串焼きさんとこうもりおじさんのスペースでの対話(冒頭20分ほど)

こうもりおじさんと串焼きさんのスペースでの対話

発話者は省略、串焼きさんかこうもりおじさんのいずれかですが主に串焼きさんがしゃべっていました。

…ガソリン車のそういう問題があるのであれば電気自動車であったりとかハイブリッドカーを購入する、もしくは買い替えるにあたって高めの助成金を出せば良いんですよ、それで買ったほうが得ですよっていう状況を作れば「ああみんなそっちの方が良いんだ」「安く済むんだ」と思えば買えるじゃん、こういう方法だって私はあると思うんですけどなんかどうしてもそういうふうな外部性に対して規制やら強制というところがメインになっちゃうんだよね。これって不思議、これって思想的な話になるのだけど一事が万事でこういう考え方の人ってものすごく多いんですよ。促せばいいじゃん。そっちの方が得だよって思わせてあげればいいじゃんって思っちゃうんですよねわたしなんかは。


あと負の外部性についてですが、どう転ぶか予測が難しいってところを結構見落としてる人多いですよね。あの、今おっしゃった串焼きさんの提言でインセンティブを設けてそちらに促せばいいじゃんっていう方っていうのは、人間がそこをどう動くかっていうのはおおむね予測可能じゃないですか?けど、「お前これやったら罰則な」って言うのを設けた場合ってそのはその後どう動くかっていうのが非常に蓋然性の中でもばらつきが出て来ちゃうっていうのが人間窮地に陥ったら猫をかむような感じじゃないですか?追い込まれた人間て何するかわからないので。


多くの場合って例えばガソリン税の強化をしてで排ガス規制を設けましょうみたいな話をすると買い替えるというインセンティブよりも使わないっていうふうになっちゃうんですよ。そうすると本末転倒なんですよ。その分人々の生活ってどうなりますかっていうと悪くにしかならないんですよね。


でもこれって本来、外部性、例えばその給付政策に関してもそうですし公共事業に関してもそうなんだけれども、必ず何かの政策をやるにあたってはそれに対して不利益をこうむる人って必ずいるんですよ。一番典型例で言うと今回の岸田政権が今から行う予定の10万円の給付金ですよね。


子育て世代と住民税非課税世帯のやつですね。


それってそれ以外の人たちって全部除外するわけですよ。でもこれってそういう人たちからすると何も恩恵が無いんですよね。


おそらくなんですけどこの持ち出し分っていうのは、これは税は財源ではないという論を一回置いとくんですけどなぜならそういうふうに彼等が捉えてないんで置いといて欲しいんですけど、これって今回のコロナ禍に関してもそうなんだけれどもかなりの持ち出しが出てしまっているのでこれを埋めようって動きがずっと前からちょっと前から起こってるんですよ。


全方面で頑張ってらっしゃいますよね。


これは結局自分たちは恩恵はないんだけれども、将来的には自分達の課税としてのし掛かるっていう図式にもうすでになっちゃってるんですね。こうなったときに自分たちはそういう恩恵がなかったんだけれども課税負担がのし掛かってしまってつらいと言う状況の中になった時にそれで恩恵を受けていた子育て世代とかあとは住民税非課税世帯に対して どういう感情を抱きますかっていう話なんですよ。


良い感情では絶対ないですよね。


これは確実にスティグマを生みますよね。こういう状況って本来ありえないんだよ。


結局そこで区別を作って中で戦わせているっていう状況をわざわざ作っちゃってるっていうね。


はっきり言って最悪ですね。なのでこういうことをするのであれば一律に出してもう勝手に使えとそれこそ私からすると競馬に使おうがパチンコに使おうが、飲食で豪遊しようが関係ないんですよ。その人が豊かなのであればね。


でもそれによって スティグマって生まないじゃないですか


全員同じ額もらってんだから、だからそんなような形にして誰かを恨むような図式を意図的に作ってしまっているのであれば、それは大間違いだろうっていう話なんですよ。


しかもこれが、富裕層だけ、と除外して大多数の人間に配っていればまだゆってもね、お金持ってる人たちはいいんですよね、お金持ってる人たちからしたら別段それは痛くないわけですよね。そこに発生するスティグマは薄いでしょう。大多数は配られなくて本当に一握りですよね、条件だけ絞った人にしか配らないっていうのはこれはもうわざとやってるよねとしか評価できないですよね。


