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パジャマパーティー・トゥナイト Part3

キネとミノ#7

あらすじ

夏休みの締めくくりにミノの家に泊まりに来たキネ。プリントした写真を見ながら楽しかった夏の思い出を語り合っていると、気がつけばすっかり深夜に。キネとミノ、ふたりだけのひみつの打ち明け話が始まろうとしていた。

Part3 パジャマパーティー・トゥナイト

「ふわあ。なんだかんだ今年の夏は色々あったけど、もう夏休みも終わるね〜」
「まあね。もう遅いし、そろそろあたしの部屋で寝よっか」

 ふたりはソファから立ち上がると、リビングからミノの部屋へと移動した。キネは持参した紙袋から包みを取り出すと、それを開けて中身をミノに披露した。それを見たミノは嬉しそうに言った。
「わあ、ランプシェードだね。あのとき言ってたやつだ」
「うん。あれからずっと作ってたんだけど、やっとできたんだ」

 そのランプシェードは、海で拾った天然のシーグラスと紙粘土で作られていた。これはミノからシーグラスのペンダントを貰ったキネがそのお返しに自作すると約束していたものだ。紙粘土はサンゴのような造形で水彩絵の具で淡く着色してあり、仕上げはニス塗りだった。ミノはキネお手製のランプシェードを受け取ると、コンセントを刺してスイッチを入れた。ミノは言った。

「間接照明って持ってなかったから、こういうのあったらいいなって思ってたんだ。ありがとね、キネ」
「どういたしまして。わりと上手にできたでしょ?」
「うん。よくできてるよ、これ。読書灯にも使えそうだね」
「そうそう。あとこれはわたしのアイデアなんだけど、この下の部分、じつは回るようになってるんだよ」
「ええー、すごい! 回すとどうなるの?」
「ほら、あれ。走馬灯。走馬灯みたいになる」
 キネがおかしそうな顔でそう言うと、ふたりは大笑いしてしまった。キネは笑いながら言った。
「ごめん。走馬灯ってよく言うけど、なんなんだろうね、あれは」
「それって、死ぬ前に見るやつっていう不吉なイメージしかないんだけど」
「ふふ、たしかにそうだよねえ。だけど、これ回すとけっこう綺麗なんだよ」
 キネがランプシェードを回すと、部屋の壁にくすんだ色の光がくるくると回って、部屋が不思議な雰囲気になった。まるで部屋全体がゆらゆらと揺らいでいるようだ。

清書1

「おおー。これは面白いね。あたしもやってみる」
 そう言うと、ミノは自分でランプシェードを回しはじめた。それを何度もなんどもつづけた。そうしてふたりは、しばらく無言のままでその明かりの不思議さを味わっていた。やがてふと思い出したようにキネが言った。

「ねえミノ。あの海辺で会った男の子ってさ、あれからどうなったと思う?」
「あの子? どうかな。うまくいってるといいけどね」
 ふたりはゆったりと回る明かりを見ながら、その日の出来事を思い出していた。波のさざめきや風の流れる音とともに、あの男の子のガラスのように繊細な声がふたりの耳に甦ってきた。やがてキネが言った。

「女の子にシーグラスを渡す作戦って、うまくいったかな?」
「どうだろうね。そう簡単に想いは伝わらないと思うけど」
「今度会ったら訊いてみなくちゃ。どこかでぱったり会ったらいいんだけどな」
 キネはそう言いながら両手をぐっと握りしめた。そしてあの日少し気になったことを思い出して、改めてミノの顔を見つめた。キネはすこし緊張しながら言った。
「そういえばさ。ミノって、あのときやたらと鋭かったよね。あの男の子が好きな子へのプレゼントを探してるってすぐ見抜いたし、あの子の気持ちにもかなり共感してたし」
「それは、あの子がちょっと頼りなさそうだったからじゃないかな」
「うん、たしかに放っておけないタイプだった。だけど、それだけじゃないような気がしたんだ」
「そうかな……」

