ピーマンから芋虫
先日、ピーマンを切ってみると中から黒い種らしきものがでできた。
おかしいなと洗ったらボロボロと落ちた中にひときわ大きな丸いものが
ごろりと。
良くみるとそれは芋虫であった。
気持ち悪いなぁと思いながら次男を呼ぶ。
虫を愛する彼ならこの子のことも知っているのではなかろうか。
あぁ、こいつ蛾の幼虫じゃね?
やって来た息子は言う。早く外に捨ててくれと言う私に
外に奇跡的にナス科の植物が生えてない限り、こいつ生きてけないから。
生ゴミと一緒にいれときゃいいんだよ。
めんどくさそうに言う。
シンクの芋虫は先程までの快適な棲みかを探してのたくっている。
見ていてふと、あぁこれは私なのだと思った。
私は神様はいると信じている。
唐突に宗教の話なのか?と思われるだろうが、そういうことではない。
どこからか来てどこかに去っていく、生きとし生けるもののことを考えるとやっぱり誰かが私達を作ったのだと思える。
雄しべと雌しべの話にしても、学校で習うから生き物の大半はそういう増え方であり、
良くわからないが分裂して増えていく方法もあると教わる。
だけど、その仕組みを考えたものがどこか知らないところにいるんじゃないのか?と思えるので
名前もわからない、どんな姿なのかも分からない、形さえないのではないか?と思える「それ」を形容するのに「神」と言ってみる。
そんなものは想像で地球の条件が生命を誕生させる環境にあったから私達は生まれたんだという人もいるだろうけれど、地球や宇宙も偶然と言うよりも必然的に作られたものではないだろうか?
なんのために?
それこそ神様の実験なのではないだろうか?
この芋虫が私なら、それを覗き込む私が神様と言うことになる。
何が言いたいかと言えば、芋虫の命なんて、神の意向でどうにでもなる、と言うことだ。
芋虫の方では私に気がつけない。
気がつけばその醜悪な姿で私に懇願するのだろう。ピーマンをくれと。
気がつかないのは私が芋虫より高い位置から見下ろしているからなのだが、やっぱり私達を見守っている存在も、ただ私たちがどのように生きているのか見守っているのだろう。
祈れば、信じていれば救われるという宗教と「神様」という存在に対する私の捉え方の違いは
そんなことしても救ったりなんかしない
ということだ。
苦しい時の神頼みをしたところで、ただ見ているだけだろう。
もしかしたらこの芋虫も神に向かって懇願しているかもしれない。
私にはそんなもの通じないから息子に寒いベランダへと連れ出され、ナス科の植物を求めながらその生涯を終えることだろう。
そう、神様はみているけど、ただどうしていくのか見守るだけだろう。
私の様にいらないと思えば排除することもあろう。
近頃の大型台風などの自然災害は、人類が快適な暮らしを追い求めて自然破壊を繰り返した結果だ。
ただ黙って見守っている存在がある時私たちのことを
これはもう必要ないな
と思えばシンクのゴミ箱か、ベランダに捨てられる芋虫みたいになるかもしれない。
大雨や地震、津波を起こし、全てをまっさらにして一から始めるかもしれない。
気持ち悪いと醜悪な姿を晒さないでいたいと思う。
どういうことかと言えば、こころの持ちようや日々の暮らしの考え方のこと。
お天道様に顔向けできないようなことはするな
という昔の人のことばではないが、後ろ暗いことはしないようにしようと思っているということだ。
そうしたら気まぐれに助けてくれるかもしれない。
芋虫のことをググったら育てたという人が何人もいることが判明した。
こういう人は私の様に芋虫のことを気持ち悪いとは感じないから育てる気持ちにもなったのだろう。
こんなところで野垂れ死んでは可哀想だと思ったのだ。
立派に蛾になって飛んでいくところまでピーマンを与え続けるとは本当に蛾にとっては神だろう。そんなこと蛾自体が意識していないだろうけれど。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!