『MMTとプラグマティズム』書き起こし(中野剛志 講演)

中野剛志20210222講演

「プラグマティズムとMMT」

でははじめます。
 近年主流派マクロ経済分析にかわるマクロ経済分析が発展し、おおきな論争をまきおこしています。その争点のほとんどが、貨幣の起源、税の役割、財政金融政策、あるいは就業保証プログラムのようなMMTが提案する処方箋についてです。
 しかし、メタ理論レベル、すなわちMMTの哲学的基礎をめぐる論争というのはきわめてまれです。それはおそらく最近の経済学者は経済理論の哲学的側面にはほとんど興味を示さないという事情と関係しているのでしょう。
 主流派経済学では数学的、演繹的モデルに依拠するのが当然とされていますが、その数学的、演繹的方法の存在論的な前提条件の一つは原子論、あるいは個人主義、すなわち社会は孤立した原子論的な行動主体によって構成されているという見解です。

 他方でMMTがどのような哲学的基礎のうえに成り立っているのかははっきりしません。
 しかしながら、MMTをより整合的な理論にし、主流派経済学の支配的な地位を根底からゆるがすものにするためには、その強固なメタ理論的基盤を示しておく必要があると考えます。
 本日の私の発表は、MMTを支えることのできる哲学はプラグマティズムであることを明らかにすることを目指します。ここで言うプラグマティズムと言うのは、アメリカのプラグマティズムの伝統における、思考様式のことで、その主唱者はチャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズ、ジョン・デューイ、そしてジョージ・ハーバード・ミードです。ここでは主にデューイ、それからミードの弟子にあたるハーバー・ブロマーを参考にします。

 また本発表ではMMTの二つの主要な要素に的をしぼってその哲学的基礎を探求します。

 一つは信用貨幣論であり、これはMMTの出発点であるとともに、その現代貨幣理論の名前が示す通り、MMTの理論的な中核と言えます。そしてもう一つは機能的財政で、これはMMTのマクロ経済政策の理論的な枠組みを構成しているものと私は考えます。
 私はこの二つの要素に関するMMT論者の議論の中に暗示されている、哲学的な前提を明示的に扱っていくつもりです。

 最後に、MMTはプラグマティズムに支えられることでさらに理論的な整合性を増し、主流派経済学にとって代わる強力な理論になるという結論に達します。


まず信用貨幣論について。

 主流派経済学における貨幣の概念は商品貨幣論です。商品貨幣論によれば、貨幣とは貴金属のようなその内在的価値ゆえに、交換手段として使われる「モノ」として理解されます。これによれば、貨幣は支払いの際に受け取られるために、貴金属による裏付けを必要とする、と。
 歴史上、政府が自国通貨の裏付けに金や銀の準備を保有していたことがあるのは事実です。しかしながら1971年にリチャード・ニクソン大統領がドルと金の兌換を停止して以来、主権通貨は貴金属の裏付けを持っていません。もし貨幣が「もの」によって裏付けられてないならどうして受け取られるのでしょうか?
 この質問に商品貨幣論が答えるというのは至難の業です。主流派経済学の教科書に書いてある典型的な答えは、「貨幣はほとんどの人々は受けとっているから、受け取られているんだ。」というものです。
 言い換えれば、貨幣の知識は、貨幣に対する一般的な知識が支えているということです。社会学の用語でいえば、貨幣はいわゆる自己実現的予言の産物だということです。

 商品貨幣論に代わる貨幣概念はMMTが支持するもので、これが信用貨幣論です。
 信用貨幣論は、社会学者ジェフリー・インガムによれば「貨幣とは円やドルなどの計算貨幣の形で表示された信用と負債の社会的関係である」と。
大事なのは、「社会的関係」というところです。
 信用貨幣論によれば、貨幣つまり信用と負債というものは買手と売手が先渡し契約に入ったときに発生します。販売は商品を交換媒体としての別の商品と交換することではありません。商品と信用を交換することなのです。そして受け取られた信用は別の商品を購入するさいには今度は負債となります。

