蓉 自然で清新であること。『南史』顔延之伝に、鮑照が謝霊運の詩を評して「謝の五言は初めてひらく芙蓉の如し、自然愛す可し」と。◯後凋松柏 『論語』子罕篇に「歳寒くして、然る後に松柏のしぼむにおくるることを知る」と。◯多士 多くの優れた人物。『詩経』大雅「文王」に「済済たる多士、文王以てやすし」と。◯画堂 ここでは襖絵のある座敷の意であろう。◯峨洋 山が高々と聳え水が広々と流れる。伯牙が琴を弾くのに高山をイメージすると鍾子期は「峩峩として泰山のごとし」と称え、流水だと「洋洋として江河のごとし」と讃えたという故事(『列子』湯問篇)から出た語。

 それから、年の暮れに龍渓の自宅に招待されて飲んだことを詠んだ六言律詩もある。「巖舎人孟厚の書堂に夜飲む」(『詩鈔』巻三)。

  臘天年例邀樂  臘天年ごとにおほむね楽しみをもと
  款待交誼敦  隣交を款待してよしみ敦し
  竹雪窓明夜靜  竹雪 窓明らかにして夜静かに
  茶烟屋潤冬温  茶烟 屋潤ひ冬温かし
  才當筆陣誰敵  才は筆陣に当たり誰か敵せん
  福占書城自尊  福は書城を占めて自ら尊し
  塵世偏勞歳事  塵世ひとへに歳事に労す
  醉鄕肥遯忘言  酔郷に肥遯して言を忘る
  *憐は隣の誤字であろう。
◯臘天 十二月。◯邀楽 『荘子』徐無鬼篇に「吾れ之と楽を天に邀め、食を地に邀む」と。◯竹雪 晩唐・司空図の七絶「偶詩五首」其五に「中宵茶鼎沸く時驚く、まさに是れ寒牎竹雪明らかなり」と。◯茶烟 茶釜から立ち上る湯気。◯筆陣 詩文を書くこと。その構成布置を軍陣に喩えていう。杜甫の七古「酔歌行」(『古文真宝』前集)に「筆陣ひとり千人の軍をはらふ」と。◯書城 明の陳継儒『太平清話』巻二に「宋の政和の時、都下の李徳茂、墳籍を環集し、名づけて書城と曰ふ」と。◯酔郷 気分のいい酔い心地。初唐の王績に「酔郷記」がある。◯肥遯 世俗を離れて悠悠自適すること(『易経』遯卦上九)。◯忘言 『荘子』外物篇に「言なる者は意に在る所以ゆゑんなり、意を得て言を忘る」と。

師走の忙しさをよそに、のんびりと茶をたて、酒の陶然とした酔い心地に身を委ねる。そうした俗世間と一線を劃した市中の小天地は、さらに七律「歳杪、巖舎人の松蘿館に遊ぶ」(『詩鈔』巻四)にも描かれている。
 
  冬天雪後日還暄  冬天雪後 日た暄《あたたか》し
  良宴幸逃塵事繁  良宴さいはひに逃る塵事の繁きを
  便見階庭林影靜  便すなはち見る階庭林影の静かなるを
  不妨門巷市聲喧  妨げず門巷市声のかまびすしきを
  琴中流水殊堪聽  琴中の流水 ことに聴くに堪え
  世上浮雲總莫論  世上の浮雲 総べて論ずる
  更為梅花動春興  更に梅花の為に春興を動かし
  把杯看到月黄昏  杯をって看到すれば月黄昏
◯不妨 かまわない。◯流水 琴曲の名。◯浮雲 『論語』述而篇に「不義にして富つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」とあるのをふまえ、不正な手段方法で得た富貴をいう。◯月黄昏 北宋・林逋の七律「山園小梅二首」其一(『瀛奎律髄』巻二十、梅花類)に「暗香浮動す月黄昏」と。

