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バナナフィッシュにつままれた日

キネとミノ#6「バナナフィッシュにつままれた日」 

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あらすじ

ある雑貨屋さんでシーグラスについて教えてもらったキネとミノ。ふたりはさっそく夏の海へシーグラスを拾いに行く。そこでふたりは、同じものを拾っている男の子と出会う。男の子はある事情があってシーグラスを集めていると言い、ふたりに協力を乞うのだが…?

プロローグ 夏休みのはじまり

 夏休みだ。キネはその一週間ほどまえから、カレンダーの日付がほんのりと光りはじめたことに気がついていた。それは日に日に明かりを増していき、やがてはっきりとした光になった。まるで蛍光灯のように、すこし眩しさを感じるくらいに。そして夏休みに突入した瞬間、日々はほんとうに輝きはじめたのだった。そう、いよいよ待望の夏休みがやってきたのだ。

 キネとミノのふたりは、夏休みに向けてさまざまな計画を立てていた。図書館に行って開館から閉館まで一日中、まったりと時間を潰すこと。好きなバンドのライブに行ってみること。以前から気になっていた服屋さんやカフェ、ギャラリーといったお店をぜんぶ回ってみること。ふたりでお祭りに行って、一緒に花火を見ること。

 そうした計画の最後には、お泊まり会が予定されていた。夏休みの終わり頃キネはミノの家に、ミノはキネの家に泊まりに行くことになっている。どれも楽しみなことばかりだ。ふたりはそれらをひとつひとつ実行することを夢見つつも、ほんとうにぜんぶうまく行くんだろうかとちょっぴり不安に思って、落ち着かないそわそわとした日々を送っていた。

Part1 フラニーという名の雑貨屋さん

 そんなある日、ふたりは街に出たついでにあるお店へと立ち寄った。そこはふたりが春先に見つけた、「フラニー」という名前の雑貨屋さんだった。

 そのお店はひっそりとした通りの、ビルの一階にあった。若くて美人なお姉さんが店主で、置いてある品物はどれも気取ったところがなく、ふしぎと親しみが湧くものばかりだった。どの品物もあまり目立たず素朴そうなのに、一度じっくりと見はじめたらそのままずっと見ていられそうな、そんなうつくしさがあった。

 そんな雑貨たちの印象は、そのまま店の店主のイメージとも重なった。店内でふたりが品物を見ながらあれこれ話をしていると、店主はそっとその会話に参加して説明を加えてくれた。これはトロントで見つけたスノードームでしょ。それは沖縄の焼き物で、やちむんって言うの。そこのコーヒーカップはフィンランドのブランドね、プレゼントに最適! いった具合に。

 フラニーの店主は一見クールで繊細そうな顔立ちをしていたけれど、話をしてみると思いのほか気さくで親切だった。彼女はふたりがちょうど聞きたいと思う分だけのエピソードを心を込めて楽しそうに話し、それが終わるとまたふたりをそっとしておいてくれた。そして帰るときには、またいつでも見に来てね、と声をかけてくれるのだった。

 そのおかげで、あまりお金のない高校生のキネとミノも安心してお店に入ることができた。ふたりはちょっとした小物や雑貨を求めてフラニーを訪れるようになった。そして今は買えそうもない高価な品々に魅入られては、フラニーの話を聞いた。今は買えなくても、そのうち必要になる日が来るかもしれないからね、とフラニーは言った。

 フラニーという店名の由来については、本好きのキネとミノにはなんとなく思い当たる節があった。そういうタイトルの本があるのだ。直接たしかめたことはなかったけれど、いつしかふたりの間でその店主はフラニーと呼ばれるようになった。雑貨屋のフラニー姉さん、というわけだ。

 その日キネとミノがフラニーの店内に入ると、正面の季節コーナーにはきれいなガラスの品物がずらりと並んでいた。

 キリコ模様の入ったグラス、クリスタルガラスのタンブラー、グラデーションが海の風景になっている花瓶、うすく濡れた氷のように透き通ったガラスの風鈴。どれもふたりには初めて見るような品々だった。キネはため息をつくと品物に顔を近づけてミノに言った。

「ガラスってさ。毎日見てるしそこら中にあるけど、ほんとうはこんなに綺麗なんだねえ」
「うん。どれかひとつでも欲しくなっちゃうよね。でも、こういうガラス製品ってすごく高いんだよね……」
「うーん。これはたしかに、いまのわたしたちにはとっても手が出せない値段だね」

 ふたりはそれらのガラス製品には触れることすらできず、ただただ眺めるばかりだった。すると奥から、それに気づいたフラニーの店主がやってきた。フラニーは言った。
「それね。そこにあるのはたしかに高いけど、おんなじガラスでももっと安くて綺麗なのがこっちにあるから」
「ほんとうですか? うわあ、これもガラスなの?」

 そこにあったのは曇りガラスのような不思議な質感の品物だった。キネとミノはそれを手にとって見た。ペンダントになっているものがあれば、ブローチになっているものもある。何枚ものガラスを組み合わせてオブジェのようになっているものもあった。

「そう。これはシーグラスっていうガラスなの。ガラスはガラスでも、ちょっと特殊なガラスね」
「シーグラス? それって、あのシーモア・グラースと関係あるもの?」
「ちょっとキネ、そんなわけないでしょ。どうして突然小説のキャラが出てくるのよ」
「だってこの前あの小説を読んだばかりだし、響きが似てたから?」

 そのキネとミノの会話を聞いたフラニーは、笑いながら言った。
「シーモア・グラースなんてよく知ってるね。ふたりともなかなかの読書家だ。だけど、それとは関係ないよ。シーグラスっていうのは、海に行くと落ちているの。人が捨てたり、船が沈没したりして海中に沈んだガラスがバラバラの破片になって、それが長〜い時間をかけてすこしずつ削られて、丸くなりながらまた浜辺に戻ってくるの。それがシーグラスと呼ばれる、ガラスの宝石」
「じゃあ、天然のリサイクルみたいなものだね」
「そう言ってもいいかもね。人は有史以来ずっと自然を壊しつづけているけれど、自然は私たちに対して文句ひとつ言わない。それどころか、私たちにそっと返してくれるのよ。尖ったガラスもこんなに滑らかに、うつくしく仕上げてね」

フラニーの話を聞いたキネはそっとシーグラスに触れ、指で撫でた。それはひんやりとした、心地よい肌触りだった。キネは言った。
「ふうん。やっぱり、海ってすごくてえらいなあ」
「ここにあるやつは、ぜんぶ私が海で拾ってきたものなんだよ。それをこうして加工してコラージュしたり、アクセサリーにしたりして売ってるわけ」