 このように、売買すなわち貨幣を用いた交換と言うものは、物々交換とは性質がまったく異なるということになります。

 さて、先ほど申し上げたように、貨幣は信用と負債の社会的関係の一形式です。他方で、信用と負債の関係だけであれば、誰だって形成することができてしまいます。しかし、ハイマン・ミンスキーが言ったように、「誰でも貨幣を創造できるのだが、問題はどうやってそれを受け取らせるかだ」と。
 より正確に言えば、ステファニー・ケルトンが言い換えたように、「負債の約束や、提示ならば誰でもできるのだが、問題はすすんで信用を享受してくれるモノを見つけることだ」と。

 さてこの問題をどう解決するか。MMTの答えは、主権国家が一定の支払い、特に税金ですね。税金の支払いを要求し、その支払い手段として貨幣を法定するというもので、これはゲオルグ・フリードリヒ・クナップの表券主義(カルタリズム)、表券主義に影響を受けたものです。
 表券主義によれば、「個人が国家通貨を受け取るのは国家がそれを税金や料金などとして受領することを宣言するからだ」ということになります。
 この場合、個人は国家の約束あるいは負債をもつことに合意をしているということになるわけで、こうして国家通貨は貨幣となるということです。

 今日ある種の銀行の負債、すなわち、要求払い預金もまた国家の負債、通貨と同様に貨幣として受け取られています。しかし銀行貨幣は国家通貨すなわち銀行準備と交換できますので、国家通貨こそがもっとも受け入れ可能で移転可能な負債だということになります。インガムの表現を使って言えば「国家通貨と言うものは、負債者としての国家と信用供与者としての国民との間の社会的関係だ」ということになります。

 このように表券主義は、貨幣を国家の負債とみなしているので信用貨幣論の一種だとみなすことができます。商品貨幣論と信用貨幣論の対立は近年では、貨幣の外生説と内生説の論争に姿を変えています。

 主流派経済学は商品貨幣論と関係する外生説を仮定しており、中央銀行は経済に外生的に貨幣を導入すると主張します。
 確かに主流派経済学も銀行システムが信用貨幣を創造することは知っています。しかし主流派経済学は中央銀行が準備の額を直接操作する力によってこの信用創造プロセスを操作できると信じています。準備が銀行融資や預金を乗数的に変化させるからだというのです。
 MMTは外生説に対立する内生説を支持しており、中央銀行は貨幣供給を操作できないと考えています。なぜなら、貨幣は通常の銀行融資の過程で銀行によって内生的に創造されるものだからです。言い換えれば貸し出しという行為が預金を生むのであって、主流派経済学の外生説が描いている順番とは逆だと、逆が正しいということになります。

 重要なのは、商品貨幣論と信用貨幣論、あるいは外生説と内生説、この違いは存在論的だということです。すなわち前者は貨幣を独立した原子論的な物体とみなしているのに対し、後者は貨幣を社会関係の一種とみなしているのです。
 この貨幣観の違いは、経済理論の哲学的背景の違いからくるものです。説明しますと、主流派ミクロ経済学のメタ理論的基礎は、原子論、あるいは個人主義です。つまり、人間を独立した合理的に効用最大化を行う個人と仮定します。
 特に重要なのは独立性の仮定です。主流派ミクロ経済学の個人主義モデルでは、人間とは目的と意思決定過程があらかじめ決まっていて、他の人々、より一般的には環境の影響をうけずに行動するものだという確信の上に成り立っています。
 この個人主義モデルは例えばその、商品の交換比率のようなモノとモノの関係、あるいは効用計算のようなモノと人の関係から構成されています。
 他方で人間と人間の関係、つまり、「社会関係」については交換に至るまでの価格交渉を除いては、基本的に欠落しています。しかし信用貨幣論によれば貨幣は信用と負債の「社会関係」以外のなにものでもないわけです。したがって「社会関係」の概念が存在しない主流派経済学の個人主義モデルでは、貨幣の概念を取り込むことが不可能になってしまいます。
 さらに悪いことに、1980年代以降、主流派経済学者の間では、いわゆるマクロ経済学のミクロ的基礎付けなる教義が支配的になっています。これは社会現象の適切な説明は個人主義に基礎をおかなければならないという教義です。その結果、信用負債関係としての貨幣の概念は主流派マクロ経済学の中から完全に蒸発してしまいました。