 ミノは黙ってランプシェードの明かりを消すと、自分のベッドで横になった。ミノの部屋にはベッドがあったので、今日は床に客用の布団を敷いてキネのための寝床が作ってあった。ミノが横になったのを見て、キネも客用の布団にごろんと横になった。しばらく天井を見つめてからキネは言った。

「わたしね。あのとき、もしかしてミノにもそういう経験があるのかなって思ったんだ」
「どうかな。キネのほうはどうなの? あたしたちって、あんまりそういう話をしたことなかったよね」
「うーん。わたしはまだそういう経験がないし、興味もないかな。だから正直、あの男の子の気持ちはよくわかんなかったよ」
「そうか。あたしはね、なんていうか、ちょっとかわいそうになっちゃったんだ。だから手伝ってあげてもいいかなって思った。あんな感じの男の子でああいう変わった事情がなかったら、きっと嫌って言ってるよ」
「いつものミノだったら、きっと断ってるよね」
「うん。ただ、いちおう言っておくけどね。あたしはあの子みたいに、今そういうので悩んだりしてるわけじゃないんだよ。まあ、ちょっと昔の話ってことだね」
「わたしと会う前?」
「うん。そういえば、あたしたちって小中学生の頃の話もあんまりしないよね」
「たしかに! 割とすぐ仲良くなっちゃったから、いま一緒に見てるものについて話すだけでお腹いっぱいっていうか、手が回らないっていうか、あんまり昔のことが気にならないっていうか」
「そうだね……だけど、たまには昔の話をしてみるのもいいかもしれない」

 そう言うとミノはゆっくりと目を閉じた。そして回想モードに入って、昔のことを思い出してどこから話したものか考えはじめた。あんまり長い間ミノが黙っていたのでキネはついにたまらず起き上がり、ベッドに横たわるミノに言った。
「ねえ、話したくないなら話さなくていいよ。わたしはただ」
「いや、大丈夫。話せるよ」
 ミノはきっぱりとした声でそう言うと、ベッドと天井のあいだのぽっかりとした空間に向けゆっくりと話しはじめた。

 この話って、あたしはこれまで誰にもしたことないんだ。だから客観的に見てどんな感じのする話なのか、あたしにもよくわからない。でも、せっかく泊まりに来てくれたからね。うまく話せるかわからないけど、聞いてくれたらうれしい……かな。

 あたしはね、これまで一回だけ恋、みたいなものをしたことがあるんだ。みたいなものっていうのは、あたしからするとそれはみんなが言うようないいものじゃないような気がするからなんだけど。
 じゃあ、どういうものだったか? うーん、そうだね。ただ甘酸っぱかったりとか楽しいものではなくて、なにかとても理不尽なものだった、ってことは言えるかな……

 その男の子と会ったのはね、何年か前のことなんだ。あたしが中学二年生のとき。その子は夏休み明けに突然やってきた転校生だった。そう、ちょうど今くらいの時期だったってことだね。え、転校生って、なぜかかっこいいイメージがある? 

 そうかな。だけど、その子は不思議な男の子だったな。いつもみんなの輪の近くで澄ました顔して、やさしく見守っているような感じ。ちょっとみんなと雰囲気が違うっていうか、どこか大人びた男の子だった。

 あたしはそのときクラスの委員長だったから、その子を連れて学校を案内したりしてあげたんだけど、聞いてるんだか聞いてないんだかわかんないような、気のない感じでさ。これから必要になると思って色々教えてあげてるのにぜんぜん興味なさそうだから、どうしてだろうと思ったんだよ。

 でもあとでわかったんだけど、その子が転校を経験したのはそれが初めてじゃなかったんだ。何度も何度も転校して、それで今はここにいるっていう感じだった。今にして思えば、学校のどこに理科室があってどこに相談室があるかなんて情報、その子にはどうでもいいことだったんだろうね。そしてそこで出会う人も、どうせいつか離れ離れになるんだから、あんまり仲良くなんなくてもいいやっていう感じだったんだと思う。