 それを聞いたミノは、目を輝かせながらフラニーに訊いた。
「じゃあ、あたしたちも海に行けば同じものが拾えるんですか?」
「もちろんよ。たくさん見つけるにはコツと時間が必要だけど、見つけるだけなら誰にでもすぐできる。私は時間があるときにこの辺の海岸に行ってちゃちゃっと拾ってくるんだ。シーグラスは元手が掛からないわりに手を入れればこんな風なかわいいアクセサリーになるから、経営的にはありがたいのよね」
「へえ〜。ねえキネ。あたしたちも拾いに行ってみようよ」
「うん! 夏休みの計画がまたひとつ増えちゃったね」
 フラニーはシーグラスがよく見つかるスポットと拾うときのコツを教えてくれ、さらに拾ってくればそれをアクセサリーに加工してあげると請け合ってくれた。
「この店の奥に私の作業場があるの。そこで作り方を教えてあげる。自分だけのオリジナル・アクセサリーができるってわけね」
「うわあ、それは楽しみ! 夏休みの工作みたい」
「工作の自由課題があったらそのまま出せるよね」

 盛り上がるキネとミノを見て、フラニーは微笑んだ。彼女は言った。
「ところでね、さっきシーモア・グラースが出てくる、サリンジャーの小説のことを話していたでしょ。あなたたちは読んだことあるんだね」
「はい。キャッチャー・イン・ザ・ライと、それから短編集もいくつか。わたしはやっぱりライ麦畑がいちばん面白かったな。もう、ホールデンくんがかわいくてかわいくて……」
 キネがそう答えると、ミノもそれにつづいた。
「あたしも同じのを読みました。よくわからないところもあったけど、あのエズミっていう女の子が出てくるお話はすっごくよかったです」
 キネとミノの話を聞いたフラニーは、ゆっくりとふたりを見て言った。
「ふうん。私はね、いまはこうして雑貨屋をやっているけれど、本屋さんをやろうかなと思っていたこともあったんだよ。あなたたちと同じで、本が好きだったからね」
「へえ、そうなんですか。きっと本屋さんをやっていても素敵だったでしょうね」
 ミノがそう言うと、フラニーはすこしだけ複雑そうな表情を浮かべた。彼女は言った。
「そう、私はずっと本に囲まれた生活がしたかった。でもね、あるとき気がついたんだ。本は私にはちょっとうるさすぎるんじゃないか、って」

 彼女の言う『うるさい』の意味がわからなかったキネとミノはわずかに顔を見合わせた。キネは訊いた。
「本がうるさいっていうのは、どんなふうにですか?」
「うんと。つまりね、本はどれも読まれたがっているわけだよね。それは読まれるためにあるし、読むためにある。読まなかったらないのと一緒だけど、開けばそこにはその本だけの世界が広がっている。だから本はいつもしずかに、その時が来るを待っている。私は本のそういう控えめなところは好きなの。だけど、本というのはすべて言葉でできているわけよね。そして言葉というのは一種の縛りで、制約なんだ。それも数字のようなはっきりとした目安はないから、曖昧さを含んだ制約ね」
「制約?」

「そう。言葉にはものごとを区切って限定するっていう役割がある。それはわかるよね? だけどその意味するところっていうのはけっこう曖昧だったりする。人によって受け止め方が変わるからね。国や世代や性別、その人の考え方、見え方によって千差万別でしょ。だから、言葉にはさいしょから曖昧さが含まれてくる。それは言葉の宿命みたいなもの。もちろんそれが言葉の面白さなんだけど、それはやっぱりすごくむずかしいことでもあるの」

「なるほど……」
 神妙な顔でミノは頷き、キネは何も言わずに真剣な表情でフラニーの言葉を待った。

「本は、そんな言葉を山ほど使って出来ている。そこにはあらゆる情景と声、歴史と思想が込められている。もちろん、書いた人の気持ちもね。本を読むと、そうした情報が洪水みたいに流れ込んでくる。私はそれに飛び込んで、飲み込まれて自分がわからなくなって、新しく生まれ変わるような感覚が好きだった。けれど、あるときからそういうものが煩わしく感じるようになってしまったの。なにも考えられなくなって、まっさらなページだけを見ていたいと思うようになった。それがいちばん落ち着くんだ」

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「本がうるさいっていうのは、要するにそういうこと。べつに本が悪いわけじゃない。どちらかと言うと、それは私自身の問題。自分で本を売るようになったら、ますますそれから逃げられなくなっちゃうでしょ」

 そう言うと、フラニーは改めて自分のお店をゆっくりと眺めた。BGMのかからない店内では、しずかな時間が流れていた。時計の音すらしない。食器や置き物、花瓶やレターセットといったささやかな品々は窓からさんさんと届く陽光に明るく照らし出され、はっきりとした影を落としていた。

 彼女はつづけた。
「その点、ここに置いてあるようなモノはなにも言わないからいいと思うんだ。とってもしずか。でもそれは、語るものを持っていないわけじゃない。こっちから語りかけることもできるし、向こうから語りかけてくることだってある。言葉では語れないなにかをね」

「言葉では語れないないか…」
 キネはそう呟いた。
「そう。言葉にはできなくても、見ているとなにかしら気持ちが揺れ動いたり、落ち着いてきたりすることがあるでしょう。雑貨はそうやって、そっとその人の生活の一部になる。それに気がついたとき、私にはこっちの方が合ってるなって思ったんだよね。私は絵も好きだからそのうち絵も置けるようにしたいとは思ってるけど、本は置かない。本は自分の部屋にあればそれでいい。読みたいときに読めばいいんだから。都合のいい話だけど、私と本との距離感はそれくらいがちょうどいいみたい。だから私が商売をするなら本よりモノを売った方が良さそうだってことで、このお店をはじめたの」

「フラニーさんのお店には、そんな思いがあったんですね…」
 思わず口を滑らせたのは、ミノの方だった。フラニーの店主はふしぎそうな顔をした。あっ、と思ったキネはすかさずフォローを入れた。
「そういえば、わたしたちフラニーさんって呼んでるんです。ふたりでこのお店のことを話しているときとか、勝手に」
 ふたりが申し訳なさそうにしていると、その若い店主はふっと笑って言った。
「いいよ、好きなように呼んでもらえば。店主がその店の名前で呼ばれるのは、べつにおかしなことじゃない。お客さんのなかには、ほんとうに私がフラニーって名前だと思っているひともいるんだ。どっからどう見ても日本人なのにね」
 彼女がそう言うと、ほっとしたキネとミノはおかしそうに笑った。フラニーはつづけた。
「この時期の海はほんとうに暑いからね。かならず帽子を被って、飲み物を持って行くように。それと、くれぐれもバナナフィッシュには気をつけてね」
「はーい」
 キネとミノは声を揃えて返事をした。そうした成り行きで、ふたりは海に行ってシーグラス探しをすることになったのだった。

Part2 シーグラスを拾いに行こう!