 個人主義モデルは、商品としての貨幣の概念しか持ちえません。なぜなら、モノとモノの関係か、モノと人の関係しかなく、人間は物理的物体のように独立し、孤立した、個人として仮定されています。

 既にみたとおり、商品貨幣論では不換通貨がどうして受け取られるのかを説明するのが極端に難しい、と。
 そこで、主流派経済学の典型的な教科書では自己実現的予言的に説明します。「みんなが貨幣を受け取っているから貨幣として受け取られているんだ。」という説明です。
 しかし、この自己実現的予言による説明は理論的に個人主義と矛盾します。
 個人主義は「人間は独立して行動し、他人の影響を受けない」と仮定されているからです。
 人々が貨幣の知識を共有しているという考え方は、集合的な、人間と人間の関係を前提としています。要するに不換通貨という不都合な存在は主流派マクロ経済学の個人主義的なミクロ的基礎を破壊するものなのです。

 主流派経済学が貨幣とは何かを適切に説明できないという事実はぎょっとするようなパラドクスですが、このパラドクスは実はその個人主義のメタ理論的基礎に由来しているということでございます。
 したがって、個人主義に代わるメタ理論的枠組み、人間と人間の関係を包含できるような枠組みがMMTには必要になります。
 その候補の一つがプラグマティズム、あるいはシンボリックインタラクショニズムです。

 シンボリックインタラクショニズムはアメリカのプラグマティズムの伝統、とりわけジョージ・ハーバード・ミードに多くを負っています。この用語のインタラクションとは各個人の行為は独立しているのではなく、相互に依存をしていると、つまり、「社会的」だということを意味しています。
 さらにシンボリックという形容詞は、人間の行為がジェスチャーや言語のようなシンボルの体系に依存するものとみなしているということを示しています。
 転じて表券主義(カルタリズム)というのは貨幣をシンボルとみなす思想です。カルタリズムという用語を作ったクナップはこういっています。「おそらくラテン語のカルタはチケットあるいはトークンの意味を帯びているので、我々は新しいが理解可能なカルタルという形容詞を作った」と。
「我々の支払い手段はこのトークンあるいはカルタルの形式をもつ」と。
 そしてクナップはそれらの支払い手段をシンボルと呼んでもよいとも付け加えています。
 ハーバート・ブルマーは自分が創設したシンボリックインタラクショニズムを「経験的な社会科学のために設計されたアプローチである」と強調しています。
 厳密にいえば、人間の行為が相互依存的で言語のようなシンボルの体系に依存して行動するというシンボリックインタラクショニズムの仮定自体も経験的にテストとして実証すべきかもしれませんが、そんなものは日常生活を観察すれば簡単に妥当だと判断できるでしょう。
 したがってシンボリックインタラクショニズムを基礎にした信用貨幣論は証明可能な貨幣の知識を生み出すことができるはずです。実際、歴史的な研究によれば、貨幣の起源は負債の契約、より特定すれば貨幣の形式による課税という負債であることが証明されているのです。


 次に機能的財政とプラグマティズムの関係を議論したいと思います。

 国家通貨の発行者は国家自身であるという表券主義の貨幣観は論理的帰結として、国家は貨幣を支出するのに納税者や金融市場を頼ることはない。もっと正確に言えば頼ることができないという主張に至ります。
 健全財政すなわち、均衡予算の伝統的な原則は意味をなさないということになります。健全財政に換えてMMTは機能的財政を財政政策の原則とすべきだと主張します。機能的財政のもともとのアイデアはアバ・ラーナーが1943年の論文「機能的財政と連邦債」の中で提案したものです。
 ラーナーもMMT同様、表券主義的な貨幣観を持っていました。ラーナーは機能的財政の二原則を提唱しています。
 第一原則は「その国の財とサービスに対する総支出が、供給可能なすべての財を名目価格で購入するより、多くも少なくもないような割合を維持することである」と。総支出がそれを上回ったままだとインフレになり、下回ったままだと失業が発生するというものです。
 ラーナー、加えてこの第一原則によれば、「課税はその「効果」によってのみ判断されなければならない」と。「したがって、税金は納税者が支出する貨幣を減らすのが望ましいとき、例えばインフレが起きるまで、支出してしまうときのみに課さられるべきである」と述べています。

