見出し画像

「多様性を認める」の本質って。

多様性をみとめよう。

最近こういう働きかけが活発化されているように感じる。

テレビや雑誌で特集されていたり、暇つぶしにYouTubeを見ているとなぜかおすすめでいかにも一般人ユーチューバーによる動画が目につく。

LGBT、HSP、結婚しない、子供を産まない、夫婦のカタチなどなど、、

それぞれのユーチューバーが「当事者」として、ありのままの自分の姿を紹介している。

私は元々、なんでも「人それぞれだ」と思っている。

マウンティングや同調圧力が当たり前に行われている学校や会社にいると、心だけはいつも一匹狼だった。

本来、ひとは「多様性」なのが当たり前であって、今の社会の動きを見ていると、今はその「気づきの時」なんだろうなぁと思う。

今私たちが立たされている「気づきの時」は、きっと変化の前兆だ。

今、みんなが変化しようと声をあげている。

「知ってほしい。」
「分かってほしい。」

ずっと心の中で叫んでいたようなリアルな心情をYou TubeやSNSにあげる。

すると、共感する人が沢山いることにまた気付く。

じゃあ私達が今まで「良し」として見てきた模範型は何なんだったのだろう?

実はみんな心の中では「違う」と思いながら模範型に落とし込めていたのか。

そんなことを長い時間、何人もの人達が繰り返してきたんだ。

You TubeやSNSで必至に発信しようとする姿からは、どこか世の中に対する怒りが感じ取れる。

私は必至に発信しようとする彼らの姿を見ていると、何とも言い難い気持ちになる。

もちろん発信することで、世の中の「当たり前」や固定概念を覆していく働きは必要なのだろう。

ただ、これだけの人達が必至に発信しようとしているということは、まだまだ多様性が当たり前になってはいないんだなということを思い知らされることになる。

多様性が当たり前になったら、彼らがあんなに必至に発信する必要もないからだ。

SOSともとれる彼らの発信を見ながら私は、「おおそうかい、そうかい」と思う。

発信しようとしまいとも、私から見れば、そもそも彼らが彼らでいることは当然のことで、批判もなければ安易な同情もない。

彼らが彼ら本来の姿であることは当たり前なのだから。

ただごく稀にモヤモヤっとする時もある。

彼らの中には、みんなに「多様性を認めて」と言いながら、一方で本人が他人と比較してマウンティングしてしまっている人がいる。

自分と正反対もしくは比較対象の人達を悪く言う人もいる。

これじゃあ結局何も変わらないじゃないか、と非常に残念に思う。

多様性を認めるということは、自分と正反対の形を比べることなく、自分事と他人事として受け止めることだろう。

と私は思っている。

「よそはよそ、うちはうち」

思春期で反抗期真っ只中だった姉に対してよく母が言っていた言葉だ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?