 また詩会に呼ばれて、その後、座敷から庭園に場所を移した酒の席でちと飲みすぎ、「月がとっても青いから」(清水みのる作詞)、つい我が家の前を通りすごしたという詩もある。七絶「寄せて巌垣孟厚に謝す」(『詩鈔』巻七)に云う、

  朱李翠瓜金屈巵  朱李翠瓜 金屈巵
  詩筵夜向後庭移  詩筵 夜 後庭に移る
  醉將餘興仍乗月  酔いて餘興をもつほ月に乗じ
  行過吾門了不知  行きて吾が門を過ぎてつひに知らず
◯朱李 三国魏・曹丕「朝歌令の呉質に与ふる書」(『文選』巻四十二)に「甘瓜を清泉に浮べ、朱李を寒水に沈む」と。◯翠瓜 杜甫の「解悶十二首」に「翠瓜碧李玉甃に沈む」と。◯金屈巵 取っ手のついた金のさかずき。晩唐・于武陵の五絶「酒を勧む」(『唐詩選』巻六)に「君に勧む金屈卮」と。

これはあるいは、龍渓の別邸で催された詩会のことであったかもしれない。七律「厳舎人の東郊の別館に韻を探り、加字を得たり」と題する作(『詩鈔』巻四)があるが、こちらは春のそれ。会が終わったのが夕暮れ時。それからも一杯また一杯、朧月夜に漂う花の香。懇ろなもてなしにすっかり酔ってなかなか神輿を挙げずにいたが、そろそろ御いとま申す。すっかり遅くなったと思いきや、市中はまだ賑やかにざわめいている。これなら帰り道を急ぐにおよぶまい。

  栖雀林邱帯落霞  栖雀の林邱 落霞を帯び
  餘歡泥飲未廻車  餘歓泥飲 未だ車をめぐらさず
  朦朧夜靜滄池月  朦朧として夜静かなり滄池の月
  馥郁春香雜樹花  馥郁として春香る雑樹の花
  終日杯盤情不淺  終日の杯盤 情浅からず
  滿堂絲竹興逾加  満堂の糸竹 興逾々いよいよ加はる
  都門歸路宐無急  都門の帰路 宜しく急ぐこと無かるべし
  燈火熏天市尚譁  燈火 天をいぶして市さわが
◯落霞 夕焼け。◯滄池 青緑色をした池。◯糸竹 管弦。◯熏天 勢いの盛んなこと。杜甫の五律「興を遣る五首」其一に「北里 富 天を熏し、高楼 夜 笛を吹く」と。

 ところで、この龍渓、今風に言えばイケメンで若い頃は色街でずいぶんともてたらしい。その粋な姿を祇園の老妓が覚えていると詠じた「戯れに巌舎人の感旧に和す」(『詩鈔』巻七)と題する七絶がある。

  俊遊儀觀妙容姿  俊遊の儀観 容姿妙なり
  尚有東山舊妓知  ほ東山に旧妓の知る有り
  不分樓頭春月柳  不分なり楼頭 春月の柳
  風流張緒少年時  風流の張緒 少年の時
◯俊遊儀観 言葉は堅苦しいが、遊び慣れたる粋姿の意であろう。◯東山旧妓 ここでは祇園の老妓をいうが、その語は『世説新語』識鑒篇の「謝公、東山に在りて妓を蓄ふ」を踏まえる。〈謝公〉は、東晋の謝安。会稽の東山に隠棲していた。◯不分 東陽の『葛原詩話糾謬』に「ガウガワクと訳す」と。六朝以来の俗語。杜甫の七律「路六侍御入朝するを送る」詩に「不分なり桃花錦に勝る」とあり、『杜律詳解』に「ハラガタツマイカハ」と左訓。拙稿「津阪東陽『杜律詳解』中巻049」参照。◯春月柳 春の柳。優男の柔美な姿に喩える。東晋の王恭は、姿形美しく、「濯濯として春月の柳の如し」と評された(『世説新語』容止篇、『晋書』王恭伝)。〈濯濯〉は、みずみずしいさま。◯張緒 南斉の武帝が宮殿の前に植えられた蜀柳を賞で、「此の楊柳風流愛す可し、張緒が当年の時に似たり」と感嘆したという故事(『南史』張緒伝)に拠り、龍渓を喩える。