 だけどある日、あたしが学校から帰るときにいつもとはちがう道を選んで寄り道したらね、その子がひとりでいるのを見かけたんだ。そこは錆びたブランコとか滑り台があるような、古い神社だった。境内には大きなイチョウの木があったんだけど、彼はそれが正面に見える神社の縁側に座っていた。そこで視線を落として、ノートに何かを書いているみたいだった。

 あたしは何をしてるのか気になって、近くに行ってみた。きっとすぐ気がつくだろうと思ったんだけど、すっごく集中しているみたいで、近くにあたしがいることにぜんぜん気がつかないんだ。

 あたしは、そっと後ろからノートを見てみた。そうしたら、彼が描いてたのはなんと漫画だったんだよ。意外だったね。だって、その子は漫画なんて読まさなそうな優等生タイプで、ましてや漫画を描いてるなんて思いもしなかったもの。

 それで、あたしが思わず、わあすごいって言うと、そこで彼はやっと気がついて振り向いた。そのときのびっくりした顔って今でも覚えてるな。おかしくてさ。

 ふうん。もしかして、きみって漫画家になりたいの? あたしがそう訊くと、どうかな、ただ好きなだけだよって彼は言った。よかったら読んでもいい? あたしがそう言うと、いいけど、笑っちゃだめだよと真剣な顔して言って、ノートを渡してくれた。

 それはよくあるファンタジーとかアクションものじゃなくて、学校を舞台にした漫画だったな。といっても、すこし変わってる。ふつうに学校に行ってるかと思いきや、授業が終わった男の子たちは砂漠とかクレーターみたいなところへ遊びに行ったり廃墟を探検しに行ったりして、たまに未来から来た女の子が出て来たりして。四コマもあって、けっこう面白かった。だからあたしは思わず笑っちゃったんだけど、彼はべつに怒ったりしなかった。

 面白かった? そう聞かれて、けっこう面白いと思うよって言ったら、この漫画はまだあんまり面白くないんだ、絵も下手だしって言うの。そうかな、ってあたしは言った。あたしはわりと好きだけどな。そう言ったら、じゃあ明日、以前描いたやつを持って来るよってことで、次の日もその神社で会うことになった。

 次の日、彼は何冊もノートを持って来て、それをあたしに見せてくれた。そこには、いろんな話が描いてあった。どんなのがあったかって? うーん。印象に残ってるのだと、背中に羽根が生えてきた男の子と頭にツノが生えてきちゃった女の子の話があったな。それもファンタジーじゃなくて、コメディちっくな学園ものなんだけど、ふたりとも真剣にそのことで悩んでるんだ。だって、どう考えたってそんなのがあっても悪目立ちして邪魔なだけだものね。寝るときだって大変だし。

 彼はページを捲りながら、一コマずつ内容を解説してくれた。すごく嬉しそうな顔しながら。そこまでちゃんと漫画描いてる人ってはじめて会ったから、あたしは新鮮な気持ちでそれを聞いてた。黄色くなったイチョウの葉っぱが風に吹かれてひらひらと落ちて来て、キレイだったな。

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 そういうことがあってから、あたしは学校の帰りには神社に寄って帰ることにした。雨の日以外、いや雨の日だってだいたい彼はそこで漫画を描いていたから。どうして家に帰って描かないのかなって不思議だったけど、まあきっとなにか事情があったんだろうね。深くは訊かなかった。

 あたしのほうだって家に帰っても誰もいないし、することなんて勉強するか本を読んだりするくらいだった。だから、特に用事があるとき以外はほとんど毎日行ってたね。あたしは本をカバンに入れて神社に持って行って、それを彼のとなりで読んだ。するとどんな本を読んでるのって訊かれるから、見せるでしょ。けっこう変わった本読んでるんだな、って言われたけど、あたしがわりと本を読んでるほうだってわかると一目置いてくれたみたい。