 その翌日。快晴のなか、ふたりはさっそく電車で海に向かっていた。
 ミノはミモレ丈のシャツワンピースに麦わら帽子。キネはノースリーブのTシャツにスカート、キャップという夏らしい格好だ。電車のなかでうきうき顔のキネは言った。

「ふたりで海に行くなんてはじめてだね」
「そうだね。みんなはよく海に行って泳いだとか話してるけど、あたしはあんまり海が好きじゃないからな。カナヅチだし」
「そうなの? わたしはけっこう海で泳ぐの好きだけど。海水だと浮かぶから、プールより泳ぎやすいんだよ」
「学校でプールに入らされるでしょ。あれ、むかしから苦手なんだよね。だいたい、水着になるのが好きじゃない。そりゃハダカよりはマシだけど、あんなのほとんどハダカと一緒だよ。それに海は紫外線で肌が痛むし、髪はキシキシになるし、おまけに砂が家までくっついてくるし……」
「まあそう言われるとそうかもねえ。あ、もしかして今日海に行くのも嫌だった?」
「ううん。だって今日は海に入らないでしょ? それにあのキレイなシーグラスは拾ってみたいし、今日はキネも一緒だし」
「だったらよかった。ミノにつらい思いしてほしくないもん」
「ふふ、ありがと。キネはやさしいね」

 海の近くの駅を降りると、そこはかとなく潮の匂いがした。フラニーに教えてもらった場所は、浜茶屋が並んでスピーカーから音楽が流れライフセーバーが常駐しているような海水浴向けのビーチから離れたところにあった。

 観光ビーチには水着の人がたくさんいたけれど、そのあたりまで行くとほとんど人は見当たらなかった。どこまでも続く砂浜と海が、ありのままに広がっている。

「きっとこの辺だね。ここの砂浜は、あっちよりも小石とかが多い感じ」
 そこには流木や、海水で漂白され色素の抜けたゴミや、海藻、干からびた魚にその他よくわからないものがたくさん流れ着いていた。

「あ、これってクラゲじゃない? すっごくキレイ!」
 キネは波打ち際に落ちていた透明なゼリー状のものを見つけて言った。よく見ると、何体ものクラゲが無力にも砂浜まで打ち上げられている。キネはそれを指で触ろうとした。
「キネ、触っちゃダメだよ! 毒を持っているのもいるんだからね」
「でもこれ、ぷるぷるしてそう」
 キネはしゃがんだまま、ミノを見上げて懇願するように言った。それでもミノは表情を変えずに言った。
「ダメだってば。そこらの棒でいじりなさい」

 ふたりはそばに落ちていた棒切れを拾うと、それでしばらくクラゲを突っついたり、ひっくり返したりして遊んだ。キネは言った。
「クラゲってかわいいよねえ。気持ちよくぷかぷか漂ってたら、いつの間にかこんな砂浜まで流れ着いちゃったりして」
「うん、水族館で見るとキレイだしね。さて、クラゲはこれくらいにしてそろそろ本命を探しますか」
 ミノはそう言うと立ち上がり、ふたりは手にした棒で砂浜をなぞりながらシーグラスを探しはじめた。あたりを見渡しながらキネは言った。
「ええと。たしか波打ち際じゃなくて、ちょっと離れたところにある波あとラインに混ざってるって言ってたな」
「わあ、貝殻がたくさんある! 見て、これとかピンク色」
 ミノは貝殻を拾ってキネに見せた。
「おおー。こういう貝殻もアクセサリーになりそう」
「ね。キレイなやつはぜんぶ拾ってこう」
「あ! これシーグラスじゃない?」
 そう言うと、キネは鈍く光る小さなガラスの欠片を拾い上げた。
「あ、あたしも見つけた! わあ、ホントにこうやって落ちてるんだね!」
「うん。すごいすごい! こっちにもある。あっちにも!」

 小さな漂着物が作った波のラインに沿って、ふたりは次々と小さなシーグラスを見つけて拾い上げた。キネは言った。
「たしか、色でレア度が変わるんだよね。赤とかオレンジがレアなんだっけ」
「まあ、もとはぜんぶ何らかのガラス製品なんだし、ふつうに考えてあんまりガラスで見かけない色の方が貴重なんだろうね。これとか、もとはなんだったんだろう。茶色のはビール瓶とかかな?」
「百年以上むかしのガラスかもしれないよね。ううん、もっと昔の可能性もあるかも」
「いちばん大きくてキレイなのをアクセサリーにして、ほかのはコラージュにしよう。たくさん拾えたら紙粘土でペン立てとか、ランプシェードも作れそうだね」
 ふたりは持ってきた網袋にシーグラスや貝殻や、その他のキレイな石やなにかの欠片を集めていった。こうして一見ゴミだらけの砂浜は、ふたりには宝の山となった。

 しばらくシーグラス拾いをしてから、ふたりはちょうど良いところに大きな流木を見つけ、そこに並んで座った。そして海を見ながら持参したペットボトルの水を飲んだ。

 ミノは言った。
「海って、やっぱりいいよねえ……」
「あれ、ミノは海が嫌いなんじゃなかったの?」
 いたずらっぽくキネがそう言うと、ミノはやさしく笑った。
「入るのはね。見るのは大好き。なんでも遠くから見るのがいちばんだよ。入ったり触ったりしたらめんどくさくて、ツラいだけ」
「じゃあ波打ち際で遊ぶのは? わたしは波に足を入れたときの、あの砂が足のうらをさらさら洗ってくれる感じが好きなんだ」
「いいと思うよ。だけどその感覚って、もう何年も味わってないな」
「だったら、いま味わってみよう! 行くよ、ミノ!」

 キネはそう言って立ち上がると、波打ち際に向かって駆け出した。キネは砂のうえで靴と靴下を脱ぐと、その健康的な素足を渚にさっと差し入れた。
「これこれ。この感触は海ならではだよね〜」
「もうキネ。濡らしちゃうとあとあと面倒なのに」
「そんなの気にしてたらもったいないよ。ミノもやってみて」
「しかたないな……」

 結局ミノも靴と靴下を脱いで、白い素足をそっと波間に入れた。するとすぐに波が来てあたたかい海水がミノの足首を浸し、つづく引き波が砂の冷たい感触を呼び起こしてサイダーのようにしゅわしゅわと去っていった。
「うわ、くすぐったい」
「でしょ。でもこれがいいんだよ。よし、もうちょっと入ってみよう」
 そう言うとキネはスカートをたくし上げ、膝が浸かるあたりまで攻めた。うしろからミノが言った。
「あんまり沖の方まで行くと、急に深くなったりするから危ないよ。下手するとパンツまで濡れちゃうし」