 機能的財政の第二原則は「国民の保有する貨幣を減らし、国債を増やすことが望ましい場合に限り、政府は貨幣を借りるべきである」と。というのも「貨幣の借り入れには「効果」というものがあるからだ」と言うものです。
 逆に言えば、国内金利が高すぎる場合、政府は金利を引き下げるために、貨幣、たいていの場合は銀行準備を増やすべきだということになります。

 この機能的財政の二つの原則が意味するところは国家財政の適切さは事前評価ではなく、事後評価、すなわち財政政策の執行が経済に与える「影響」によってのみ判断できるということです。財政赤字それ自体は必ずしも悪ではありません。財政赤字はその経済に与える「影響」、例えば国民所得、物価、雇用などによって評価されるべきであります。
 対照的に健全財政の健全性は事前に評価できるし、評価すべきであるということになります。なぜなら、判断基準は予算均衡に固定されているからです。健全財政にとって、財政赤字は、常に悪であり、その経済への「影響」などは問題ではありません。
「機能的財政と連邦債」という論文の中でラーナーは次のように述べています。
「中心的な考え方は政府の財政政策、支出と課税、借入と償還、貨幣の新規発行とその回収、と言ったものは、それらの行動が経済に与える「結果」によってのみ判断されるのであり、健全か不健全かという確立した伝統的教義によるのではない」と。
「この「効果」のみで判断するという原則はスコラ哲学とは逆の、「科学の方法」として知られている多くの人間活動において適用されてきたものである」と。
「財政政策を経済における「作用」、あるいは「機能」によって判断する原則を我々は機能的財政と呼ぼう」と。

 このようにラーナーは、健全財政と機能的財政の区別を、スコラ哲学と「科学の方法」の区別になぞらえています。ラーナーのいう「科学の方法」というのは専門的な科学者の特殊なスキルということじゃなくて、知識に対する心構えや態度のことです。ラーナーは「効果」によってのみ判断するという原則を「科学の方法」とみなしています。同じような科学観を示しているのが、ジョン・デューイで、彼はそれを「実験的方法」と呼んでいます。

 デューイは言います。「実験的探求によれば、思考の対象の妥当性は、思考の対象を定義する作業の「結果」に依存する」と。デューイは自然科学の実験的手法を社会の研究や公共政策に応用することを提唱しました。デューイによれば、「政策というものは限定したプログラムの執行ではなく、作業仮説として扱われるべきである。政策の実施の「結果」を常によく観察し、観察された「結果」に基づいて用意し、柔軟に修正するという意味で、政策とは実験的なものである」と。
 このデューイの「実験的方法」を適用した公共政策の「試行錯誤」の仮定は、ラーナーが機能的財政を含む、管理経済を例えるのに、好んで使った操舵輪のメタファーを連想させるものです。

 興味深いことにラーナーは自らの管理経済の考え方を「ドグマティックな集合主義と対照的なプラグマティックな集合主義」と呼んでいます。
 ラーナーがこのプラグマティックという形容詞をアメリカのプラグマティズムを意味して使っているのかどうかは不明ですが、ラーナーの機能的財政の基本的考え方はデューイ的だといっていいでしょう。