ちなみに、龍渓が四歳上の太田玩鷗と知り合ったのも、「花柳の巷」においてであったという(『玩鷗詠物百首』後序)。
 さてその後、龍渓との交流は、東陽が津藩に出仕してからも続いた。寛政4年(1792)に龍渓は官を辞し、粟原すなわち黒谷山の別荘に隠棲したが、それを知らされた東陽は伊賀上野にあって七律「寄せて巌舎人孟厚が栗原の別墅に退隠するを賀し、兼ねて令嗣君晳に示す二首」(『詩鈔』巻四)を作っている。
 また龍渓から作詩を続けているかと問われ、風流とは縁遠い田舎暮らしで打油詩(卑俗な詩)めいた駄作しかできず、かつては公家の詩会で指名に与った身が、今では火箸で囲炉裏の灰に字を書くありさまだと答えている。

   七絶「巌垣孟厚に答ふ」(『詩鈔』巻八)
  音書鄭重問風流  音書鄭重 風流を問ふ
  莫恠詩詞類打油  怪しむかれ詩詞の打油に類するを
  授簡王門舊賓客  簡を授く王門の旧賓客
  劃灰田舍火壚頭  灰を劃す田舎の火壚頭
◯音書 書信。手紙。◯打油 唐代、張打油が作った卑俗な詩(明・楊慎『升庵詩話』巻十四)。◯授簡 前掲「明卿を哭す」詩の語釈参照。◯田舎火壚頭 南宋・范成大の七律「南塘冬夜倡和」詩(『石湖居士詩集』巻五)に「為に問ふ灞橋風雪の裏、田舎火爐頭に何如いづれぞ」と見える。
※巌垣龍渓の略伝については、中野稽雪「巌垣長門介彦明先生略伝(前編)(中編)(後篇)」(「洛味」第221集・第222集・第223集、昭和46年2、3、4月)がある。また前掲『落栗物語』に附せられた多治比郁夫「巌垣竜渓と『落栗物語』の作者」参照。

 なお、池大雅(延享3年[1746]~安永5年[1776])に安永元年(1772)作の「楡枋園図巻」があり、龍渓の居宅を描いている。東陽が一時その隣に住んでいたというのは、この家であろうか。
 ついでに記せば、東陽は34歳上の大雅にも会っているようだ。『文集』巻七に奥田三角(元禄16年[1703]~天明3年[1783])の孫、恕堂(明和元年[1764]~文化12年[1815])の所蔵にかかる大雅「五嶽図」の箱書を認めた「大雅道人五嶽の図を観る。其の櫝蓋の背に書す」があり、「大雅池無名、本邦画品第一り。余わかくしてかつて相識る。其の人ること冲澹、性に任せて自適す。満腔子雅韻、毫も塵俗の意無し。ほとんど是れ神仙中の人。たすくるに学殖徳義の気を以てす。他人の能く及ぶこと所以ゆゑんのみ」という。この文章は、すでに森銑三「池大雅」(『森銑三著作集』第三巻「人物
篇三」。中央公論社、昭和46年)に全文が紹介されている。大雅が祇園の葛原草堂で没したのは安永5年4月13日のことで、初春以来病褥に就くことが多かったという。東陽が京で面識を得る機会があったとすれば、その最晩年ということになる。
※大雅の「楡枋園図巻」については、横尾拓真「池大雅筆『楡枋園図巻』
(大徳寺蔵)について―中国園林文化の受容と展開」(「美術史」64⑵、
平成27年)がある。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(3)
覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(5)


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