こういう保障原理っていう考え方もやっぱり政策をやるにあたっては重要なんですけれども残念ながら日本は一切これを考慮した形跡がないんですよ。


笑っちゃうんですけどね。


考えてやってるとは思えないことが 日々日経なんなりで 出てくるじゃないですか?マジで考えたん?っていうのは思いますよね。


このあたりの話って実はJGPかBIかみたいな話でも、似たようなことを知らず知らずやって人がいるんですよ。人を区別する、差別するっていうことを前提に考えている。その中で労働をしてるかしてないか、その労働の質まで求めてたりするじゃないですか?あの考え方はね断言するけど100%間違っているよ。


あのなんかそのJGPerの人から読めっていうふうに送られてきたPDFなんですけど、チャーネバかなんかのやつ読んだんですけど なんかね二階建てっていうかね、公共事業をする JGPとそれそれに当たらないJGPの人たちで分けるみたいな文章が書いてあったんですよね。意味不明なんですよね。今の区別からすると大問題じゃないですか?給料が変わったりとか、いろいろ出てくるんですよ。本来だったらそういった文章を見つけたら批判しなきゃいけないでしょう?


私だったら申し訳ないけどどんな学者であれ、一応経済学で私が一番影響を受けてるのはポールクルーグマンなんですけれども、もし彼が間違ったことを言ってたら全力で批判しますし、私ジョセフスティグリッツも好きなんですよ。でももし彼が間違ってたら環境の税に関しては間違っている事を批判するのが当たり前なんですよ。全権委任なんてできないでしょう?特に学術的な話なのであれば余計ですよ?まあそりゃそうですよ。


学問っていうのは論文に対して批判をするのであって、人に対して批判するわけじゃないですからね。


間違ってることは間違っているというふうな形で批判をして反証して行くのが本来の学問のあり方のはずなんですけれども、私はそういうふうに教わってきた人間ですし、そういうことをやってきた人間だからこそ、正直今の経済学のJGPだUBIだっていう流れの中でどうしてもロジックだったりとか理論だったりとかっていうことよりもそれよりも誰が言ったのか?という人を優先している人たちっていう人達が多くて正直話にならないと思っている。


そういうところはちょっと感じているかなっていう感じですね。


日本が成長しないのかって話にしても今朝話した話ではあるんだけれども、結局労働生産性っていう言葉自体も誤って伝わってるじゃないですか?


そうですね、結構労働生産性っていう言葉には幅があるんですよね。〇〇の労働生産性、資本の労働生産性などなどがありますけど何なのっていう、分かれてない人が多いですよね。


いわゆる国際比較の中では日本の労働生産性が低いっていうのは、これは日本人が怠けている働いてないって言う話じゃないんですよ、根底にあるのは日本人が働いても稼げてないっていう意味なんですよ。


いわゆる経済学的な国際比較の労働生産性っていうのは、その生産性って三種類あるんですね。今いわゆる、今話してる労働生産性っていうものと、もう一つは資本生産性というものがあります。それと労働生産性と資本生産性を足してさらに成長余地を含めたプラスアルファを含めた全体の生産性のことを総生産性っていうんですけれども、こういうふうに考えたときに問題になるのは、その人がどれだけ働いたことによって利益を企業に対して貢献していたかの話ではなくて、どれだけ稼いでますかっていうところが重要なんですよ。 その場合に言っちゃうとやっぱり日本人の労働生産性が低いっていうのは、所得を得られていない、対価を得られていないからっていう感じになるのが正解なんですよ。

でね例えば、特にひどいのが、いわゆる残業代なんかでもサビ残ってあるじゃないですか?サービス残業、所得が得られない残業が発生すると、これって国全体とかの国際比較で見た場合の労働生産性を著しく低下させるんですよ。本来0ですからね。得られる所得を得ていないって話になるから。分母だけ増えてますもんね。そうですよね。こういうことがやばいですよねって話になるんですよ。だから定義にしてもそうなんだけれども世の中でまかり通っている話と本当の意味でのその定義っていうのは結構曲解されているケースっていうのがものすごく多いなって感じてますね。