 しかしながら、プラグマティックな政策の「実験的方法」あるいはラーナーの操舵輪のアプローチは、MMTの政策の処方箋とは相いれない、という議論もあり得ます。
 というのも、MMTの論者たちは1960年代のケインズ主義の教科書にあるファインチューニング政策に反対している一方で、操舵輪のアプローチというものはそのファインチューニングを連想させるところがあるからです。
 エリック・ティモワーニュとエル・ランダルレイによれば、「ファインチューニングは裁量的、一時的、限定的な財政金融政策の形式をとることによって、政府支出、税率、そして利子率を積極的に変化させることで、好況と不況に対処するものである」と。

「この政府介入のアプローチは、完全雇用、物価調整、低インフレと言った目標の達成のために、直接的な介入をすることを避ける。むしろ、間接的な手段を使うことで、市場参加者たちのインセンティブを微調整し、市場参加者たちが望む目標に向かって、経済を推し進めることを目指すものである」と。

 ティモワーニュとレイはこういうその裁量的な政策判断に影響されるファインチューニングはタイムラグ、信頼性、時間的一貫性の欠如といった問題を引き起こし、経済を不安定にするというミルトン・フリードマンに同意しています。
 彼らがファインチューニングの代わりとして主張するのは、政府は景気循環に対して、継続的に直接的に介入するため、金融市場を不断に監視しつつ、労働力を価格メカニズム、投資プロジェクト、直接運営する構造的なマクロ経済プログラムです。
 そしてMMTがそのような構造的マクロ経済プログラムとして推薦するのは彼らが就業保証プログラム(JGP)と呼ぶものです。

 JGPとは政府が名目価格の法定最低賃金で働く用意のあるものすべてを雇用する約束をするプログラムです。JGPは働きたい人々に対して、直接に政府が支出を行います。さらに政府の予算は、総需要を安定化させるように反循環的に機能する、と。
 というのも、不況で労働者がJGPに流れてくると、政府支出は増え、好況で民間部門がJGPから労働者を雇えるようになると、政府支出が減る、と言うことで、JGPは裁量的な政策ではなく、政治の思惑から離れた、自動安定化装置として機能する物なのです。

 ラーナーが最初に操舵輪アプローチを提唱したとき、タイムラグ、信頼性、時間的一貫性の欠如といった問題にはほとんど注意を払っていなかったことは事実です。
 さらに言えば、1970年代後半のラーナーは単純な操舵輪アプローチが、ストップ・ゴー・ストップの政策パターンになったので、高失業率と高インフレというスタグフレーションを招いたと懸念するようになりました。
 ハイマン・ミンスキーもまた、総需要管理政策はインフレのせいで、完全雇用の達成に失敗すると論じていました。代わりにミンスキーはJGPの先駆けとなるアイデアを提案していました。
 しかし、操舵輪アプローチそれ自体は必ずしもJGPの考え方と矛盾するものではありません。というのも、操舵輪アプローチとは、「効果」で判断するという原則に則ったものですけど、その「効果」には完全雇用だけではなく、経済的安定性も含まれるだろうからです。
 したがって、操舵輪アプローチが過去のストップ・ゴー・ストップ政策、あるいは世界中の直接雇用プログラムと言った、実際の政策経験の「効果」を判断して、一般的な呼び水政策を廃止して代わりにJGPを導入する、といったこともあり得ます。

 レイによれば、直接雇用プログラムの経験的証拠はたくさんあるとのことです。例えば、ニューディール政策は明示的なJGPではなかったにせよ、公共事業の形で、直接雇用創出を成功させた例です。スウェーデン、インド、南アフリカ、アルゼンチン、韓国、その他も同じような経験を持っている、とのことです。
 レイは、まさにプラグマティズムの精神に則りこう指摘しています。
「政府の財政支援による直接雇用プログラムが実際に行われた例は、数多くある。プログラムは各国の特殊事情に合わせたものにしなければならない。多くの試行錯誤の実験があるだろう」と。