 このミノの忠告が聞こえていないようすで、キネは海面を見つめていた。
「ねえミノ。きっとバナナフィッシュってこのあたりにいるんだよね。どんな魚なのかな?」
「だから、それはあの小説の空想でしょ。シーモア・グラースの」
 ミノはそう言いながらもなんとなくキネのあとを追って、すねが浸かるあたりまで沖へと入った。彼女はつづけた。
「たしか、バナナが大好きなんだよね。それでバナナがたくさん詰まった穴を見つけるとそこに入ってバナナを食い散らかすんだけど、そのせいで熱病にかかって死んじゃうっていう話だっけ」
「そうそう。わたしは思うんだけど、もしそんな魚がほんとにいたらすぐ絶滅しちゃうんじゃないかな。好物を食べただけで凶暴化したあげく死んじゃうなんて、あんまりな話だよ」
「寓話みたいなものだと思うけどな。生き物のサガみたいなものの。ふだんはおとなしいのに、バナナを見つけると凶暴になる。だからバナナっていうのは、多分なにかの喩えなんだよ。欲望とか暴力、お金とか名誉とか、そういうもののね。それを純粋で嘘をつかないはずの小さな女の子が見えたなんて言ってしまったから、あんな結末になっちゃったんだよ」

清書_part2

 キネはスカートをたくし上げたまま視線を落とし、揺れる海面を覗き込んだ。まるで見えない魚を探しているような格好だ。キネは言った。
「あの話ってさ、面白いっていうよりも怖いよね。すごく不穏な空気がずっと流れてるし」
「まあね。だからあたし、あの話はあんまり好きじゃない」
「だよね。だけどわたしが思うに、きっとバナナフィッシュだって楽しく気ままに生きる方法はあるんじゃないかな。バナナなんて食べずに、もっと体にいいものを食べなきゃ。そんな熱病になっちゃうようなものを自分から食べるんじゃなく、我慢してさ。じゃなきゃ絶滅しちゃうもん」
「そうだね……あ! それよりキネ、大きい波が来たよ!」
「わわ、あぶない!」

 ふたりは慌てて砂浜へと逃げたが、どうやらキネは間に合わなかったようだ。ミノは膝を濡らした程度で済んだが、キネはスカートとパンツまでやられてしまった。
「やれやれ。まあ、どうせ汗で濡れてるからいいや」
「だから言ったでしょ。沖まで行ったら危ないって」
 ミノはそう言いながらバッグからタオルを取り出して、キネに渡した。キネはそれで足を拭きながら言った。
「風も吹いてることだし、暑いからすぐ乾くよ。それにこういうのも思い出になるからね」
「どうしていつもそう前向きなのか……ってキネ、こんなところでそんなにスカートひらひらしちゃだめでしょ!」
「だってだれも見てないし、こうしたほうが早く乾くでしょ」
 濡れた下着を乾かそうとスカートを風にたなびかせるキネの代わりに、恥ずかしがりながらミノは言った。
「もう。やれやれはこっちのセリフだよ、ほんとに」

Part3 渚で出会った男の子

 そんなふうに浜辺ではしゃいでいると、向こうから人影が近づいてくるのにキネは気がついた。

 その人物は波打ち際からほど近い漂着物のラインを辿りながら、しゃがみこんではなにかを拾ってたり、それを捨てたりしていた。どうやら男の子のようだ。その男子はキネとミノよりもすこしだけ幼いように見えた。中学生三年生くらいだろうか。

 男の子は拾ったものを真剣な眼差しで見定め、納得のいくものだけをビニール袋に入れていた。しかし見たところ、袋に入れるものより捨てるもののほうが多かった。そのせいだろうか、男の子はふらふらとして頼りなさげに見えた。まだスカートをひらひらさせて乾燥中だったキネは言った。

「ねえミノ。もしかして、あの子もシーグラスを探してるみたい」
「そうかもね。こういうのに興味ある男子もいるんだ」
 ミノは感心したように言った。そうこう話している間にも、男の子との距離はすこしずつ縮まっていく。ようやく靴を履き直したキネは言った。
「どうする? ちょっと話しかけてみる?」
「ええー。まあべつにいいけど、あたしはしゃべらないからね」
 ミノは軽く難色を示したが、キネは言った。
「まあまあ。これもなにかの縁だよ。もし同じことしてたらすごい偶然だもんね」

 キネはすたすたとしゃがんでいる男の子に近づいていくと、元気な声で話しかけた。
「こんにちは! なにか拾えますか?」
 男の子はキネの声を聞いてやっと、自分のほかに人がいることに気がついたようだ。彼は視線を砂浜からあげて、目の前にいるふたりの女の子を見つめた。何が起こったのか、まだよくわかっていない顔をしていた。
「えっ? なにかって?」
「なにか拾ってるんだよね?」
 キネはそう言うと、相手が持っている袋を指差した。
「ああ、これ。うん、シーグラスっていうのを探してるんだ」
「やっぱり! じつはわたしたちも同じの拾ってるんだ」
 キネは自分の網袋からシーグラスを取り出し、手のひらに載せた。男の子は言った。
「うわ、すごい。こんなにたくさん、よく見つけられたね」
「そうでしょ。コツがあるんだよ、コツが」
「ふうん。ぼくはまだこれだけしか拾ってないのに」
 男の子はそう言うと自分のシーグラスを取り出した。そこにはたった三個だけの小さな白いシーグラスと、磁器の欠片のようなものが何個かあるだけだった。キネは言った。
「じゃあコツを教えてあげようか。でも、これを拾ってどうするの? 夏休みの宿題にするとか?」
「そんなんじゃないよ。たぶんこれだと思って探してるんだけど、ほんとうはこれじゃないのかもしれないし」
「どういうこと?」
 キネは不思議そうな顔で訊いた。
「たしかシーグラスって聞いたような気がするんだよね。それでネットで調べたら砂浜で拾えるってあったから、とりあえず拾いに来てみたってわけ」

 それを聞いても不思議そうな顔のままのキネは、質問を重ねた。
「まだよくわかんないな。それ、だれに聞いたの?」
「うんと、クラスの女の子からだね」
 男の子は気恥ずかしそうに答えた。ミノはキネのうしろに隠れて、両手を後ろに組んでその会話を聞いていた。そしてそこではじめて口を開いた。
「もしかして、拾ったシーグラスをその子にあげる……とか?」