労働生産性の話で思うのは、たとえば、絵を描く人がいらっしゃるじゃないですか?例えば依頼があって描きましたっていうので、今回はタダにしといてっていうのがまかり通っているなと、それを労働生産性の話にすると、あの分子が限りなく0で、分母が絵を描いた時間なんですよね、そうするとものすごく少なくなるじゃないですか?逆にそれが一個10万円で売れて、絵を一時間で描けたとした労働生産性ってめちゃくちゃあがるんですよね。結局のところ、購買者の協力に労働生産性っていうのは寄与しうるっていうのは、誰が考えてわかると思うんですけれども、なぜかこの労働生産性の話っていうのはどこの記事でもどこのテレビ番組でも、おそらく経営側、供給側の話しか絶対出てこないんですよね。お客さんの話全然出てこないんです。


全部その話は企業ベースで、受益者側のベースで語られていて、それが一番やばいところですね。分母の話をしてないんです。


ですから、最低賃金の引き上げって私は個人的には反対ではあったりするんですけれども、そんなことよりも、最初の話に戻るんだけれども、最低賃金の引き上げって法的な、持ち出しでしかないんですよ。もちろん搾取やらなんやらっていうのが横行して規制は必要なんだけれどもそういう状況においている社会が悪い、そういう仕組みにしている、運営が悪い話でしかないんですよね。これって結局そのいわゆる、安藤さんにはこういう話すると怒られるんだけれども、労働市場って言うとね、安藤さんからすると「いや人はものじゃねえんだから市場っていうなよ」って言われちゃうんですけれども、敢えて労働市場って言わせてもらうと、労働市場って結局需要と供給ってあるじゃないですか?その中の需要面、いわゆる企業側の方の意見がずっと強い状況が続いているから、あの、どうしても理解できる人たちが増えているんだけれども、自然に需要が増えていって供給サイドが選択肢が増えていった場合ってこれって選ぶことができるんですよ、労働者側が、そうすると最低賃金ギリギリで働いているような雇用のところよりも、あの同じ自分のスキルであったりとか待遇でもっと所得のいい仕事なおかつ利便性のあるものもあればそちらに移るでしょう、と、そちらの方が、これ結局促す、あるいはお得、というふうに労働者個人個人に思わせて選択させるような形の方が社会としてはやっぱり理に適っていると思うんですよね。


高度経済成長期なんてまさにそうで、ひどい人手不足だったわけですよ、あのいわゆる供給少なくて今串焼きさんがおっしゃったような、需要がすごいあるけど、供給が凄く少ないっていう状況で、面白いのが高度経済成長期の転職率ってめちゃくちゃ高かったんですよね、それはなぜかっていったら要は、ここよりもあっちの方が待遇良いから移るっていうのが容易に出来たんですよ。


最低賃金引き上げよりもそういう状況を、個人のインセンティブを促せる状況を、つくるのが重要なんじゃないかっていうのを私は思っちゃうんですよ。


だから あの雇用規制の撤廃だとかそういうので色々リベラルと保守がドンパチ叩き合いしてるじゃないですか?でもこれ本質的な話じゃなくて、本質的な話は串焼きさんのおっしゃるようにいかに労働需要を増やしていかに労働供給量っていうのが、少ない状態でも 社会が維持できるようにするのか?っていうのが本来はね、経済論で論議の命題になるべきだと思うんですけどね。


これって、正直話題にならないの日本ぐらいのもんですよ。


やっぱそうですよね。だから完全雇用とかって話、最近のアメリカとか見てるとちょっとズレてるように思いますけれども、いずれにせよそこ気にしますよね。


そう、だから終身雇用云々っていうのが弊害になっている部分ではあるんだけれども、これは終身雇用が悪いっていうふうに言っちゃうと、それはそれで間違いなんです、なぜなら終身雇用っていう形を維持するためには、どうしてもその外側、同じような産業であったり業種の中でほかのところよりもより待遇を良くして、生活環境を良くしていくっていうことで、そのうえで終身雇用になるっていうこともありえるわけじゃないですか?出身雇用で流動性がなくなっているとかっていうのははっきり言って間違ってるんだよ。だって選択肢があれば終身雇用だろうがなんだろうがほかのところに行くから。だからそのあたりも考えるとやっぱり需要と供給っていう経済学では基礎中の基礎の部分が抜けているような議論がものすごく多いなって言うふうに私は感じていますね。