 裁量的なマクロ経済運営が、ミンスキーやMMT論者が強調するように経済的不安定性とは無縁ではいられないと言うのは事実です。
 しかし、反対の極端、デューイの本のタイトルを使って言えば、「確実性の探求」へと走るべきではありません。と言うのも、多くの複雑な社会的相互作用の過程から成り立っている資本主義経済は、流動的かつ不確実であるため、合理的なマクロ経済運営における、裁量の役割を完全に排除することはできないからです。
 実際ファインチューニングに反対していた、ティモワーニュとレイは次のように認識しています。
「これは政府が、政策を実施するうえで、盲目的にルールを適用すべきという意味ではない。裁量はプログラムの機能を確実にするためになお可能である。例えば社会保障制度は構造的なプログラムだが、政府の担当者は便益を与えるかどうかを決定するのに大きな裁量権を持っている。JGPもこの種の政策の例である。しかしMMTは完全雇用政策を超えて、それが開放経済、資本(移動?)管理、投資の社会化を推進する」と。
「賃金率や利子率の管理もまた重要だ」ということです。

 さらにMMT論者は一般的な総需要の増加よりも、目標の需要に直接支出するのを好みます。財政政策の経済への影響は、支出先や課税先がどこであるかに依存するからです。
 例えば生産性が一定であれば、軍事支出というのは消費財の生産を促すための支出よりもインフレを招きやすい。あるいは、ステファニー・ケルトンは最近グリーン・ニューディールの為の公共支出を推奨しています。

 しかしながら、目標を定めた支出はあきらかに、総需要管理政策よりも、裁量的なものです。
 なぜならば、総需要管理政策であればインフレ率や失業率のようなマクロ経済パフォーマンスの定量的指標のいくつかで判断すればいいだけだからです。
 この点において、MMTの目標を定めた需要管理政策は教科書的なケインズ主義政策の総需要管理政策よりも、裁量的であると言えましょう。

 要するに、MMTは実は操舵輪アプローチそれ自体を破棄したのではなく、それをもっとプラグマティックにすることを求めているのだということです。
 逆に言えば、プラグマティズムはMMTの政策面を哲学的に支持することができるのではないかと思います。


 結論、今日の発表ではシンボリックインタラクショニズムを含むプラグマティズムは、信用貨幣論と機能的財政というMMTの二つの重要な要素に対し、適切な哲学的基礎を与えることができるということです。
 そうすることで、MMTはその批判者のみならず、提唱者ですら思っていた以上に整合性のある理論的体系を持ちうるものであります。

 また、プラグマティズムに支持されたMMT は主流派経済学よりも、経験科学の基本的な要求にこたえることができます。実際、我々日本人には誠に恥ずべき事ではありますが、レイ教授が適切にも指摘されていますように、日本は主権国家の予算に関する主流派理論は全部間違っていることを示す、完璧なケースであると(いえます)。
 赤字は高インフレを招くとは限らず、主権国家の政府は自らの債務で破綻を余儀なくされることはなく、国債の利子率は中央銀行が操作できる政策変数であり、比較的巨額の財政赤字と債務を有する日本の経験は無意識かつMMTの処方箋に従わなかったせいではあるが、主権国家の財政赤字と債務に関する、MMTの中核的な理論を証明するものである、と(言えます)。

 不幸なことに本日の私の発表は主流派経済学とMMTとの間の溝をいっそう深めるものとなるでしょう。プラグマティズムに支持されたMMTは主流派経済学の基本的な枠組みである、個人主義を否定しているので主流派経済学がMMTを受け入れるのはさらに難しくなったかもしれません。
 しかしながら、かつて、ニコラス・カルドアが言ったように、「廃絶という行為なしに、すなわち基礎的な概念的枠組みを破壊することなしには、いかなる進歩もあり得ないのだ」と。
 私の希望は、今日の分析が経済理論と政策実践の進歩にささやかながら貢献することであります。

 ご清聴ありがとうございました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

パネルディスカッション。

 岡本先生からは3つといわれたのですけれども、私は一つで。
 で、何を申し上げたいかというと、コロナは克服しなきゃいけないのですけど、他の先生がちょっとおっしゃられたように、コロナが終わった後、コロナのこの段階で財政赤字を気にせずに国民の命を助けなきゃいけないというのはおそらくさすがにコンセンサスは取れてるんですけど。そのあとどうするんだというようなことで、私が非常に心配していることはですね。