 このするどいミノの言葉を聞くと、男の子は狼狽したようすで手を振りながら答えた。
「えっ! いや、そんなんじゃないよ。そんなんじゃないけど、なにかわからないけどうまくいって、チャンスがあったりなかったりしたら、もしかしたらそうなるかもしれないけど……」
「すごいミノ! どうしてわかったの?」
「なんとなくね。見てればわかるよ」
 ミノがそう言うと、男の子は落ち着かなさそうに言った。
「あげるかどうかはまだ決めてないんだ。そもそも見つかるかどうかすらわからなかったんだから、どうやって渡すかなんてぜんぜん考えてないし」
 キネは興味を持ったようすで、男の子に言った。
「ふんふん。その話、できたらもっと詳しく聞きたいな」
「ええ……でも、べつに面白い話じゃないと思うよ」
「面白くなくても大丈夫。あっちにちょうどいい天然のベンチがあるから、そっちで話そうよ」

 キネに導かれて、男の子は先ほどの流木があるところまで連れて行かれた。三人はそこに腰かけると、真正面に海を見ながら話を再開した。男の子は言った。
「あのね。面白い面白くない以前に、うまく話せないと思うんだ。ぼくの思い込みというか、ただの聞き間違いかもしれないから」
「だったら、とりあえずさいしょから話してみて。よくわからないところは質問するから」
 流木の真ん中に座ったキネがそう答えると、そのとなりの男の子は困ったようすで海を眺めた。そしてどう話したものか、しばらく考えていた。やがて彼は言った。

清書_part3

「その子はね、いつも本を読んでいるんだ。ほとんどだれとも喋らない。ぼくは何度か話しかけたことがあったけれど、会話がぜんぜん続かなくてさ。うまくいかなかった。だけど夏休みの前に先生が来られなくなって、英語の授業が自習になったことがあってね。授業の代わりにだれでもいいからペアになって、英語で話をしてみようってことになったんだ」

「なるほど。きみは英語が得意なの?」
「いや、それがぜんぜん。でも彼女はすごく頭が良くて、英語の成績もトップクラスなんだ。発音もネイティブみたいで、単語がきれいにつながって聞こえる。正直なところ、英会話のレベルはぼくと彼女じゃちっとも釣り合わない。それはわかってるけど、それでもぼくは彼女とペアになった。だって、そんなチャンスはそうそう巡ってくるものじゃないでしょ?」
「そうかな? 話したいならふつうに話しかければいいんじゃないの? ちょっとくらい話が続かなくてもさ」

 キネがそう言うと、男の子の代わりにミノが答えた。
「いや、とくに用事もないのに男子が女子に話しかけるのはそう簡単じゃないんだよ」
 ミノの言葉を聞いた男の子は、何度もうなずいて言った。
「そうそう。それにさっきも言ったけど、ふだん無口な子だから。でもね、それが英語で話すとなるとまったく違うっていうことがそのとき初めてわかったわけ。いつもは続かない会話が、英語だとちっとも途切れないんだ。向こうからどんどん喋ってきてくれて」

 キネはその女の子の姿を想像しながら言った。
「英語のほうが自分を出しやすいのかな?」
「そうかもしれない。だけどぼくのほうは話を追うので精一杯だった。それでもぼくはこの機会を逃すまいと思って、いろんな話を振ってみたさ。夏休みの予定は、とか、いま何を読んでるのかとかさ。クラスの連中は英語で話すのなんて途中でやめてしまって普通のおしゃべりをしていたけど、ぼくと彼女だけはチャイムが鳴るまでずっと英語で話をしていた」
「おお、なんか青春って感じだね。その子はどんな本が好きなの?」
「それを聞いたら彼女はカバンから本を出して、ぼくに見せてくれた。それがなんと、英語の本だったんだよね。翻訳を読んでみて面白かったから、原文で読んでるのっていうんだ」
「へえー! そんなに面白いなんて、なんの本だったのかな?」
「たしかセブンだかエイト・ストーリーズっていう本だったな。短編集らしいけど」
「あれ? それってあの本のこと?」
 キネとミノは顔を見合わせた。ミノは言った。
「たぶん、サリンジャーのナイン・ストーリーズのことだよね」
「だよね。だったら、わたしたちと趣味が合うかもしれない。ああいうのを読む人って少ないし」

 この会話を聞いて、男の子は言った。
「なにか数字のタイトルだと思ったんだけど、ナインだったような気もするな。彼女は、その本のいちばん最初と最後の話が好きなんだって。で、そのあたりから話がむずかしくなって頭もいっぱいになってきてよくわからなかったんだけど、バナナフィッシュがどうとか、シーグラスっていうのに興味があるから、それについてもっとよく調べたいって言ってたと思うんだ」
「バナナフィッシュとシーグラス……? それって、ほんとにシーグラスかしら」
 ミノがそう呟くと、キネもうなずいた。
「もしや、シーモア・グラースのことじゃないかな。この子、わたしと同じ勘違いをしているのかも」

 キネはフラニーでの一幕を思い出した。彼女もシーグラスとシーモア・グラースを関係あるものだと思ったのだ。頭がいっぱいな状態で流暢に英語で話されたら、聞き間違えてもおかしくはない。なにしろ、本のタイトルすら記憶があやふやなくらいだ。キネは男の子に言った。

「でもそれはともかく、きみはその子がシーグラスに興味があると思ったんだよね。それがどうして拾ってあげることにつながるの?」
「うーんと、つまりね。それがなにかのきっかけになればいいなと思ったんだよ」
「きっかけ? なんの?」
 キネは顔いっぱいにハテナマークを浮かべて男の子に顔を近づけた。再びミノが助け舟を出した。
「あのねキネ。ようするに、この子はその女の子のことが好きなんだよ」
「ええ? これってそういう話なの?」
 キネがびっくりした顔でそう言うと、ミノはあきれた顔で言った。
「そりゃそうでしょ。だれが好きでもない相手にわざわざこんな暑い日にシーグラス拾ってあげるのよ」

 キネはやっとすっきりした顔になると、ぽんと手を叩いて言った。
「そっか、そういうことなんだ。これで線が一本につながったよ。わたし、いまいち話がよくわからなかったんだよね。つまり、今日拾ったやつを好きな子へのプレゼントにするってことだ」
 男の子はうなずいてから言った。
「うまくいけば、だけど。それで、その子は青が好きなんだ。それも深い青が。群青っていうのかウルトラマリンっていうのかよく知らないけど、持っている小物や靴がいつもそんな色だったから。だから、どうせなら青いシーグラスを見つけようと思ったわけ」
「いいねえ。いい話だよ。それはがんばらなくちゃ!」
「どうも……はあ、ぼくはどうしてこんなことを知らない女の子に話しているんだろう?」
「まあまあ、これもなにかの縁だよ」
 ため息をつき頭を垂れた男の子をキネがなぐさめると、ミノが言った。