 そうやって過ごすうちに、一緒に話を考えたこともあったな。このセリフってどう、こういう展開はどう思うって訊かれて、相談に乗ったりとかね。それから、女の子のキャラクターのモデルにされたりとかもしたな。それはかなりへんな気持ちだったけど……でも、ぜんぜん嬉しくないって言ったら嘘になりそうな感じ。

 晴れた日には神社に小学生たちが集まって来てね、みんなで遊んだこともあったよ。かくれんぼしたりお鬼ごっこしたり。そういうとき最初は彼も一緒に遊ぶんだけど、いつの間にか途中で抜けて離れて、遊んでるのをスケッチしてたね。小学生って素直だから、絵を描ける人を尊敬するでしょ。みんな何やってるんだろうって見に来て、絵とか漫画を描いてるってわかったら大騒ぎだったなあ。まあ彼は、かなり迷惑そうだったけど。

 あたしはそれまで男の子と仲良くなったことがほとんどなかったから、そういう毎日はけっこう新鮮だった。楽しかったし、ずっと続けばいいなと思ってたよ。そもそもあたしは基本的に一人でいるのが好きだから、あんまり友だちも多くない。だけど、彼と一緒にいるのは平気だったな。べつにずっとおしゃべりしてるわけじゃなくて、たまにふと思いつくようなことがあると、彼はぽつりとあたしに何か言うんだ。あたしは本から目を上げてそれに答える。少し会話が続いて、またそれぞれの作業に戻る。そんな感じが居心地よかったんだろうね。

 あたし、最初はそれって当たり前のことだと思ってたんだよ。だって自然とそうなったことだったから。だけどね、秋晴れの神社である本を読んでいたら、『それがどんな瞬間であれ、それはかならず過ぎて行くものだ。それがどんな特別な瞬間であれ。そして我々にそのタイミングを選ぶことはできない』っていう一節があったんだ。あたしは、何となくそれを自分に当てはめてみた。それで、これはもしかしたらそこに書いてあるみたいな、特別なことなのかもしれない、って思ったんだ。

 だってそれまでそんなことは一度もあたしの人生に起こらなかったし、あたしたちはそのときちょうど同じ中学二年生で、たまたま彼が転校してきたのがあたしのいた学校で、振り分けられたのが同じクラスだったから出会っただけなんだよ。
 彼は自分が漫画を描いていることを、学校ではだれにも言わなかった。だからもし出会ったとしても学校で会うだけの関係だったら、あたしたちが仲良くなることはなかっただろうね。だけどあたしはぐうぜん寄り道して神社で彼を見かけて、しかもちょっと様子を見に行ったりしたから、仲良くなった。

 そんなあたしたちが秋の神社で一緒の時間を過ごしているっていうのは、掛けがえのないことなのかもしれない。あたしはそう思ったんだ。

 そのことに気がついてすぐ、あたしは彼の顔すらまともに見れなくなった。だって、彼はあたしにとって他の人とは違う、特別な人かもしれないんだから。それが恋っていうのかどうか、あたしにはわからないけど。え、向こうはこっちをどう思ってたんだろうって? うう、そんなのわかるわけないでしょ! あたしは何もしなくたって、それが勝手に続くものだと思ってたんだから……


 境内のイチョウがぜんぶ裸んぼになって黄色い葉っぱで境内が敷き詰められるころ、あたし、彼に聞いてみたんだよ。もう冬が来るね、雪が降ってきたらどこで漫画を描くのって。あたし、うちに来て描いてもいいよって言おうと思ってたんだ。あたしは鍵っ子だったし、寒いのにずっと外にいたら風邪引いちゃうからさ。でも、彼はなにも答えなかった。そしてその代わりに、あたしにノートを渡してくれた。それは、この秋のあいだに描いたものがたくさん詰まったノートだった。

 あたしはどうしてそのノートを手渡されたのか、ぜんぜん意味がわからなかった。それに、見たところ手渡した本人もどうしてあたしに渡したのか、よくわかってないみたいだった。仕方ないから、あたしたちは一緒にそのノートを捲ってみた。最初見かけたときに描いてたページとか、その神社を舞台にして描いたシーンとかが日めくりカレンダーみたいに、順番に思い出が出てくるような感じ。だけどノートにはまだ余白があったから、最後にそれはまっしろのページになった。