たぶん終身雇用自体も政府が要請して規制してできあがったものではなくて、自然発生的に生まれたものですよね。


そうです、例えば労働環境だったりとか人を雇う上にあたっては、それに対する生産を期待するわけじゃないですか?それに対して、個別的な弊害になるものっていうのは取り除くっていう考え方が基本にあるわけですよ。だから、どんな会社でもそれこそ比較的大手のところはストレスチェックっていうものをやってたりするでしょう?いわゆる従業員であったりとか働いているスタッフに対して診断をかけるわけです。どういうふうに思っていますか?って診療と、辛くないですか?っていうのをやるんですけど、労働関係のストレスですね。これってこういうことを抱えていると生産性落ちるからなんですよね。


これって人道的にやってるわけじゃなくて、企業の利益のためにやってるって話なんですよね。だからベースになっているのは、レイバーコストとかって考えちゃってる人達には全くもって理解できない話なんだけれども、レイバーのコストというよりは生産性の部分に重きを置いた話で、雇用の安定化。あなたはすぐ切りますよ、と言うような形になってたりすると、その人の生産性って確実に落ちるんだよ。だから結果としてうちにいてくれたら安泰ですよ、やってくださいっていうふうにやったほうが、よりそういう不安な部分っていうのがなくなるので、仕事に注力しやすくなるんですよね。もちろんそこで怠ける人も出るでしょう、でもそれってそれがすべてじゃないよねって話なんですよ。



ですから、働いてても僕貧困者なんでね。すごく分かるのが毎日金勘定するとそれだけで時間食うんですよ。本来は今の企業の中の話で言ったら仕事のことを考えてほしいんですよ。それなのに、雑念が生まれたらもったいないっていうのがね、金勘定もそうだし、例えばそれで借金とかに追われていたとして、返済に追われていたらそれがやっぱり思考の大半を占めてしまうとどうしても仕事って手につかなくなるっていうのは当たり前の話だと思うんですよ。そういう状況に人をやっちゃダメですよねっていう話です。


まったくその通りですわ。だからそういうふうに企業に政府がそれを命じることができないわけですよね。でも政府ができるのはそういった方向に企業が促されるような社会環境を作るっていうのが政府の仕事でね。


だから、規制強制よりも促すっていう、こうした方がお得だよって言うことをベースに考えた方が日本の生活というか経済というか、これ治安にも影響します。正直はっきり言ってね だから、そういうふうにしたほうがいいんじゃないかなっていうのは思うんですけどね。


いやだからそれを具体的にじゃあ何をしろっていうふうな話を言うと、僕なんかがすぐ思いつくのはできるだけ労働者が労働者としている時間を少なくして、消費者としておる時間を増やすようにする、それでまあそれには身銭にがいるわけですよ。生きて行くためにわ。 僕はBI論者なんでさっさと可処分所得を増やしてお金を配って、今の高齢者の方とかどんどん余生を働かずにどんどん消費者側に回ってくれっていうのが僕のお願いだったりするんですよ。


今ね、すごいキーワードな部分おっしゃっていて、高齢者が働いている理由って何ですかっていう、よくよく考えて欲しいんですよ。高齢者の人たちって仕事が好きだからとか、そういう人がいるもちろんいるんだけれども、生活が苦しいからみんな働くんですよ。だから 仕事が好きだかっていうことで働いている人達っていうのももちろんいるし、それが例えば自分の生活というかライフが良くなる仕事をしていればいいですよ。でも高齢者のいまの雇用ってよくよく見てくださいよ。自分の趣味であったりとかそういう生活を豊かにするようなものになってますか?幸福になれるような仕事になってますか?って話なんですよ。大多数は生きるために仕事をしなきゃいけなくなっちゃってるってところがやばいんですよ。で結果としてこういう人たちが本来余生を悠々と過ごしてないといけない人たちですよ、もう何10年も社会に貢献してきた人達なんですから、引退して老後を気にせず過ごしてくださいっていうのが定年じゃないですか?本来そうなのにその定年をしても生活が苦しいから働かなきゃいけないっていう状況を作ってしまうと退職すると飢える人が会社に残り続けるんですよ。社会的に言えば。そうするとその下の年齢層の人たちが上のポストにつけなくなっちゃうんですよ。ポストがあかないから。だからこの社会的な今抱えている管理者不足っていうのも含めて、やっぱつながってる問題なのかなっていうふうに認識してますね。

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