「でも、きみが探してる深い青のシーグラスってけっこうレアなやつなんじゃないかな? シーグラスにはよく見つかるやつと、なかなか見つからないレアな色のやつがあるんだよ」
「たしかに水色っぽいのはいくつか拾ったけど、青いのはまだ見つけてないもんね」
 三人はそれぞれで集めたシーグラスを改めて見てみたが、深いブルーのものはひとかけらもなかった。ミノは言った。
「やっぱり。もしかすると、探すの大変かもしれないね」
 男の子はふたりを見て言った。
「きみたちはシーグラスに詳しいんだな。ぼくの話はこんなもんだし、そろそろ拾い方を教えてよ」
「どうする、ミノ?」
 キネはミノのほうを向いて彼女に訊いた。ミノは座ったまま砂を左手で掬うと、それをすこしずつ風のなかに流し込んでいった。まるでその答えを砂の動きに求めているかのようだ。手のなかの砂をひとつ残らず流し終えると、ミノは言った。
「……いいよ。まあ、悪い子じゃなさそうだし」
「だって。じゃあ、一緒に拾ってみようか」
「よかった。助かるよ」
 こうしてキネとミノは、波打ち際で出会った男の子と一緒にシーグラス拾いをすることになったのだった。

Part4 バナナフィッシュにつままれた日

 その男の子は素朴な少年だった。どこかのんびりとした雰囲気で、動きもゆったりとしていた。そしてその男の子は、キネとミノの隣町に住んでいるということがわかった。年齢はふたりの一個下。つまり高校一年生だ。キネは男の子に訊いた。

「ねえ、その子とはどんなふうに知り合ったの?」
「ええ……それはべつに話さなくてもいいだろ?」
「でも気になるよねえ、ミノ?」
 ミノは手のひらに載せた石を物色しながら言った。
「まあ、もっと情報があればアドバイスくらいはできるかもしれないよね。いちおう同い年くらいの女の子がふたりも揃ってるわけだし」
「そうきたか……でも、それもそうだ」

 男の子は納得したようすで、シーグラス探しを続けながら話しはじめた。
「初めて会ったのは、たしか入学式の日だったな。ぼくが彼女を見かけたのは教室だった。彼女はさいしょから印象的だったんだ。姿勢がすごく良くて、髪は長くてまっすぐ。彼女は自己紹介のときに、私は学校が好きじゃありません。だから、だれとも仲良くなりたくありません、と言った。クラス中がしーんとなって、だれも拍手なんてできなかった。だけどぼくはそれを聞いて、逆に感心しちゃったんだ。わざわざそんなことを自分から告知するなんて、ある意味では誠実なような気がして。そして彼女はその言葉どおり、だれとも仲良くならなかった。いつもひとりで本を読んでいるばかりさ」
「つまりその子は、自分から孤立する道を選んだってことか」

「うん。彼女はそんなふうに人を寄せ付けない部分がある。だけど面白いところもあるんだよ。いつだったか、国語の授業で詩を書かされたことがあって。彼女はトースターについての詩を書いたんだ。真夜中のトースターが、夜が明けて朝が来ると勝手に体が熱くなって、パンを突っ込まれて、焦げ臭くなるのが憂鬱だと言って嘆いている、みたいな。それはとてもユニークな詩だった。でも、ぼくはそれがすごく面白いなって思った。それからかなあ、話しかけてみるようになったのは」
「ええ、それでその子のことが気になるようになったんだ?」
「そう。でも、ぼくも困ってるんだよ。誰かを好きになったのなんてはじめてのことだし、どうしたらいいかも、どうなりたいかもよくわからないっていうかさ」
「ふーん。男の子って、そういうこと考えてるんだね」
 キネが感心したように言うと、男の子はすこし投げやりな調子で答えた。
「他のやつのことは知らないけどね。この話だって、ぼくは他の誰にもしてない。言ったって冷やかされるだけだし、その子が嫌な思いをすることになったら困るから」

 その話を聞いていたミノは、先ほど聞き忘れていたことがあったのを思い出した。
「そういえばその子って、あのナイン・ストーリーズの最初と最後の話が好きだって言ってたんだよね?」
「うん。なぜだかとても好きで惹かれるんだって」
「そうなんだ。でもあのふたつの話って、どっちもけっこう衝撃的な話なんだよ。読んでみればわかると思うけど」
 このミノの言葉を聞いて、男の子は興味深げに言った。
「さっきから話を聞いてると、きみたちは同じ本を読んだことがあるみたいだね」
「まあ、いちおう図書委員ですから。ふたりとも」
 キネがすこしだけ自慢げにそう言うと、男の子は感心したように言った。
「なるほどね。そういえばあの子、話の最後のほうでバナナフィッシュがどうとか言ってたな。バナナフィッシュが頭のなかに入って来るんだって、そう聞き取れたような気がする。これってどういう意味だかわかる?」
「バナナフィッシュが頭のなかに入って来る?」
「そう。それがすごく怖いんだって」

清書_part4_修正1

 キネとミノは不安そうに顔を見合わせた。キネは言った。
「その子、大丈夫なのかな? ほんとうにひとりも友だちいないの? なんか心配になってきた」
「ぼくの知るかぎり男で親しいやつはいないし、同性の友だちもいないと思う。授業が終わるとすぐ帰っちゃうし、だれかと遊んでるっていう話も聞いたことがない。彼女は真面目すぎるような気がする。あんまり笑わないし」

「そうなんだ。まさか、いじめられたりはしてないよね?」
「うーん……そう、そういう状況になってるんだ。消極的な女の子って標的になりやすいんだよ。付き合い悪いっていう感じで、目をつけられる。目の敵にするやつがひとりいると、なにも考えずそれに従うやつらが出てくるんだ。そうしないと自分が標的になるから。だから彼女は、クラスにはいないものとして扱われている」

 男の子の話を聞いて、キネはため息をついて言った。
「はあ。どこの学校も一緒だね。ひとりひとりはまともでも、集団になるとおかしなことになるんだよ」
 そう力なく呟いたキネにつづいてミノも言った。
「クラスのなかで孤立するのって、結構キツいんだよ。あたしはわりとひとりでも平気なほうだけど、それってひとりでどこかに行ったりするのは大丈夫っていうことだからね。集団のなかでひとりっていうのは、それとはぜんぜん違う」
「普通はそうだよね。だけど、彼女はそれで傷ついたり泣いたりなんてしないんだよ。すると、ますますクラスからは無視されるようになる。ぼくが気が付いていないだけで、もしかするとなにかもっとひどいことも起きているのかもしれない。ただ、いじめられてるっていうのも、ある意味では仕方ないような気がするんだ。そういう状況は彼女自身が招いたものでもあるから。だから彼女はそういうこともあんまり気にしていないっていうか、わりと大丈夫なように見えるんだけど」
「そんなわけないと思うけどなあ。そう見えるからって、そうだとは限らないよ。それに、いじめられてるのはその子のせいじゃない。いじめてるほうに問題があると、わたしは思うよ」