 あたしたちはしばらくの間、その何も書かれていないページを見ていた。すると、遠くから夕方のサイレンが鳴るのが聞こえてきた。そんなの、これまで一度も聞いたことなかったような気がしたんだけど、でもたしかにサイレンのような何かの曲のメロディのようなものが聞こえたんだよ。そしてそれが聞こえなくなるまで、あたしたちは黙っていた。

 すると突然、このノート、あげるよと彼は言った。まだ余ってるから、好きに使ってもらえばいいよって。ぼくはまた新しいノートを使うから。あたしはどうしてと訊いたけど、彼は何も答えなかった。

 そして秋が終わって冬になる前に、彼はまた転校してどこかに行ってしまった。行き先はだれも聞いてなかった。もちろんあたしも。

 どこか街の外れのほうから、かたたん、かたたんと電車の走る音が聞こえた。

「話してたら、喉乾いてきちゃった。お茶もってくるね」
 一通り話し終えたミノはそう言って暗い部屋から出て行った。 キネはシーグラスのランプシェードを点け窓を開けると、夜空を見上げながらミノが戻って来るのを待った。

 グラスをふたつ持って戻ってきたミノはベッドのうえに腰掛けた。そして二人は冷たい麦茶を飲みながらミノのベッドに並んで座った。二人ともしばらく何も言わなかったが、突然ミノは話の続きを再開した。

「そういうわけで、あたしはそれから一度もその子と会ってない。ただ、問題はそれからあとのことだったんだよ。とつぜんそういう日々が終わってしまったからかな、あたしはすこしおかしくなっちゃった」
「どうなっちゃったの?」
「うーん。それって説明するのがむずかしいんだけど……『それがどんな瞬間であれ、それはかならず過ぎて行くものだ。それがどんな特別な瞬間であれ。そして我々にそのタイミングを選ぶことはできない』。そう思うと、身動き取れないような感じになっちゃったのかな。どんな気持ちも時間も、すべては一回こっきりで終わり。続けばいいなと思うようなことがあっても、それが続くのかどうか、あたしには選べないんだって」
「うーん……」
「それだけじゃ、よくわかんないよね。そうだな。その頃のあたしは、夜になるとカーテンとシャンプーが怖くなってたね」

「カーテンとシャンプー?」
「そう。夜に部屋のカーテンを閉めきっちゃうとね、その閉塞感ていうのかな。それがとにかく嫌で、だんだん耐えきれなくなって。それで、いつもカーテンを全開にして寝るようになったな」
「ミノの部屋はマンションだから、外から見られる心配はないもんね。だけど、カーテン開けっ放しだと落ち着かなくない?」
「そうだね、落ち着かない。だから閉めておきたいような気もするんだけど、閉めたら閉めたで暗い気持ちになるんだよ。カーテンを閉めていると、その間にみんなあたしを置いて、どこかに行っちゃうんじゃないかっていう気がする。それが怖いから、せめてカーテンと窓だけは開けておくんだ。街の明かりが見えたり、外の音が聞こえてくるとちょっと安心できたから」
「なるほど……そういう、感覚的なことがだめだったんだね」
「うん。いまでも、夜にカーテンを閉めておくのはあんまり好きじゃない。ただ日中はその逆で、閉めてないと落ち着かないんだけど。シャンプーの方も同じような感覚だね。お風呂でシャンプーするときって、目を瞑るでしょ。それが怖くて、できなくなった。目を瞑っちゃうと、もうこのまま世界が終わっちゃうんじゃないかっていう気がしてくるの。目を開けたら何もかも消えて、なくなってるんじゃないかってね」
「えー、じゃあどうやってシャンプーしてたの?」
「目を瞑らなくても大丈夫なように、ハンドタオルをおでこに巻いてシャンプーしてたな。あの頃は」
「ふうん。まあ、お風呂でシャンプーするとき怖いっていうのはわかるかな。後ろに誰かいるような気がするから。でも、そういう感覚とは違うわけだよね?」
「うん。そういうのとはまた違うと思う。自分っていうのは今ここにしかいなくて、ひとつしかない。それは絶対的にひとりぼっちで、他と区別されていて、他の何とも繋がっていない。そんな感じをナイフにして、目の前に突きつけられてるような気がしてた。目を開けたらそういう感覚は和らぐんだけど、夜になるとそれから逃げるのはむずかしくなる」
「じゃあ、寝るときは? 寝るときはどうしてたの?」
「そう、あたしが寝つき悪いのはキネも知ってると思うけど、そのときは本当にひどかった。日中はまだ何かやって気を紛らわすこともできるからいいけど、寝るときはどうしても手持ちぶさたになるし目を閉じなくちゃいけないから。無理に寝ようとするより、ずっと起きてるほうが楽だったな。だから結局、まぶたが勝手に閉じて寝落ちしちゃうまでずっと起きてたよ。ほとんど寝ずに学校行くなんてこと、よくあったな」
「ミノ……」

