<第30回>「番外篇」追悼:ロッテ創業者重光武雄氏  ~ その凄みとロマン(1)

 本コラムも毎週投稿を重ね30回を迎えることが出来ました。毎週投稿というのは、それなりに大変であることから、次回からは少し余裕を持って隔週にての投稿にしたいと考えています。

 さて、 暫く「コロナ禍」について書いてきましたが、第27回の「リーダーシップ」との関連もあり、30回目の節目にあたたる今回は、番外篇として本年1月19日に98歳で逝去したロッテ創業者の重光武雄氏について書きます。私が2005~2006年に千葉ロッテマリーンズの社員として何度も接し、「マリーンズ改革」(内容については拙著をご覧下さい)時の体験を踏まえて、具体的にリーダーシップというものとの関連で、氏のマネジメントの本質みたいなものについて考えてみたいと思います。

マリーンズ

       (出典:千葉ロッテマリーンズHP)

 重光武雄氏と言えば、日本においては、有名なお菓子のロッテの創業者ということになりますが、「日本統治時代の朝鮮慶尚南道蔚山郡(現・蔚山広域市)出身の在日韓国人一世で、本名は辛 格浩」とWikiの前振りにあるように、日本だけでなく、企業規模で日本のロッテ(売上約3,000億円)よりも売上で20倍以上大きく韓国の流通業を押さえる5番目の財閥である韓国のロッテを含めた、両国にまたがる巨大グループの創業者と言う方が相応しいように思います。
 もちろん、日本では「ロッテ」と言えばプロ野球チームを指すことも多く、また「辛」という一族の名を冠した「辛ラーメン」や貼るカイロなども含め、多岐にわたる企業活動を展開していることにも特徴があります。

オーナー

            (写真出典:2020年1月19日朝日新聞デジタル)

しかしながら、2005年に日本のロッテ本社に社員として入社した私(当時は、グループ内一律採用、同じ人事制度)であっても、やはり重光武雄さんは、ロッテ球団の「オーナー」であり、私たちが計画・実行する改革の決裁者であり、「パトロン」だったのです。因みに球団職員は皆、「オーナー」と呼んでいましたし、本社の社員は、親しみと畏怖の念も込めて「社長」と呼んでいました。

 私の書く「重光武雄氏追悼」は、あくまでも2005年~2006年に接する機会のあった中で実際に私自身の「体験」に基づく内容に限定させていただきますので、以下、氏に対する呼称は「オーナー」で統一いたします。

 当時、日本のロッテグループでは「オーナー」だけに代表権があり、と言うことは創業以来ずっと「オーナー」が唯一の代表者として、チューインガムの包み紙のデザインに至るまで最終決定しており(当時聞いた話では、グループ全体がそれなりに大きな会社になった当時までにはさすがに細かな決裁は下に降ろしていたが《しかし、記憶では数百万円以上は全てオーナー決裁》、かつては接待費やタクシー代は全てオーナーが伝票1枚1枚チェックしていたとのこと)、新規案件に関しては2か月ごとの「御前会議」で「オーナー」の決裁を仰ぐということになっていました。
 
 2か月に1回というのは、日本(初台のオペラハウスの本社。本妻は日本在住)にひと月、その次の月は韓国(ロッテホテルの最上階のオーナーの居室/事務スペース。子供ももうけた第二夫人は韓国)で、土日も含め毎日、日本または韓国で御前会議が開催されていたわけです。

ロッテホテル

       (写真出典:ロッテホテルHP)

 一度など、スタジアムの投資について、工事開始の日程上、どうしても日本での御前会議では間に合わないということで、オーナー代行(オーナー次男で、現在ロッテグループの後継者である昭夫氏)、球団社長と私と同僚の4人で、ロッテホテルの執務室に押しかけ、決裁をもらったことも、今から思えば懐かしい思い出です。

 因みに 「冬ソナ」の撮影場所としても有名なロッテホテルは、日本の菓子業で稼いだ資金を使って故郷の韓国で投資した事業として、その後韓国流通業半分以上のシェアを押さえ、石油化学工業などの重工業にも進出する韓国ロッテ拡大の嚆矢とも言うべきものであり、1979年に開業しています。

 毎隔月御前会議にマリーンズからは、球団社長以下部長クラス以上が出席、マリーンズ改革の実務面を仕切っていた荒木さん(当時事業部長~実質的なマリーンズ改革の中心。現在「スポーツマーケティングラボラトリー」の社長として、日本のスポーツビジネス界の第一人者。「サムライ・ジャパン」の発案、実行者としても知られる)と私(経営企画室長)が分担してプレゼンテーションを行っていました。

 御前会議で「オーナー」は緑のカーデガンを羽織り、プレゼンテーションはA4パワーポイント資料を大きく拡大印刷し、御前会議用木製手作りの紙芝居台に載せて行ったものです。当時80歳代半ばの「オーナー」は、目だけではなく、記憶力(短期記憶)には衰えが誰の眼にも明らかな状態ではありましたが、一つひとつの判断には「なるほど」と納得させる経営者としての冴えを感じさせました。