 キネがそう言うと、男の子は黙って考え込んでしまった。するとミノが言った。
「次にその子に会えるのって、夏休み明けになるの?」
「いや。途中で一度学校に行く日があるから、そのときに会えるんじゃないかな」
「そのときになにかしらコンタクトを取ったほうがいいんじゃないかな。夏休み明けってけっこう鬼門だから。とりあえず今日拾ったシーグラスを渡してみるとかして」
 ミノはそう勧めたが、男の子は複雑な表情で答えた。
「そのつもりだけど、女の子ってよくわからないんだ。だってさっきも言ったけど、いくらぼくが話しかけたって、話が続かないんだもの。あの英語の自習のときがはじめてだったんだ、まともに話になったのは」
「そういう性格の子だったら、男の子と教室で話すのは嫌なのかな。恥ずかしいっていうか、放っておいてほしいっていうか」
 ミノはその女の子のことを想像しながら言った。男の子は手を止め、海の方を見て呟くように言った。
「そうなのかな。だとしたら、青いシーグラスを見つけてもあげずに終わるかもしれない。どう言って渡せばいいのかわからないし、受け取ってくれるかもわからない。教室でとつぜん英語で話しかけるわけにもいかないし」

 ふたりはそのようすを想像してみた。男の子の言うように、それはたしかにむずかしいことのように思えた。キネは言った。
「うーん。むずかしいね」
「むずかしいよ。彼女のことを考えると家にいたって何も手につかないし、勉強だって身が入らない。彼女と英語で話をしたときのことははっきりと覚えているけれど、それもまるでぼくの夢だったみたいに感じるんだ。現実味がないっていうかさ。手がかりと言えそうなものは、ぼくの頭のなかに残ったシーグラスっていう言葉だけ。だからぼくは行き場がなくて、こうして海へ来たわけさ。勘違いかもしれなくて、見つかるかもわからないものを探すために……」
 男の子はそう言ってとつぜん立ち上がると、手にした石ころを海の方に向かって投げた。石は波打ち際まで届いたが、海までは届かなかった。男の子は言った。
「見つかったところで、どうするかもわからないのにね」
 キネとミノは顔を見合わせた。キネは言った。
「どうするかは、見つかってから考えようよ」
「あたしもそう思う。見つかってもないのに悩んだって、意味ないもの」
 男の子はふたりの顔をちらりと見ただけで、返事をしなかった。そしてまたしゃがみこんでシーグラスを探しはじめた。それからしばらく、三人は無言のままだった。

 太陽が西に傾いてきた。キネとミノは日焼け止めを塗り直し、男の子は自動販売機まで行って三人分の水を買って来てくれた。キネはシーグラスを手のひらに乗せて言った。
「なかなか見つからないもんだね」
 深い青のシーグラスは、まだ見つかっていない。キネの手にあるのは白や緑、水色や茶色のシーグラスだった。それを見たミノは、ふと思いついたように言った。
「こうやって並べるとさ、シーグラスってちょっと美味しそうに見えない?」
「ほんとだ。こういう感じのお菓子ってあるよね。琥珀糖だっけ? ジェリービーンズにも似てるかも。どれ、シーグラスのお味は……」
 キネはそう言うとシーグラスを指でつまんでぺろりと舐めた。恐る恐るミノは訊いた。
「……何味?」
「うん。これは海味、でしょ」
 そのようすを見ていた男の子は、苦笑しながら言った。
「やっぱり女の子ってよくわからないな。どうしてガラスを食べようだなんて発想になるんだろ」
「だってキレイで美味しそうだったし、発想は自由なほうがいいでしょ」
 キネがすこしふくれた様子で反論すると、男の子は言った。
「いや、べつに否定してるわけじゃないよ。そういうの悪くないと思う。でもガラスを食べるなんてやつがいるとしたら、それはきっと空想上の生き物だろうけど」
「ほんとうに食べようとしてるわけじゃなくて、試してみないと収まらないだけなんだよ。キネは」

 ミノは当たり前のことを言ってキネを擁護したが、当の本人はそれを聞いていなかった。キネは海のはるか上でかがやく太陽を見て呟いた。
「そっか、空想上の生き物か」
「キネ?」
 キネは立ち上がると、うれしそうな顔で言った。
「ずっと考えてたんだけどさ、やっとわかったよ。さっきのバナナフィッシュの話だけど、バナナフィッシュはバナナじゃなくて、シーグラスを食べればよかったんだ。空想上の生き物らしくこのキレイなシーグラスを食べれば、熱病にかかったり凶暴になったりもせず穏やかに生きられるんじゃないかな……っていま思いついた」
「それ、すてきな発想! うん、いかにもキネらしい思いつきではあるけど」
 ミノも立ち上がってそう言うと、キネの考えに賛同を示した。キネは言った。
「そうでしょ。いちおう筋は通ってるんじゃないかな、これ」
 うなずきながらミノは言った。
「そうなると、シーグラスはバナナフィッシュから身を護るお守りになるかもね。それを持っているとバナナフィッシュがやって来たって、暴れたりせずおとなしいままなんだから」
「そうかも! だったら、やっぱりその女の子にはキレイなシーグラスをあげなくちゃ」

カラー表紙_修正1

 そんなふうに盛り上がるキネとミノを、しゃがんだままの男の子は不思議そうな顔で見ていた。
「それ、いったい何の話……?」
「つまりね、きみはまずあの本を読むんだよ。そうしたらわたしたちの話していることもわかるし、その子と話すきっかけにもなる。まあ、勘違いにも気がつくかもしれないけど、とにかくシーグラスはその子にお守りとしてプレゼントするわけ」
 キネがそう言うと、男の子は神妙な顔でうなずいた。
「最後はよくわかんないけど、同じ本を読んでみるっていうのはいいアイディアだね。喜んでくれるかもしれない」
「本が好きな子だったら、きっとうれしいと思うよ。おすすめの本とか聞いたら、いろいろ教えてくれるんじゃないかな」
 ミノがそう言うと、男の子はうなずいた。
「わかった、読んでみる。さっき話していて思ったんだけどさ、ぼくは彼女とまず友だちになりたいんだよ。彼女はぼくのしらないことを、たくさん知っているような気がするから……」

 男の子は話しながらもずっとシーグラス探しを続けていた。そして男の子がそう言い終えたとき、サファイアのように青く光る石が彼の目に入った。男の子はそれを指でつまんで言った。