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 キネはミノの近くに寄ると、ミノの手に自分の手を重ねた。ミノはすこし笑って言った。
「キネ。今は大丈夫だから、心配しないで」
「ミノにそういうことがあったなんて、わたしぜんぜん知らなかった」
「言ってなかったもん。誰にでもするような話じゃないから」
「今は大丈夫なんだよね?」
「うん。どうして大丈夫になったかって言うと、あたしはそれを教訓だと思うことにしたんだよ。何が特別で、何がそうじゃないのかっていうのは主観的なものだから、あたしはそういうことに意味はないって思うことにしたんだ。あたしたちにそのタイミングを選ぶことはできないっていうのは、たぶん本当のこと。この話の最初にあたしが理不尽だって言ったのは、そのことだね。あたしはそういうのに巻き込まれても平然としていられるほど強くないんだなあって思ったよ。だったら、あたしには自分で持て余しちゃうような過剰な気持ちは必要ないかな。その代わり、何も起こらない平穏な日々を望むよ。だから、あたしが誰かを好きになったことがあるとすれば、それはあのときだけっていうことにした。そしてこれからする予定も、今のところなし。ほら、安心でしょ」

「……でも、そういうのって、する予定はなくても自分でコントロールできるものなのかな」
「ねえキネ。自分に特別な人がいるってことを認めるのは、すごく勇気のいることなんだよ。あたしはそう思うな。そういう勇気って、たぶん誰もが持ってるものじゃないと思う。だからきっと友だちだって好きな人だって、そこまで特別じゃないほうがいいんだよ。あたしが生きるうえでいちばん大切にしたいのは、自分がありのままの、元気な自分でいられるってこと。それを揺さぶっちゃうような大きな存在は、作らないほうがいいんじゃないかな。だって、結局は自分がひどいことになるだけだからさ。そんなふうに不安定になるより、安定してるほうが気持ちよく毎日を過ごせるでしょ?」
「そうかもね。わたしにはよくわからないけど……」
「ごめん、なんだか喋りすぎちゃったみたい。でも最後まで聴いてくれてありがとね、キネ。さあ、あたしの話はこれでおしまい。もう寝よう」
「うん」

話し疲れたのか、 ベッドで横になったミノのほうからはすぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。一方でキネは珍しくなかなか寝ることができず、ミノの語った話を繰り返し思い出していた。

 遠くの線路から、また電車の走る音が聞こえてくる。かたたん、かたたん。ミノの家は高層にあるから、それで遠くの音がよく聞こえるのだろうか。こんな夜中に走っているのは、きっと貨物列車かな。なにを乗せて走っているんだろう……そんなことを考えながら、いつの間にかキネは眠りに落ちた。

(つづく)

さいごまで読んでいただきありがとうございます! 気に入っていただけたらうれしいです。そのかたちとしてサポートしてもらえたら、それを励みにさらにがんばります。