たとえパンに髪の毛が入っていたとしても

パンに髪の毛が入っていた。正確には練り込まれていたに近い。生地をこねた時に混じってしまったのだろう。

お腹が空いてパン屋さんで珈琲とクロワッサンのホットサンドを注文した。パン好きとはいえ、そんなトリッキーなパンを注文した自分はどうしてしまったんだろう。もっと古典的なパンが好きなはずじゃん。

そんな思考にとらわれながらもパンを食べ進め、残りあと少しというところでほんのり焦げ目のついた髪の毛が表れた。こうゆうとき僕は一瞬考え込んでしまう。

まず店員さんに言おうか。いや、やめておこう。まず明らかにこのパンを作った(こねた)のは店頭にたっている店員さんではない。もし言ったとして、店員さんも一瞬「私がこねたんじゃないしな...」と思われてしまいそうである。店員さんは悪くないのでこうゆう場合ほとんど何もいわず僕は我慢をする。

でも髪の毛が入っていたよ、というミスの指摘がパンを作る人にとっては今後同じミスを犯さないためにも重要な指摘になるかもしれない。もしお偉いさんが食べに来てそのパンに当たってしまう可能性もある。そうなったら間違いなくその担当の人は怒られてしまうだろう。最悪クビの可能性もある。いやクビはさすがにないな。それでも注意は受けるだろう。

もしかしたら、ミスを指摘しないことはミスを指摘することよりも本来優しくない行為なのかもしれない。ミスを伝えることこそが本当のやさしさなのかもしれない。優しさってなんだろうか。結局は黙ってその部分だけ残して食べ終えた。

僕はこうゆうのを伝えるのがとことん苦手だ。

昔チームメイトと一緒にスタバでフラペチーノを頼んだら、僕だけホワイトモカがきたことがある。そのときも自分からは言えなかった。結局は飲みたいもの飲めよ!とチームメイトが交換にいってくれた。優しい子だ。でもあの新人っぽかった店員さんはあとからバイトリーダーみたいなエプロンの色の違うお姉さんに裏で怒られたかもしれない。そうなったら申し訳ないことをしたなと思ってしまう。

誰にでもミスはある。ミスをしない人間はいない。ミスすることは誰にでもあるから、ミスを指摘してあげるのが本当の優しさという言葉もわかる。よくわかる。

子どもから大人になるにつれて誰も怒ってくれなくなる。だんだん指摘されなくなる。それもよくわかる。

でも僕はミスが付きものならそこまで指摘しなくてもいいんじゃないかとも思う。ミスを被ってしまった愚痴はその人の愚痴として他に吐き出せばいいのだ。僕は伝えなくて済むことはそれでいいと思ってしまっている。だって髪の毛が入っていてもたぶんお腹は下さないだろうし、フラペチーノがカフェモカになったって甘いものを飲みたいという欲求は満たされる。

僕は本当にどうしようもなく腹が立ったときだけ声を上げる。たいていは逃げたり外に吐き出せばなんとかなる。行き場のないモヤモヤした感情はピッチのうえで表現して昇華させればいい。

怒らない、指摘しないというのは人としての優しさや寛容さとかは別ものなのかもしれない、もしかしたらよくないことなのかもしれない、でも僕が日々を健やかに過ごすためには重要な手段なのだ。

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