 「オーナー」が生涯に渡って行ってきた事業には、いくつかの共通点があると思っています。
箇条書きにしてみると、以下の通りです。

 ①「お口の恋人」といった当時には珍しい、顧客目線に立った親しみやすいキャッチコピーでもわかる通り、徹底した顧客目線での商品開発
 ②日本で稼いだお金を韓国で大きく投資して事業を拡大(今で言うところの「タイムマシン経営」。財閥グループによる寡占経済では財閥に次ぐような企業群が育たず、財閥が目を向けないような産業では戦後ずっと「投資不足」状態の韓国での投資は非常に有効だった。一方韓国で稼いだ資金を日本に投入することは1回もなかったとのこと)
 ③新規分野への進出、新たな国への進出においては、その分野、その地の一流の会社と合弁を組むことによって発展を加速させる(韓国での新事業開始の合弁相手として、ユニクロ、アサヒビール、キャノン、そして私も2010年代に勤めていたJTBなどもありました)
 ④人にはあまり投資をせずに、設備投資についてはここぞというときには大きな金額で投資

お口の恋人

           (写真出典:ロッテHP)


 「オーナー」の経営者としての特質について私が感じたのは、「ロマンと金儲けのバランス」ということです。

 元々戦中の日本に来た理由は、文学を志したことが理由とのことであり、社名の「ロッテ」も「若きウエルテルの悩み」の登場人物から取ったという話は有名です。「お口の恋人」というコピーについても、包み紙にまで創業者として心を配り、「コアラのマーチ」のように子供たちにも安心して渡せる商品仕立てなど、ロマンチックなセンスを彷彿とさせます。
 2005年当時から、そのころはまだ今ほど「経営理念」というものがうるさく言われない頃にもう、「ユーザーオリエンティッド(顧客視点)、オリジナリティ(新しさ)、クオリティ(品質)」を看板とする経営理念を標榜していました(現在は多少形を整備し、左記は「ロッテ バリュー」としています)。
 この「お口の恋人」というコピーは長らくロッテのお菓子ブランドを高め、ブランドイメージに大きく貢献してきましたし(私の記憶では、20世紀中、最も人々に支持された企業コピーランキングの第1位が、この「お口の恋人」でした)、重光武雄という経営者は稀代のマーケッターだったと言うことが出来るように思うのです。

 終生ロマンチックな「夢」を持ち続けきた「オーナー」は、商品だけでなく事業家に転じてからは、事業を拡大する「ロマン」をずっと追い続けてきたのではないでしょうか。

 戦中起こした切削油生産工場が連合国の爆撃によって全焼したときには自分に投資して救ってくれた日本人に借金を返し報いるために必死に働き、チューインガムに目をつけ、菓子全般に領域を広げ、野球チームを岸信介の要請に応じて保有することになり、韓国ではロッテホテル、ロッテワールドといった観光業、デパート、ショッピングセンターなどによる流通業、石油化学業への進出、アジア各国、ロシアなどへの進出・・・・一代の立志伝としては本当に約百年の人生を生き切った偉人という気がします。


 私が2005、2006年に見聞きしたことの中で、夢、ロマンということの具体的な事例としては、ロッテ葛西ゴルフ場のことに触れざるを得ません。
 ただこの話については、順番として韓国のロッテワールドのことから始めるべきでしょう。

 1997年に完成したロッテワールドは、ディズニーランドどころか大きなテーマパークのない韓国、ソウルで大評判を博しました。連日、子供たちやカップル、家族連れが訪れる一大スポットになったのです。夢とロマン好きの「オーナー」にとっては、故国に錦を飾った鼻高々のプロジェクトだったのではないでしょうか。

 「オーナー」は日本でもロッテワールドのようなテーマパークが展開できないかとずっと検討をしていたそうで、2005年当時にも検討は続いていました。

 葛西の地は、元々土地がそれほど広くなく、70年代の創業以降ドンドン事業規模を拡大してきた近隣のディズニーランドには太刀打ちできない状況が顕著となり、2006年以降のどこかで「オーナー」諦めたわけなのですが、当時は「客観的には、もうムリ。でも諦めきれない」という「オーナー」のオモチャとして、建設関係や興行企画のプロを社員として10人以上抱え、毎回の御前会議で必ずプランを出させてはダメだしをし、また次の会議に次の案を出させるというような具合で、担当チームは何十回もプランを出し続け・・・傍から見ていて「オーナー」は良い案(つまり儲けることも可能な案)は無理だと分かっているのに己のロマンチックな夢を持続し、それを検討する行為自体を楽しむように、会議を重ね・・・チームの方も、実現できないことは分かっているのに雇用は確保されているので共犯者、確信犯として企画案を出し続ける・・・という状況だったのです。

葛西ゴルフ

   (写真出典:葛西ロッテゴルフHP)

 さて、次にマリーンズ改革のことに話を戻しましょう。マリーンズ改革は、荒木さんが入社した2005年1月から始まり(私がジョインしたのは5月)、それ以降改革のプロセスに合わせて、作成した計画は1か月毎の御前会議で毎回かけられ、改革の雲行きがおかしくなる翌年の3月位まではほとんど全ての計画が連戦連勝、つまり「オーナー」の了承を得て、経営資源が投入されたのです。

 正確には「全て」ではなく、ただ1回の例外を除いてなのです。


 残念ながら書いているうちに紙幅が尽きてきました。
 
 私が体験した「ただ1回の例外」の内容、そしてその時感じた「オーナー」の「ロマンと凄さ」に関する強烈な記憶については、次回のお楽しみにしたいと思います。


<ターンアラウンド研究所https://www.turnaround.tokyo/  小寺昇二>


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