「青いシーグラスだ!」
 思わず立ち上がった男の子が拾ったものを目の前にかざすと、それを見た三人は思わず歓声をあげた。キネは言った。
「わあ、すごくキレイ!」
「うん、この色はきっと彼女に似合うと思う。これを渡すのが良さそうだね」
「よかったね。あたしたちもたくさん集まったし」
「うん。ほんとうに助かったよ。なにもお礼できないのが残念だけど」
 男の子がほんとうに残念そうな表情を浮かべると、キネは手を振りながら答えた。
「いいよ、たくさん話を聞かせてもらったから。それより、その女の子とうまく行くといいね」
「うん。だけど今日は、きみたちからたくさんヒントをもらったような気がするな」
「それって役に立ちそう?」
「たぶん。これをお守りとして渡せばいいんだよね?」
「そう言ってさりげなく渡して、本の話をしてみたらいいんじゃないかな」
 ミノがそう答えると、男の子は晴れやかな顔でうなずいた。
「ありがとう、そうしてみる。じゃあ、ぼくはお腹も空いたしもう行くよ。またどこかで会えたらいいね」
「住んでるところも近いし、また縁があれば会えるんじゃないかな」
 そう言ったキネにつづいて、意外にも名残惜しそうな表情でミノが言った。
「そのときは、それからどうなったか教えてほしいな」
「もちろん。約束するよ」

 そして男の子はじゃあね、と言ってふたりに別れを告げると、さいしょ来たように波打ち際を歩いて行った。ただし、今度はふらふらとせずにまっすぐに歩いた。それをしばらく見送ってからキネとミノはその反対側に向かって歩き出し、はしゃぎながら帰路に着いた。

エピローグ ふたりの宝石箱

「そうそう。そうやって水に浸した状態でゆっくり穴を開けていくと、うまくいくよ」
 雑貨店フラニーの奥で、ふたりはシーグラスを使ったアクセサリー作りを体験中だ。フラニーは店を閉めたあとにシーグラスを持ってきたキネとミノを奥の作業場まで案内してくれて、そこで作業がレクチャーされた。

 作業場は店の事務所も兼ねているようで書類棚やノートパソコンもあったが、部屋の中心にあるのは作業用の大きなデスクだった。デスクにはいくつかの工具が仲の良い家族のように並んでいた。端のほうにはシンクもあるので、水を使っての作業もできるようになっている。
 ここでフラニーが作ったアクセサリーや雑貨は、店でも販売されていた。最初は仕入れだけだったんだけど、見ているうちに自分でも作りたくなってね、とフラニーは言った。

 シーグラスのアクセサリー作りは、まず拾ったシーグラスを洗うところからはじまる。ザルに入れたシーグラスをお湯と洗剤でキレイに洗って、クッキングペーパーで水分を取り除く。
 そうやって塩気を落としたシーグラスは針金を巻きつければ簡単なペンダントにすることができるし、道具があれば穴を開けてより本格的なアクセサリーにも加工できる。ふたりはまずさいしょに針金でペンダントを作ってから、つづけて穴を開ける工程に取り掛かっていた。

 穴を開けるときには、リューターと呼ばれる小型のドリルを使う。フラニーはまず自分で一度やって見せてからふたりのとなりに立って、その使い方を教えた。フラニーはキネに言った。
「力を入れすぎると割れちゃったりするからね。焦らずにすこしずつ穴を開けるのがコツだよ」
「わわ、けっこうむずかしいですね。あっ、欠けちゃった」
「ちょっと勢いが良すぎるんだ。よく見てて、こうするの」
 一方ミノはさいしょから上手にガラスに穴を開けた。キネは言った。
「ミノは器用だなあ。すごいね!」
「あたしはこういう手仕事はけっこう得意なんだよ。運動関係は苦手だけど」
 しかし何度か教わるうちに、キネもすぐコツを覚えたようだ。ふたりは色と形の良いシーグラスを選んでそれに穴を開けると、その穴にシルバーのチェーンを通してオリジナルのペンダントに仕上げた。

 そうして出来上がったペンダントを身につけると、ふたりはお互いにそのすがたを見て歓声をあげた。
「わあ、すごくいい感じ。自然の素材みたいに馴染みますね」
 ミノがそう言うと、ふたりのすがたを見たフラニーは目を細めて言った。
「うんうん、ふたりともよく似合ってるよ。今回は女の子らしくチェーンを使ってみたけど、麻紐とか革紐で作っても素朴な感じが出てかわいいんだ」
 鏡に映った自分のすがたを見てキネは言った。

「ねえミノ。わたしたちも誰かから、こういうのをもらったりする日が来るのかな?」
「どうだろうね。キネは男の子からプレゼントが欲しいの?」
「うーん。まだあんまり考えられないけど、わたしはどっちかって言うとものをもらうのより、あげる方が好きだからなあ。そんなに欲しいものもないし……」
「そのうちそういう日が来るのかもしれないけどね。でも、今はあたしからプレゼントしてあげる。ほら、レアもので作ったやつ」
 ミノはそう言うとペンダントに加工したオレンジ色のシーグラスをキネに渡した。キネはびっくりして言った。
「わあ、こんなの見つけてたんだ。だけどせっかく珍しいやつなのに、もらっちゃ悪いよ」
「いいから。このシーグラスはね、見つけたときにすごくキネっぽいなあって思ったんだ。だから、さいしょからあげようって決めてたんだよね」
「そうなんだ。ほんとうにいいの?」
「うん。きっと似合うと思うよ。さあ、付けてみて」

清書_part5_修正2

 キネはミノからペンダントを受け取ると、それを身につけた。それは卵型のあたたかいオレンジ色のシーグラスで、キネにぴったりだった。ミノは言った。
「ほら、似合うでしょ。すごくかわいいよ」
 そう言われたキネは照れたように頭を掻いた。
「ほんとうにありがとう。そうだ。わたしお礼に家でランプシェードを作ってくるから、それをミノにあげるね」
「ありがとう。楽しみにしてる」
 そうして、ふたりにはまた新しい宝物ができた。フラニーはそのやりとりを、作業するフリをしながらやさしい表情で見守っていた。

 キネとミノ、ふたりの夏休みはまだこれからだ。

(おわり)

テキスト:マキタ・ユウスケ
イラスト:まりな

次回予告#7『パジャマパーティー・トゥナイト』

さまざまなことがありながらも、楽しい夏休みを終えようとしているキネとミノ。二人は夏休みの最後にそれぞれの家に泊まりに行き、パジャマ姿で夏休みの思い出を語り合う。そしてキネはミノに、ミノはキネにそれぞれの秘密を打ち明けるのだが……?
乞うご期待!

さいごまで読んでいただきありがとうございます! 気に入っていただけたらうれしいです。そのかたちとしてサポートしてもらえたら、それを励みにさらにがんばります。