 コロナで今、需要が蒸発しているので、需要でうめるけれども、需要と供給で、需要はやるけど、供給がって議論がよくあったり、あるいは、先ほど小野先生が少しおっしゃりましたけれどもMMTは需要側なのになんで供給側の議論をしてるんだって言うようなご指摘がちょっとあったんですけれども、わたくしは需要と供給って、例えば投資とかですね。あるいは雇用を失わないようにする、失業を減らすということで、例えば労働者が労働の現場から離れない、と言うようなことは供給対策だと思ってまして、なぜならば、ずっと失業すると、スキルが落ちますので、供給力が落ちるということもありますし、公共インフラが弱ければ、効率性が下がるので供給も衰えますし、民間の設備投資は需要とカウントされたますけれども、これは将来の供給力を高める話です。
 で、コロナ、covid19もですね、後遺症っていうことがよく言われてますけれども、実はこのコロナの経済での需要の蒸発、あるいはかつてのリーマンショック、我が国のバブル崩壊もそうですけど、ああいう需要のショックというのはそのあと経済を長く、長期停滞に追い込みます。これは今度アメリカの財務長官になるジャネット・イェレンがかつて言っていたことですけれども、「需要の蒸発によって長期に供給力もおちる」と。
 したがって今回のコロナで気を付けるべきは、コロナが克服できたからもとに戻るということではなくて、ここで失業とか、廃業とかを放置するとですね、これは長く、我が国経済あるいは世界経済を停滞に追い込むので、今の短期で、不況を克服するとか、需要を創出するというのは実は長期的にも経済を安定化させる、あるいは成長させるうえで非常に重要だという風に思うのがまず申し上げたいことです。

 あと、少しちょっと、先ほどのわたくしのプレゼンテーションと小野先生のコメントについて少しだけ補足をさせていただきますと。
 わたくしあのプレゼンテーションで、これは視聴者の方も誤解されるかもしれませんけど、私あのプレゼンテーションでプラグマティズムと言ったのは「柔軟にもの事を変更してやれよ」という意味もあるんですけれども、そういう意味ではなくて、そもそも、人間というのをどういう前提でおいて考えるかということを申し上げたということでして、例えば小野先生は現代貨幣理論は理論がないとか言う風におっしゃいますけれども、それは多分理論の定義が違うのであって、わたくしのプラグマティズムの議論で申しあげたことはですね。
 主流派経済学、新古典派経済学の理論の前提が、もし方法論的個人主義であったり、あるいは信用貨幣論ではない商品貨幣論だったら、仮にその間違った前提に基づく論理において現実の相関関係を因果関係として説明できたとしても、前提が間違っているものは間違っている。それは経験的な科学にはなりえない。というようなことを申し上げたので、理論がないのではなくて、違う前提において、違う理論になっている場合は、その前提が現実に近いか、正しいか、あるいは荒唐無稽な前提を置いてるか置いてないか、そこをチェックしなくてはならないので、ちょっとそこのところだけ明確に申し上げておきたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
国際協調を実現できる政策とは?

 一分で申し上げるとですね。今回そのバイデン政権になって、バイデン大統領は日本円で200兆円ですか?1兆9000億ドルの巨額の財政支出をやるという風に言っています。それから、IMFのゲオルゲーマ専務理事もですね、もっと財政支出を出すように各国に呼び掛けたいといっているという発言も報道されていました。今回コロナ、あるいは世界的な長期停滞の危機を乗り越えるための国際協調というのは、各国で財政赤字を恐れずに、もちろん例外はあります。ユーロ採用しているところとかですね。途上国には限界があるのかもしれませんが、出せるところは出す。我が国はその出せる国の一つだという風なことで、出すべきで。もし出さないでですね、アメリカが財政出動して内需を拡大して、その内需を日本が取りに行って、GDPを伸ばそうとすると、これはいわゆる近隣窮乏化策になって、すなわちですね、我が国が財政規律、緊縮財政をやることそれ自体が国際協調を乱すと、そういうことになるのだという風に考えるべきだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?